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06 オヤシラズ

 
 気付いたら、田丸の手首を掴んで劇場から抜け出していた。田丸を引き摺るように歩いて、男子トイレの個室へと無理矢理押し込む。個室のドアに背を押し付けられた田丸は、何処か上の空な眼差しでヒナコを眺めている。
 
 薄っすらと開かれた唇に吸い寄せられて、ヒナコは田丸の唇に噛み付いた。今度は遠慮なく舌を突っ込んで、ぬかるんだ穴を無我夢中で漁った。弛緩した舌を乱暴に絡め取って、唾液を奪い取り、代わりのように注ぎ込んだ。歯列をなぞり、歯の一本一本確かめるように舌を這わす。
 
 田丸の咥内左奥には、抜かれていない親知らずが歪な角度で生えていた。そのことを知っただけで無性に心が浮き立った。この世界の一体何人が田丸の親知らずのことを知っているだろう。それを思うだけで、わけもない優越感を感じずにはいられなかった。
 
 両腕で抱き締めた田丸の腰は、思った以上に細く、痛ましいほどの脆さを感じさせた。肋骨から腰骨に至るまでの彎曲したラインを掌で何度もなぞる。数度身体の輪郭を覚えるように撫でた後、両手で腰骨をぐっと掴む。親指の腹で押し込むように腰骨を揉むと、田丸の身体から力が抜けた。そのまま膝が折れて、ずり落ちそうになる身体を抱えて、ヒナコは更に田丸の唇を貪った。先ほどまでぼんやりと開かれていた田丸の目が微かに潤んで、ヒナコを見詰めている。唇の隙間から零れる息が熱をもって火照っていた。
 
 衝動のままに田丸の上着をたくし上げると、田丸の掌がヒナコの腹にぐっと押し当てられた。その拒むような仕草に、ますます身体は発火する。田丸の首筋へと、頚動脈をなぞるように舌を這わせる。生ぬるい舌の下で、確かな鼓動が早鐘を打っていた。田丸の首筋からは、水底で洗われた石のような匂いがした。
 
 
「ダメ、ですか…?」
 
 
 自分でも笑えるぐらい余裕のない声が出た。荒い息遣いに、馬鹿みたいに声が震える。
 
 緩くウェーブ描いたヒナコの髪の毛が田丸の頬に掛かっている。田丸は、ヒナコの髪を細い指で梳いて、それから淡く掠れた声で言った。
 
 
「ダメじゃない」
 
 
 唾液で濡れた口角を緩く吊り上げて、田丸はまるで獲物を罠へと誘い込むように密やかに笑う。眩暈がするほどの妖艶さを臭い立たせる田丸の姿に、ヒナコは更なる情動が湧き上がってくるのを感じた。これで四十を過ぎた男とは思えない。枯れる直前の花が一瞬で咲き乱れるような危うさと色香が田丸の皮膚に纏わり付いている。
 
 
「貴方、すごくやらしい…」
 
 
 耳元で熱っぽく囁くと、田丸が咽喉を鳴らして小さく笑った。
 
 
「あんた、本当に俺を抱きたいんだな」
「そう言ってるじゃないですか」
 
 
 今更なことを改めて言う田丸に、ヒナコは唇を尖らせた。そのヒナコの様子に、田丸が更にくつくつと笑い声を立てる。むっとして田丸の首筋に柔く噛み付くと、溜息のような声が耳朶をくすぐった。
 
 
「…ヒナ」
 
 
 心臓が煮え滾って、それから急速に脳味噌が醒めて行く。それはヒナコの名前だが、所詮は偽者でしかない。咄嗟に呻き声が出そうになるのを抑える。
 
 そうして、次の瞬間、脳天から一気に血の気が落ちた。田丸の掌がヒナコの胸へと当てられている。作り物の胸を、肉ではなく生理食塩水の詰まった膨らみを、田丸の乾いた掌が撫でる。その感触に、頭髪が一瞬で逆立つ。自分の体内に収められた、おぞましい何かを探られているような不快感が一気に込み上げて、ヒナコの無意識に両手を突き動かした。
 
 ガタンと個室の扉が揺れる音が響いた。突き飛ばされた田丸がきょとんとした眼差しで、ヒナコを見ている。青褪めたヒナコをまじまじと見詰めてから、田丸は自分の掌を眺めた。
 
 わなわなと震える唇で、ヒナコは溺れるように呟いた。
 
 
「ご、…ごめんなさい…」
 
 
 そうとしか言えなかった。何の弁解も冗談も思い付かない。自分から連れ込んでおきながら、田丸に触れられた瞬間、堪らない嫌悪を感じてしまった。まるで冷水を浴びせかけられたのようだ。
 
 今更、現実を思い知った。不完全な自分の肉体を、心を。女でも男でもなく、自分自身が何者か解らない脆さを思い出して、心が挫けた。
 
 
 ワタシは、ヒナコだ。だけど、本当はヒナコじゃない。それじゃあ、一体ワタシは誰なんだろうか。
 
 
 額から冷汗が滲み出て、カチカチと歯の根が鳴りそうになる。田丸がヒナコを見ている。田丸の眼球に映る自分の顔は、丸っきり作り物みたいに強張り、青褪めていた。
 
 田丸は暫く黙り込んだままヒナコを見詰め、それから筋張った指先で震える頬を撫でた。細やかな震動が田丸の指先へと伝わる。そうして、田丸は、ほんの小さな声で呟いた。
 
 
「…あんた、かわいいな…」
 
 
 田丸がぎゅっと目を細めて、笑みを浮かべる。歳に似合わぬ屈託のない笑みだった。そのまま頬から首筋へと掌を滑らせて、充足したように深く吐息を漏らした。
 
 
「あったかい…」
 
 
 そう呟いて、田丸は幼児が母に甘えるような仕草で、ヒナコの作りものの胸へと頬をすり寄せた。ヒナコに依存し切ったような、安らいだ表情を浮かべていた。
 
 

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Published in 朱色のワタシ

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