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01 朱色のワタシ *暴力表現有

 
 鏡の前で、鮮やかな朱色を唇に塗りたくる。べったりとした油っぽい感触が嫌いだと蔑み憎んでいたのは、何年前までのことだろうか。今はこんなにも自分にしっくりくる感触はない。粘着質で生温い顕示欲に満ちていて、そうして何処か滑稽。
 
 もともと唇は赤いのに、どうして更に赤く見せようとするんだろう。それをぽつりと零したら、朝子ママは「赤って食欲をそそる色らしいわよ。食欲と性欲って似た者同士じゃない? 赤い色を唇に塗るっていうのは、私を食べてって気持ちの象徴みたいなものよ」と言った。ヒナコは、その時、あまりの羞恥心に、カッと頭に血が昇るのを感じた。だとしたら、きっとこんな鮮やかな朱色を塗りたくった自分は、きっと性欲の塊のように見えていることだろう。浅ましい欲求不満を曝け出しているようで、そのみっともなさに涙が滲んできそうだった。
 
 そんな気持ちを押し隠して、ヒナコは笑う。酔っ払いのサラリーマンを相手に、酒臭い息を至近距離から吐きかけられながら、にこにこと愛想笑いを浮かべる。平日の午前四時を回って、店もそろそろ閉店が迫っている。周りに客はおらず、店員もあらかた帰宅してしまい、今は朝子ママとヒナコだけしか残っていない。それなのに、この酔っ払いだけが未練がましく帰ろうとせずヒナコに絡んでくる。
 
 ニューハーフになら何をしても良いと思っているのか、突然膨らんだ胸を片手で遠慮なく握り締められる。ヒナコは三年前に手術をして胸を作っていたから、鷲掴まれればそれなりに痛む。顰めそうになる眉を堪えて、わざとらしく甲高い声をあげる。
 
 
「ちょっと脇田さん、いたぁぃー」
「どうせ偽物だろうがよォ! このオカマァ!」
「ひどぉい!」
 
 
 簡単に投げ付けられる侮蔑の言葉に、ヒナコは傷付いていないフリをして笑い声をあげる。ニューハーフには人権がないとでも思っているんだろうか。こういう道を自分で選んだ以上、何を言われても当然だとでも思っているんだろうか。
 
 巫山戯んな畜生、地獄に堕ちろハゲジジイ!
 
 腹の底で喚き散らす。真っ赤なマグマが体内をとくとくと流れている。ワタシは、身体の中まで赤い。ヒナコは、そう胸の中で独りごちた。胸をぎゅうぎゅう掴まれる。痛い、痛い、痛い。笑みを崩したら今にでも嗚咽を零してしまいそうな唇から、馬鹿みたいにはしゃいだ声をあげる。
 
 
「ほんとに痛いんだってばぁ。もぉ止めてくださいよぉー」
 
 
 唇が震える。割り切れ。割り切るの。これは仕事、これは仕方ない事、こんな痛みには慣れてしまう事。だけど、この痛みが一生ワタシの人生に付き纏うの? もしそうだとしたら、ワタシは今すぐ消えてしまいたい。身体の内側で悲鳴が迸る。
 
 
「んなこと言って、偽チチもまれて感じてんだろおがよぉ。おら、喘げオカマ、喘げ」
 
 
 下卑た笑い声をあげながら、両手で胸をぎゅううと握り潰される。あまりの痛みに、目蓋の裏で火花が散る。赤い光がチカチカと点滅するのに、咽喉がヒッと掠れた音を零した。それを喘ぎ声だと勘違いしたのか、男は更に握る力を強めてくる。
 
 
「よがってんのかよオカマァ」
 
 
 もう笑い声もあげられない。それなのに朱色の唇だけが笑おうと、痙攣する。それが自分自身、苦しいぐらい惨めったらしい。痛い、苦しい、痛いよう―――
 
 不意に、ガギッという鈍い音が響いた。涙で滲んだ視界に、つい今しがたまでヒナコの胸を掴んでいた男が床へと転げ落ちている姿が映る。床を転がる酔っ払いの前に、目尻に深い皺を刻んだ男が立っていた。背が高く、なで肩で、猫背気味な体付きはひょろりと細長い。固く握り締められた筋張った拳に、稲光のような青白い血管が浮かんでいた。
 
 
「お客様、うちの子が美人だからってセクハラは止めて下さい」
 
 
 男の声は酷く掠れていて、鼓膜にざらりとした感触を残した。妙な例えかもしれないけれども、砂漠の砂粒をフライパンで炒めたらこんな声をあげるだろうと思った。
 
 酔っ払いがもんどり打って床を転がり回る。その痛がりようから、男の殴打が予想以上に強烈なものだった事を知る。そのひょろ長い身体からは、想像も付かないけれども。
 
 
「うがっ、ぅぇ……!」
「お客様、聞いてらっしゃいますか?」
 
 
 平坦に、無表情に、男は問い掛けた。床を転がる酔っ払いを足で止めると、その頬をぐりぐりと爪先で踏み躙る。酔っ払いの頬は、見るも無惨に腫れ上がっていた。その腫れた部分を重点的にいたぶっているようだ。執拗なまでの痛め付け方に、暴力に慣れた人間なんだとヒナコは思った。思った瞬間に、背筋が粟立つのを感じた。
 
 
「ぎゃ、客だ、ぞッ…!」
 
 
 酔っ払いが喚き声をあげる。その濁った声に、不快感が煽られる。男は一度頬を指先でぽりぽりと掻いてから、酔っ払いの頬を弄くっていた靴の爪先を、その口の中へと突っ込んだ。酔っ払いが、ぐげぇ、とえずき、四肢を暴れさせる。それなのに、男は更に奥へ奥へと、爪先を酔っ払いの口へと押し込んで行く。酔っ払いの口がまるで鯉のように大きく開かれている。それは、何処か滑稽な光景だった。
 
 
「貴方の今この場の価値は、貴方が客だと言うことだけだ。だけど、その価値も今なくなった。オーナーの私がアンタを客だと認めない。だから、今のアンタの価値は0だ」
 
 
 男は、噛んで含めるように言った。酔っ払いの目が大きく見開かれる。ギチギチに開かれた唇の端が切れて、血が滲み出ていた。朱色だ。ヒナコは、不意にそう思った。男は、流れ出した血を興味なさそうにちらりと見遣ってから、その爪先を抜いた。革靴の先端が唾液でてらてらと光っている。酔っ払いが大袈裟に咳き込みながら、素早い動きで床へと平伏す。
 
 
「……す、ずぃま゛せん゛っ!」
「すいませんじゃあ解りませんよ。文章には、主語と述語というものが必要だと言う事を、アンタも先生から教わってきたでしょう? 一体何がすいませんなんですか?」
「ぜ、せぐはら゛、してっ…!」
「それは述語でしょう? 主語は何ですか?」
「あ、あなだのどころ゛の、店員に、ぜ、ぜくはら、じてっ…!」
「それじゃ、アンタが謝る相手は?」
 
 
 酔っ払いの涙ぐんで真っ赤になった目がヒナコへと向けられる。その切実な眼差しに、ヒナコはぎょっと身体を強張らせた。まるでゴキブリのような動きで、酔っ払いが床を這いずって、ヒナコへと近寄って来る。そうして、その額をぐいぐいとヒナコの靴の爪先に押し付けた。
 
 
「ず、ずいまぜ゛ん゛ぇじたぁ!」
 
 
 謝罪の言葉は、涙声で酷く聞き取り難かった。顔を引き攣らせたヒナコを、男が冷めた目でじっと見つめる。
 
 
「いい?」
「え…?」
「許したげる?」
 
 
 問い掛けの言葉に、考える間もなく頷く。男は、ヒナコから視線を逸らした。
 
 
「許してあげるってさ」
 
 
 男の口調は、途端ぶっきらぼうになった。まるで拗ねた不良のような言い方だと、ヒナコは思った。
 
 
「あっ、がとっ、ざいます!」
 
 
 酔っ払いが爪先に額を押し付けたまま、体育会系のノリで叫ぶ。その馬鹿馬鹿しくも切実な声に、思わず脱力してしまう。丸められた酔っ払いの尻を、急かすように男が爪先で突く。
 
 
「帰っていいよ」
 
 
 男の言葉、酔っ払いがひぃひぃと呻きながら転がるように店から出て行く。面倒くさそうにその後ろ姿を眺めてから、男はヒナコの向かい側の席へと腰を下ろした。
 
 真っ正面から見ると、思っていたよりも存在感の薄い男だった。やや吊り上がった一重瞼に、肉の削げた輪郭、甘さのない四十代半ばの酷薄な顔立ち。男は、酔っ払いが忘れて行ったであろう煙草の箱を手に取って、軽く前後に振った。カサカサと紙が揺れる音が聞こえる。
 
 
「殆ど残ってないな」
 
 
 ぼやきながら、煙草を一本取り出す。口に銜えたところで、ヒナコは慌ててライターを差し出した。それを制するように、男がライターを押しのける。
 
 
「そういうのいいから。好きじゃないんだ」
 
 
 まるで子供の言い分のようだと思う。ヒナコは、暫く無言のまま男を見詰めた。男はテーブルの上から【あさこ】と書かれたマッチを拾うと、自分の手で煙草に火をつけた。気怠そうに紫煙を吐き出してから、長閑に欠伸を零す。先ほどまでの暴力を綺麗さっぱり忘れたかのような落ち着いた仕草だった。
 
 カウンターにいた朝子ママが近寄って来る。いつの間にか午前五時を回っている。いつもはきちんと着こなされた朝子ママの着物が微かに乱れているのは、そのせいだろう。それでも、朝子ママの美しさに欠片もくすんだ様子はない。以前は男だったとは思えないほど、朝子ママの美貌は際立っていた。
 
 
「田丸さん、やり過ぎじゃない?」
 
 
 困惑を含んだ朝子ママの声に、田丸と呼ばれた男がのんびりと首を傾げる。
 
 
「やり過ぎ?」
「ほら、これ」
 
 
 朝子ママが床から何か拾い上げる。指先大の白い塊で、少し赤い色がこびり付いている。それが歯だと気付いた瞬間、ヒナコはビクリと肩を震わせた。
 
 
「歯か。上の歯か下の歯か判らないから投げようがないな」
 
 
 紫煙を吐き出しながら、田丸が冗談のような言葉を吐き出す。だが、おどけている様子はない。
 
 
「馬鹿言わないで。こんなの捨てちゃうわよ」
 
 
 朝子ママは溜息を付きながら、ビールの泡がこびり付いたグラスに摘んだ歯を放り込んだ。僅かばかり残ったビールに、ぽちゃんと間抜けな音が響く。田丸は、ビールに浮かぶ歯をぼんやりと眺めたまま、上の空で呟いた。
 
 
「悪かったな、オーナーだとか言って。ああ言った方が早く済むと思ったんだ」
「別にいいわよ、そんなこと。どうせ二度と来ないわ。そのために田丸さんにお願いしたんだから」
 
 
 朝子ママの言葉に、ヒナコは目を大きく開いた。朝子ママは一度バツが悪そうに顔を歪めてから、顔の前で両手を合わせた。
 
 
「ごめんね、ヒナちゃん。あのお客さん、前からいろんな子に絡んだりするし、最近はお店の支払いも渋るようになってたから…」
「だから、用心棒が出てきて追い払った」
 
 
 短くなった煙草を灰皿に押し付けながら、田丸が言う。用心棒の言葉に、ヒナコはそっと首を傾けた。
 
 
「そのために毎月高い家賃払ってんだもの。当然よ」
「ヤクザもんにそんな事言うのは、朝子さんぐらいだよ」
 
 
 田丸が咽喉を微かな笑いに震わせる。だが、その表情はピクリとも動かない。まるで顔面に鉄の仮面でも貼り付けているようだ。ヤクザもんという台詞に、ヒナコは顔を強張らせた。その僅かな恐怖を感じ取ったのか、田丸がヒナコへと視線を向ける。
 
 
「ヤクザといっても、しみったれたもんだ」
「何言ってるの。誠闘会の大幹部じゃない」
「いつ抜けようかともたもたしてたら、いつの間にか押し出されてただけだ。タイミングが悪いんだ俺は」
「タイミング悪く、ニューハーフバーの迷惑客のあしらいに駆り出されるぐらいだしね。お礼に何か奢るわ。とっておきの地酒があるから、ちょっと待ってて」
 
 
 気安い仕草で朝子ママは、田丸の背中を叩いた。田丸は少しくすぐったそうに目を細めた。朝子ママが店の奥へと歩いて行く。この場には、田丸とヒナコの二人だけになってしまった。田丸はテーブルの上の水滴を指先でなぞりながら、視線も向けぬままに呟いた。
 
 
「ヒナコっていうのは、何処から付けたんだ?」
「え?」
「名前のユライ」
 
 
 由来のアクセントが妙な調子だった。語尾が上がり調子で、何だか緊張しているように聞こえる。田丸は口を真一文字に結んだ後、掌で口を覆った。
 
 
「俺、変な言い方した?」
「…すこし」
「嫌だな。いつも組の奴らとしか喋らないから、女と喋ると緊張するんだ」
「…ワタシ、身体は男ですよ」
 
 
 田丸の視線がヒナコへと向けられる。不意に、心臓が跳ねた。そうして、田丸はふっと唇を緩めて、こう言った。
 
 
「でも、あんたは綺麗だ」
 
 
 心が震えた。吐き出す息が短く浅くなる。これは、お世辞だろうか。酔っ払ったお客が冗談混じりに言うリップサービスみたいなものだろうか。だけど、こんなにも真摯に、真っ直ぐ口にしてくれた人が今までいただろうか。とにかく、笑ってありがとうと言わないと。馬鹿みたいにはしゃいだ声で、ありがとぉございますぅって。
 
 
「あ、ありがとぉ、ござい、ます…」
 
 
 笑みを刻む唇が惨めに引き攣る。馬鹿みたいに朱色に塗られた唇が恥ずかしかった。この人に見られたくなかった。浅ましい自分を見られたくなかった。手の甲を唇に押し当てると、田丸の骨張った指先がそっとヒナコの腕を掴んだ。
 
 
「笑うな」
「え…?」
「そんな、泣きそうな顔して笑うもんじゃない」
 
 
 ヒナコは顔をあげて、田丸をじっと見詰めた。田丸もヒナコを見ている。その目を見た瞬間、ヒナコは、自分が田丸に好意を抱き始めていることを自覚した。胸を暗く覆っていた虚しさが、目の前の男の一言で薄れていく。自分が、肯定された気がした。この男に、肯定して欲しかった。
 
 
「ヒナコは…」
「ん?」
「ヒナコは、妹の名前です。ワタシは妹になりたかった」
 
 
 胸の錘りを吐き出す。脳裏に浮かぶのは、五歳年下の妹の姿だ。今年で十八歳になるはずの妹は、根暗なヒナコと違って、溌剌として明るく誰からも愛される少女だった。兄であるヒナコに酷く懐いていて、高校生になっても後ろに付いて回って来た。街に出掛ければ腕を組みたがり、文化祭に呼んでは実の兄を彼氏だと友達に言いふらした。ヒナコもそんな妹が可愛かった。仲の良い兄妹だと思っていた。だからこそ、カムアウトした時の妹の反応に衝撃を受けた。
 
 
 『何で男が好きだなんて言うの、気持ち悪いよ。―――サイテー』
 
 
 拒絶の言葉に、涙すら出てこなかった。その日の内に、ヒナコは家を出た。両親の無言の痛ましい視線も辛かったが、あんなにも仲が良かった妹から向けられる軽蔑の眼差しには、もっと耐え切れなかった。かろうじて立っていた自分という存在が脆くも崩れ去るのをヒナコは感じた。
 
 妹のたったその一言で、ヒナコは自分を見失った。男として男を愛しているのか。女として男を愛しているのか。それとも自分が男を愛しているという現実すら虚像のものなのか。そもそも自分は男なのか女なのか。身体とは心とは、一体何なのか。その区別すら付かないままに、ヒナコは整形手術で胸を作った。胸をつければ、男を愛しても不自然ではなくなると思った。それでも、股間の性器だけはどうしても取れなかった。そこまでの覚悟がなかった。結局、自分は男でも女でもなく、より不完全な存在になっただけだと、ヒナコはひとり打ちひしがれた。粉々に砕けた自尊心を、更に踏み躙ったのはヒナコ自身だ。
 
 
「だけど、ワタシは妹になれなかった」
 
 
 掠れた声で吐き出す。田丸は、ほんの小さな声で問い掛けた。
 
 
「まだ妹になりたいか?」
「わかりません」
「自分が何なのか解らないのか?」
「はい」
「俺とおんなじだ」
 
 
 思いがけない稚拙な口調に、ヒナコは驚きの眼で田丸を見遣った。ヒナコの視線に気付くと、田丸は微かはにかむような笑みを浮かべた。酷薄な顔立ちに似合わぬ幼げな笑みだった。その瞬間、ヒナコは恋におちた。田丸への好意が恋情へと変わった。暖かな感情が胸に満ち溢れて、心臓に火を灯した。堪えようもない熱の衝動だった。
 
 欲情していた。萎びた四十代の男に、紛れもない欲を抱いていた。この男を抱きたいと思った。男性を好きだと自覚してから初めての、明確な情欲だった。ヒナコは、自分が男しか愛せない人間だとは自覚していたが、そのポジションについては明瞭な区別を付けていなかった。抱きたいのか、それとも抱かれたいのか。それすらも曖昧だった。それなのに、今ははっきりと解る。自分は、目の前の男を抱きたい。太腿を押し広げて、その体内を挿し貫きたい。滅茶苦茶に揺さぶって、内臓に自分の精液を染み込ませてやりたい。それは酷く凶暴な衝動だった。
 
 
「貴方が好きです」
 
 
 気付けば、唇が勝手に言葉を紡いでいた。熱にまみれた言葉が焼けるように咽喉を通る。田丸はきょとんと目を開いてから、心底不思議そうに首を傾げた。
 
 
「何で」
「貴方に欲情しました」
 
 
 率直なヒナコの言葉に、田丸は苦笑いじみたものを頬に滲ませる。
 
 
「それは、有り難うと言うべきなのか? 俺は、四十三のオッサンだよ」
「ワタシは、二十三歳のニューハーフです。でも、貴方を抱きたい」
 
 
 流石にこの言葉には、田丸も目を剥いた。大きく開かれた一重の目がヒナコを見詰めたまま、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
 
 
「抱きたい?」
「はい、貴方を抱きたい」
「抱かれたいとは言われたことはあるが、抱きたいと言ってきたのはあんたが初めてだ」
 
 
 困惑の表情のまま、田丸が小さく笑う。笑うと、目尻の皺が深くなった。それが不思議と愛しかった。田丸の頬へとそっと指先を伸ばす。その皺へと触れるかと思った瞬間、「あらぁ」と何処か含みを含んだ声が聞こえた。テーブルへと酒瓶を置いた朝子ママが微か尖った眼差しでヒナコをねめつけていた。
 
 
「田丸さん、うちの子を勾引すのはやめて頂戴」
 
 
 言葉の矛先は田丸へと向かっているが、間違いなくその棘はヒナコへと突き刺さっていた。嫉妬にまみれた朝子ママの視線に、朝子ママもまた田丸を好いているのだということを感じ取る。田丸は、朝子ママの怒りのオーラに臆した様子もなく、のんびりとした声をあげた。
 
 
「こんなオッサンに勾引されるほど安かないだろう、朝子さんのとこの子は」
「どうだか」
「朝子さんがご機嫌斜めになると怖いな。今日は、もう帰るよ」
「折角お酒出したのに?」
「また今度飲みに来る」
「そう言って…飲みに来たことなんて一度もないくせに」
 
 
 恨みがましい朝子ママの言葉に、田丸は軽く肩を竦めた。ひょろりと立ち上がると、そのまま店から出て行く。朝子ママが淡く溜息をつくのを聞いて、ヒナコは駆け出した。去っていく男を、朝子ママのように見送ることは出来なかった。後ろから朝子ママの制止の声が聞こえる。だけど、足を止める気はなかった。
 
 店から出て数メートル進んだところに、田丸の猫背気味な背があった。駆け寄り、くたびれた背広の裾を掴む。だけど、くたびれた見た目に反して、その生地は滑らかで高級だった。田丸が肩越しに振り返る。
 
 
「貴方の家に行きたい」
「セックスしねぇぞ」
「それでもいい。貴方の傍にいたい」
 
 
 直線的なヒナコの言葉に、田丸は苦さと甘さが入り交じった笑みを浮かべてから、小さく頷いた。背広の裾を掴むヒナコの指を解くと、乱暴な手付きでその手を握り締める。掌は、微かに乾いて、ざらついた感触がした。
 
 空は朝焼けに染まりつつある。眼球に沁み込むような光に目を細めながら、ヒナコは、手の甲で唇にこびり付いた朱色を拭い取った。
 
 そうして、心からこの男の傍にいたいと願った。この男の傍で、自分という人間をもう一度見詰め直したい。妹の影を追うのでもなく、作られた胸や残った性器に惑い、真っ赤な唇に恥を覚えるのではなく、ただ自分というひとつの存在を知りたいと思った。
 
 

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Published in 朱色のワタシ

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