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03 ポップコーン

 
「誰だ手前」
 
 
 不躾な声で、目が覚めた。まだ眠気にぐらつく頭を掌で支えながら、声の方向を緩く見上げる。ぼやける視界の先で、ヒナコよりも数歳年上の二十代後半らしき男がじっとヒナコを見下ろしていた。
 
 ガッシリとした体格をしており、髪の毛は後ろに撫で付けてある。見た感じ、お偉いさんのボディガードといった雰囲気だ。それほどキツイ顔立ちには見えないが、今は剣呑に尖った眼差しをヒナコへと向けている。
 
 
「何で田丸さんの横で寝てる」
 
 
 押し殺した声で言いながら、男はヒナコのドレスの胸倉をぐっと掴んだ。スパンコールで飾られた脆い生地が微かに裂ける音が響く。ヒナコは慌てて男の腕を掴んだ。筋骨隆々とした男の腕は固く、怒りに膨張している。どうして、見知らぬ男からこんなにも怒りの矛先を向けられているのか解らず、ヒナコは目を白黒させた。
 
 
「や、やめて下さい」
「いいから、答えろ。何で、田丸さんの横に手前みたいな売女が寝てんだよ」
「島田、やめろ」
 
 
 寝ぼけ混じりの声が聞こえる。途端、掴まれていた胸倉を離されて、ヒナコはベッドに背中から落ちた。身体がベッドの上で大きくバウンドする。すると、予期せぬ方向から悲鳴が聞こえた。
 
 
「わ、ぁ」
「田丸さん!」
 
 
 間の抜けた悲鳴に、島田と呼ばれた男の悲痛な声が被さる。隣を見遣ると、細い腕だけがシーツに引っ掛かっていた。どうやらヒナコが跳ねた衝撃で、田丸がベッドから転げ落ちたらしい。落ちた田丸へと島田が駆け寄る。
 
 
「嗚呼、すいやせん。お怪我はありませんか? 気分が悪いとか、頭痛がするとか、目眩に腹痛に―――」
「少し黙ってろ」
 
 
 放っておけば際限なく喋り続けそうな島田を、田丸が制す。ベッドの上へと乗り上がると、ぽかんと口を開いたままのヒナコを見て、田丸は一度首を傾げた。それから、ヒナコを指差して、あー、とも、うー、とも付かない声をあげる。
 
 
「俺のこと好きだって言った奴だ」
「ヒナコです」
「好きィイ!?」
 
 
 三人の声が被さって、ごちゃ混ぜになる。特に島田の素っ頓狂な声は、よく響いた。田丸が両手で耳を押さえながら、島田を睨み付ける。
 
 
「黙ってろって言っただろうが」
「ですが、こ、こんな女……」
「御前は、飯でも作ってろ。豆腐とワカメと油揚げ、味噌は赤」
 
 
 端的な田丸の物言いに、島田は殆ど思考停止状態のまま従っていた。放心状態の表情のまま、ふらふらとキッチンへと歩いて行く。田丸はその後ろ姿を眺めてから、ヒナコへと視線を戻した。
 
 
「朝飯は?」
「え?」
「朝飯食べていく?」
 
 
 欠伸混じりの問い掛けに、ヒナコは無意識に頷いていた。気怠そうに田丸は立ち上がり、片手にシーツを握り締めたまま歩き出す。ずるずるとシーツが床の上を引き摺られて行く。
 
 
 ヒナコは暫くベッドの上にへたり込んでいたが、田丸が見えなくなったところで慌てて、乱れた髪の毛を手櫛で梳かした。頬に触れてみる。指先に触れるべたついた感触に、サーッと身体から血の気が引いて行くのを感じた。化粧をしたまま眠ったのだ。あり得ない。化粧がぼろぼろに剥げた汚い顔を、恋した男に朝一番に見られたのだ。信じられない。酷すぎる。最低だ。
 
 ベッドに蹲って転がり回りたい衝動を必死で押さえながら、ヒナコは恐る恐るリビングの扉へと近付いた。薄く開けた隙間から、リビングを覗き見る。キッチンでは、島田が未だぼんやりした表情ながら手ばかりはてきぱきと動かしていた。そうして、田丸は持って行ったシーツに包まって、ソファに座って眠っている。ふらりふらりと頭が左右に揺れ動いていた。
 
 
「あ、の……洗面所をお借りしたいんですけど……」
 
 
 躊躇いがちに出した言葉に、先に反応したのは島田だ。キッと涙ぐんだ眼差しで睨まれる。
 
 
「手前に貸す洗面所なんてねぇ!」
「左手の奥」
 
 
 島田の金切り声を撥ね除けるように、田丸の声が零れる。島田が「田丸さぁん」と情けない声をあげる。田丸はまだ目を閉じたままだ。
 
 
 そろりと足音を殺しながら、ヒナコは洗面所へと向かった。鏡で見ると、思った以上に酷かった。髪の毛はぼさぼさやら、ファンデーションはかぴかぴに乾いているやら、口紅は唇からはみ出ているやら、付け睫毛は中途半端に外れているやら、もう目も当てられない。こんな顔を見られたのかと思うと、今すぐ死にたくなる。
 
 そうして、ふと思う。きっとワタシが男だったら、こんな事は思わない。化粧崩れを気にしたりしない。髪の毛を手櫛で必死に直したりなんかしない。なら、やっぱりワタシは女なんだろうか。あの人を抱きたいと思った昨日の気持ちは、一時の気の迷いなのかもしれない。そんな事を訥々と考えながら、顔から化粧を洗い流して行く。
 
 
 タオルですっぴんの顔を隠しながら戻ると、田丸がソファでシーツに包まったまま、湯気を立てた味噌汁を啜っていた。まるで幼い子供のように、その視線は真正面のテレビへと向けられている。もう午後の一時を過ぎていた。テレビの中では、最近人気のグラビアアイドルが巨大な胸を強調するように両肘を内側へと折り曲げながら身体をくねらせている。どうやら親子ほど歳の離れた俳優との不倫を疑われているらしい。
 
 
『えーっとぉ、キーくんはぁ、あっ、間違っちゃったぁ。喜沢さんとはぁ、歳の離れた友達って感じでぇす』
 
 
 キーくん、なんて馴れ馴れしい呼び方しておいて今更友達も何もないだろうと呆れて二の句も告げない。どうして、田丸がこんなニュースを見ているのか解らず、ヒナコはゆっくりと田丸の横に腰を下ろした。田丸がテレビから視線を逸らさないままに呟く。
 
 
「この女と相手は、十七歳も歳が離れてるらしい」
「そうですね」
「俺とあんたは、二十歳離れてる」
 
 
 その言葉に、ぴくりと肌が反応した。まさか歳の話をされるとは思ってもいなかった。歳が離れているから駄目だとでも言うのだろうか。歳の差を理由に、好きでいることすら許されないのだとしたらあまりにも辛すぎる。だが、怯えるヒナコの思惑とは反対に、田丸は軽やかに笑った。
 
 
「勝ったな」
 
 
 検討外れに勝ち誇った台詞に、一瞬耳を疑う。それから、胃袋をくすぐるような笑いが込み上げて来るのを感じた。くすくすと咽喉を震わせて笑う。田丸が眠たげな視線をヒナコへと向ける。
 
 
「どうした」
「朝起きても、やっぱり貴方が好きで、何だか嬉しくって」
「好きだと、嬉しいものなのか?」
「嬉しいです。心臓の中でポップコーンが弾けてるみたいに、嬉しくって跳ね回りたい気持ち」
「ポップコーンか」
 
 
 独りごちるように田丸が呟く。すると、その和やかな雰囲気を断ち切るように、ソファ前のローテーブルへとドンとお椀が置かれた。島田が煮え滾った眼差しで、ヒナコを睨み竦めている。
 
 
「朝飯! 食って、とっとと帰れ!」
 
 
 ぐつぐつと沸騰した味噌汁の表面を眺めて、短く嘆息する。それでも、なお胸の内で膨らんでいく甘い思いを、ヒナコはそっと噛み締めた。
 
 

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Published in 朱色のワタシ

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