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05 バター

 
 透明のガラスの中で、白い球体がぽんぽんと音を立てて弾けていた。周囲には甘ったるいバターと淡い塩の匂いが漂って、鼻腔の奥を柔らかく揺さぶってくる。
 
 田丸は、そのポップコーン製造機のガラスに張り付いたまま動こうとしない。映画の開演まで後五分を切っていることに焦る様子なんて微塵もなく、まるで子供のような眼差しでポップコーンが跳ねる様子を見詰めている。
 
 
「田丸さん、映画始まっちゃいますよ」
 
 
 声を掛けると、肩越しにぐるりと視線を向けられる。頬を人差し指で掻いてから、田丸はその細い指先でポップコーンを指した。
 
 
「あんたのこと、考えてた」
「え?」
「好きって気持ちはポップコーンが弾けてるみたいなんだろ」
 
 
 そう言って、田丸は首をくっと傾げて、曖昧に唇の端を吊り上げた。そのまま、小銭をちゃりちゃりとカウンターに積み上げてポップコーンのSサイズを買うと、背中を丸めて劇場内へと歩いていく。言い残された言葉を、ヒナコはぽかんとした気持ちで聞き、それから微かに頬が熱くなるのを感じた。
 
 田丸は、ヒナコが田丸を好きだという気持ちをポップコーンに例えたのを覚えていたのか。それを今思い出していたのか、と思うと、微かな羞恥心と心臓をくすぐるような歓喜が込み上げてきた。自分の好意を、田丸が少なからず受け容れてくれているのだと思えて、嬉しかった。
 
 唇に滲む笑みを掌で隠しながら、劇場内一番後ろの席へとついた田丸の横へと座る。劇場内に人は少なく、後ろ側に座っているのが田丸とヒナコぐらいなものだった。
 
 田丸は両手に持ったポップコーンの器に鼻先を近付けて、くんくんと匂いを嗅いでいる。
 
 
「何してるんですか?」
「随分甘ったるい匂いがするもんだな」
「バターの匂いですよ」
「へぇ、バターなぁ」
 
 
 納得したように田丸は頷いて、それから投げ遣りな仕草でポップコーンの器をヒナコへと押し付けた。そのまま、ぶっきらぼうに「食べていいよ」と呟く。
 
 
「田丸さんは、食べないんですか?」
 
 
 欠伸混じりに浅く頷いて、田丸はそのまま下腹の前で両腕を組んだ。細長い脚を組んで、小さく吐息を吐き出す。
 
 
「他人の作ったものは慣れない」
 
 
 そんな言葉を吐き出した。その意味を聞く前に、会場が薄暗くなり、前方のスクリーンに映像が映り始める。映画の予告を流す前に、どうやら地域の営業CMが入っているようだ。マンションや結婚式場のCMを眺めながら、横目で田丸の様子を窺う。
 
 田丸はスクリーンへと顔を向けて、その光を眩しがるように目を細めていた。その目尻に深く皺が刻まれている。微かな老いを感じさせる奥深な目元だった。だが一方で、祈りを捧げたくなるほどの清廉さも感じさせた。その眼球は深く、沈み込むような色合いをしている。目元だけ見れば、老いた敬虔な神父のようにも思えた。
 
 だが、その拳を見れば気付く。この人は、決して清廉潔白な人間ではなく、紛れもない泥に浸かりながら生きてきた人間だと。田丸の拳には、普通ならあるはずの指関節根元のでっぱりというものがなかった。凹み、甲の一部のように平らに均されているのだ。それは、田丸が何百人もの人間を殴り付けてきた証拠だ。罪悪の歴史と言ってもいい。
 
 田丸は、清廉さと罪悪が不完全に混ざり合った人間だと思う。結局ヒナコには、田丸という人間の底が見えなかった。本音も本性も解らず、ただ田丸という存在に惑わされ、溺れているだけのようにも思えた。
 
 だが、それが解っていてもなお、ヒナコにはどうしようもなかった。存在自体が虚構のような自分自身の中で、田丸への情欲だけが唯一確かだった。自分が男でも女でも関係なく、おそらく田丸を惹かれたであろう事実だけが、ヒナコの中に在る真実なのだ。
 
 田丸への情欲まで失ってしまえば、ヒナコという存在は崩れてしまう。中途半端で虚像のように不確かな自分自身を自覚すれば、もう生きていくことは出来なかった。だから、その要である田丸を手放すわけにはいかなかった。
 
 
 予告編が終わり、映画が流れ始める。ポップコーンを食べながら、イタリアの甘ったるい恋愛映画を気もそぞろに眺める。
 
 それは散髪屋の男に、ひとりの女が恋をするという話だった。男に会いたいがために、女は月に何度も髪の毛を切りに行く。最終的には、髪の毛をバリカンで剃って、丸坊主になった女は、男に会えないと悲しげに涙する。仕方なく女は、友達を散髪に誘って、その友達の付き合いで散髪屋へと通い始める。しかし、散髪屋の男は、女ではなく、女の友人と恋に落ちてしまう。女は悲しみにくれ、散髪屋の男と友人が眠っている隙に、二人の髪の毛をすべて刈り取ってしまう。二人の髪の毛を床にばらまいて、その上で女は眠りにつく。
 
 
 『貴方の心は手に入らなかったけれど、貴方の一部は私のものになりました。虚しくて、悲しくて、自分が嫌でたまりませんが、例えようもないほど幸福です』
 
 
 そう女は独りごち、大量の髪の毛に埋もれながら顔を覆ってすすり泣く。シュールなくせに、妙に生々しい映画だった。
 
 
 切られた髪の房を口に含む女を見ていた時、不意に肩に重みがかかった。横を見て、ぎょっとする。目を閉じた田丸が小さな寝息を立てて、ヒナコの肩に凭れ掛かっていた。
 
 スクリーンの色を映し出す田丸の皮膚を眺めながら、ヒナコはゆっくりと唾液を飲み込んだ。田丸への掌を軽く突付いてみるが、田丸が起きる気配はない。指先を伸ばして、伏せられた目蓋を指の腹でやわく撫でると、乾いてさらりとした感触がした。弾力はないが、その分滑らかでキメ細やかな皮膚だった。
 
 その指を、唇へと落とす。田丸の唇を横になぞるように撫でると、微かに罅割れた薄皮がざらりと指先を舐めた。その瞬間、堪らなくなった。首筋の後ろがぞくぞくと戦慄いて、細波のように衝動が溢れ出してくる。
 
 目蓋を閉じて、恐る恐る唇を押し当てる。ささくれた薄皮があたって、微かな痛みを唇に感じた。だが、それすらも興奮へと変わる。舌先で乾いた唇を微かに舐めて、角度を変えて啄ばむように唇を重ねた。中学生ほど稚拙ではないが、大人と言えるほど巧妙なキスでもなかった。だが、切実だった。
 
 田丸の唇は、蛇の皮膚のように体温が低かった。ヒナコの体温がじわりと田丸の唇へと奪われ、呑み込まれていく。それが眩暈がするほどの恍惚を生んだ。ふ、と息を吐き出して、薄っすらと目をあけると、黒目がちな眼球がヒナコを見詰めていた。一瞬、全身に緊張が走る。
 
 田丸は、無言のまま、ただヒナコの顔を見つめている。その表情からは、唇を勝手に弄ばれた非難といったものは感じられない。まるで絶滅寸前の動物でも観察しているかのような、好奇と物珍しさがないまぜになった眼差しだった。
 
 睫毛を伏せた田丸がヒナコの唇を見詰めながら、呼吸するかのような自然さで囁く。
 
 
「――バターの味がする」
 
 
 身体の奥で、情動が音を立てて弾けた。体内で爆風が暴れ狂い、血管を這いずり回り、咽喉元まで込み上げて来る。息が切れ、脳味噌が焼け爛れそうなほど熱くなって、止まらなくなった。
 
 

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Published in 朱色のワタシ

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