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02 ベッドルーム

 
 田丸の家は、ヤクザの幹部という地位にそぐわない古びた分譲マンションの一室だった。無警戒にも施錠すらしていなかったのか、ノブを回すとドアはすんなりと開いた。呆気にとられるヒナコを置いて、田丸は子供のように靴を玄関に脱ぎ散らかして中へと入って行く。玄関で立ち止まったままのヒナコに気付くと、緩く首を傾げた。
 
 
「どうぞ?」
 
 
 思い出したように吐かれた言葉に、ヒナコは丁寧に靴を整えて、部屋へと入った。一緒に田丸の靴も直しておく。部屋は、目立った汚れやゴミもなく整頓された様子だった。だが先ほどの靴の脱ぎ様から、田丸がそれほど掃除や片付けに興味を持っていないことは想像がつく。なら、誰かが掃除をしているということだ。先ほどはちっとも考えなかったが、もしかしたら田丸は結婚しているのかもしれない。
 
 
「田丸さん、奥さんがいるんですか?」
 
 
 恐る恐る問い掛けると、キッチンで水道口から直接水を飲んでいた田丸が怪訝そうに目を細めた。口の周りだけでなく、薄らと骨の浮いた首筋にまで水が伝っている。不意に、緩やかに湾曲した頸骨が美しいと思った。
 
 
「いないけど、何で?」
「部屋が綺麗だから、誰か掃除してるのかなって」
 
 
 そう指摘すると、田丸は複雑そうに顔を歪めた。食器棚からピカピカに磨かれたグラスを取り出しながら答える。
 
 
「うちの組に世話好きな奴がいて、そいつが掃除しに来る」
 
 
 言いながら、田丸は手にしたグラスに水を注いでヒナコへと差し出した。お礼を言ってグラスを受け取る。数時間ぶりに飲んだ水に咽喉が潤い、知らず安堵の息が零れる。
 
 田丸は欠伸を零しながら、身に纏った衣服を一枚一枚床に落として歩いて行く。背広を落とし、ネクタイを落とし、シャツを落とし、それがベルトに及んだところでヒナコはぎょっとした。数十分前に貴方を抱きたいと宣言した人間の前で、あまりにも躊躇いがなさすぎる。だが制止の声をあげる前に、田丸はズボンを落として、タンクトップとトランクスだけの姿になった。
 
 肉付きの薄い身体だが、弱々しさは感じられなかった。白いタンクトップの背から、薄らと刺青が透けて見える。色褪せた毘沙門天だ。田丸の皮膚は、血の気を失ったように白かった。何故だか、その褪せた色のコントラストに酷くそそられた。はしたなく生唾を呑み込むと、田丸の視線が向けられる。
 
 
「ガッカリしたか?」
「何がです?」
「いろいろだ、いろいろ」
 
 
 いろいろと口ずさんで、田丸はのんびりとした足取りでリビングを突っ切り、ベッドルームらしき部屋へと消えて行った。ヒナコは、慌ててその後ろを追い掛けた。田丸の落とした服を一枚ずつ拾い上げて、とりあえずソファへと掛けておく。
 
 薄暗いベッドルームへと入ると、田丸が背を向けてベッドに横たわっていた。まるで赤ん坊のように、手足を丸めている。その姿を眺めながら、ヒナコは少しだけ思い悩んだ。ドレスを脱げば、中途半端な自分の身体を見られてしまう。女でも男でもない身体を。それがどうしても怖かった。
 
 悩んだ末、結っていた髪の毛だけを解いて、ドレスはそのままに田丸の横に寝転んだ。ヒナコの体重で、軽くベッドが軋む。田丸が「ん」と小さく呻きながら、身体を回転させた。半分閉じられた眠たげな目がヒナコを眺める。
 
 
「服脱がないのか?」
「脱ぐの、怖いんです」
「どうして怖い」
「貴方に嫌われたくない」
 
 
 田丸はふっと口許を緩めた。目をとろんと溶かして、譫言のように囁く。
 
 
「人を嫌うってのは勇気がいることだ。俺には、そんな勇気がない」
 
 
 数時間前に、一人の男を殴り、その口に爪先を突っ込んでいた男とは思えない言葉だった。
 
 
「好きになるのには、もっと勇気がいる」
 
 
 田丸は、もう目を閉じていた。唇を数度緩く動かした後、緩やかな寝息が聞こえてくる。そのくたびれた寝顔を見ながら、ヒナコはこの男のどこが好きなのか考えた。
 
 特別顔が格好良いわけでもなければ、身体付きだってガッチリしているわけでもない。性格だって捕らえ所がなくて、他人に暴力を奮ったりもする。一体この男のどこを凶暴なまでに恋しいと思ったのか、今になるとあやふやで曖昧で、
 
 それなのに――どこも、どこもかしこも好きだと思った。猫背気味な姿勢も、ざらついた声も、爬虫類のような一重の目も。そうして、時折見せる子供っぽい仕草や表情も。込み上げてきた愛おしさに、思わず目の前の頬に唇を押し当てる。
 
 すると、淡い朱色が田丸の頬にのせられた。手の甲で唇を拭うと、薄らと残っていた口紅がこびり付いた。
 
 赤い色は、ワタシを食べて、の色。
 
 朱色がのせられた田丸の頬をじっと眺める。食べたい。貴方を食べたい。そう切願する自分が男なのか、女なのか、それすら解らず、ヒナコは心の中で何度も繰り返した。
 
 

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Published in 朱色のワタシ

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