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09 プロポーズ

 
 映画館を出て暫く歩いたところで、田丸の横に黒塗りの車が止まった。漆黒に塗り潰されたウィンドウが下がって、その中から恰幅の良い白髪の男が顔を覗かせる。口元には、たっぷりとした白髭が蓄えられており、赤い服を着せたらそのままサンタクロースになれそうだと思った。
 
 
「どうした、御前が女を連れてるなんて珍しいじゃねぇか」
 
 
 見た目にそぐわない若々しく軽妙な喋り方だった。笑うと、ぐにゃっと顔全体の皺が崩れて、何処か滑稽なピエロのような印象を受けた。田丸は、黙り込んだまま老人をじっと見詰めて、不必要に長い間を置いてから、ようやく「はぁ」と曖昧な相槌を返した。
 
 
「親父も、こんなところで何してるんですか?」
 
 
 親父という単語に、ヒナコの頭には二つの考えが浮かんだ。一つ目は、目の前の老人は田丸の実の父親であるということ。二つ目は、田丸が所属するヤクザの組長であること。目の前の物々しい車を見れば、どちらの考えが正しいのかは歴然だった。
 
 
「俺はショッピングだよ、ショッピング。グッチやらアルマーニやらの服やらバッグやらを買ってな、三ツ星レストランでフォアグラを食って来たんだ。フォアグラはいいぞぉ。あれを食ったら二三日は血圧が振り切れるってな、解っててもどうにもやめられん。俺ぁ、たぶん死ぬまでフォアグラを食い続けるぞ」
 
 
 饒舌な老人の喋りに、明らかに田丸は着いていけていないようだった。ただ、頭の弱いオウムのように「フォアグラですか」と呟いて、視線をぼんやりと宙へと浮かべた。
 
 そうして、老人の眼差しがヒナコへと向けられる。真っ直ぐ老人の目を見て、無意識に皮膚がさざめくのをヒナコは感じた。細められた眼球には、老獪さと濁りがぐちゃりと混合していた。それは決してカタギの目ではない。
 
 
「嬢ちゃん、名前は?」
「ヒナコです」
 
 
 咄嗟に答えてから、微かな苦々しさが胸を覆った。ヒナコと名乗ることが正しいのかどうか自分でも解らなくなっている。どこか他人を騙しているかのような罪悪感があった。老人は、田丸へと視線を向けた。
 
 
「美人じゃねぇか。御前には勿体無いぐらいだな」
「そうですね」
「所帯は持たねぇのか?」
 
 
 その問い掛けに驚いたのは、田丸よりもヒナコの方だ。所帯を持つというのは、結婚するということじゃなかっただろうか。田丸は緩慢な仕草でヒナコへと視線を向けると、首をカクリと傾げた。
 
 
「持ちたい?」
「持ちたいって…でも…」
 
 
 逆に問い掛けてくるなんて酷い。ヒナコには答えられるわけがない。戸惑いに眉をくにゃりと曲げると、ヒナコの答えを待たずに田丸はこう言った。
 
 
「あんたが嫌じゃないなら、俺は持ちたい」
 
 
 平然とした、まるで当たり前のことを言っているような口調だった。さらりと零されたその言葉に、ヒナコは唖然とした。
 
 
「それって…意味を解って言ってるんですか?」
「プロポーズだけど、駄目?」
 
 
 あまりの事にぽかんと口を開いていると、老人が声をあげて笑い始めた。
 
 
「御前は何年経っても突拍子がない奴だなぁ。嬢ちゃんが目剥いてるじゃねぇか」
「はぁ、すいません。でも、いつか言うなら、今でもいいかと思ったんで」
「御前のことだから、俺がいるからちょうどいいとか思ってるんだろう?」
 
 
 田丸が素直に頷くと、老人は更に笑い声を大きくした。老人らしかぬ肺活量に満ちた大声だった。
 
 
「悪いね、嬢ちゃん。昔っから恋とか愛のムードが解らねぇ奴なんだよ、こいつは」
「いえ、ムードとかは…全然いいんですけど…」
 
 
 困惑が抜けないままに、上の空に返す。唐突な状況に、脳味噌がぐるぐると空回りして、まともに働かない。会って二日目でプロポーズをされた。所帯を持つって、自分と田丸が?
 
 両手で頭を押さえる。視線が上手く定まらなくなって、くらくらと辺りを見渡す。そうして、気付いた。開かれたウィンドウの奥から、鋭い眼差しがヒナコへと突き刺さっていた。瞬間的に、脳裏に黒炎が思い浮かぶ。まるで火で炙るような、じっとりと焼け爛れた視線だった。
 
 
「朝子さん」
 
 
 唇から言葉が零れる。老人の横に座っていたのは、朝子だ。一部の隙もないほどに着こなされた着物や、きちんと揃えられた膝は、いつも通り気品漂う朝子の姿だ。だが、その眼差しだけが違う。紛れもない嫉妬を孕んだ眼差しは、ヒナコをキツク睨み据えていた。
 
 老人が気が付いたように、朝子の肩を抱き寄せる。
 
 
「朝子のこと知ってるのか?」
「うちの従業員よ」
 
 
 素っ気なく朝子が言い放つ。それは、昨夜までヒナコに向けられていた声音とはまったく異なっていた。同じ場所で働く者同士の労わりや慈しみが一切感じられず、酷く無関心な臭いを感じさせる。
 
 老人は一瞬口を噤んでから、田丸へと訝しげな視線を向けた。
 
 
「朝子のところの子っつうことは、御前解ってるんだろうな」
「解ってるって、何がですか」
 
 
 田丸は、心底不思議そうに首を傾げる。老人が焦れたように眉根を寄せて、ちらりとヒナコへと視線を向けた。そうして、微かに声を潜めて言う。
 
 
「元男っつうことだ」
 
 
 一瞬ビクリと肩が震えた。胸に刺さった杭を、靴の裏で更に叩き込まれたような感覚に陥る。ヒナコは俯いて、そのままセーターの裾を両手でぎゅっと握り締めた。こんな事を言われる度に傷付く自分は、きっと虫以上に弱い。こんな痛みには、慣れなくちゃいけないのに。感覚がなくなって、平然と笑っていられるようにならなくちゃいけないのに。
 
 老人が声を落としたまま続ける。
 
 
「朝子を愛人にしてる俺が言うのも何だけどな、元男をバシタにするっつうのは、いろいろと難しいんだ。普通に嫁さん貰って、そこの嬢ちゃんは愛人ぐらいにしとく方が嬢ちゃんのためにもなる。無闇に中傷に晒すのも気の毒だろうが」
 
 
 きっと、老人は正論を言っている。元男と所帯を持つだなんて、確かに普通じゃない。しかも、ヤクザという一つの家族の集合体の中では、決して認められるものではない。特に田丸のような幹部になれば、より血筋に正当性を求められる立場であることは想像に難くない。
 
 だから、ヒナコは諦めなくちゃいけない。諦めるのが当然なのだから。こんな中途半端な人間が平然と誰かの横にいられるわけがないじゃないか。
 
 自虐的な思いに、苦笑が滲みそうになる。視界の端に、口角をやんわりと吊り上げた朝子の姿が見えた。その酷薄な笑顔は、紛れもなくこう言っていた。
 
 
『ざまあみろ』
 
 
 眼球が潤む。目蓋を閉じて涙を堪えようとした時、指先が細い指に絡め取られた。田丸が老人を見詰めたまま、平然とした声音で答える。
 
 
「そんなの、別にいいです」
 
 
 呆気ない言い草だった。老人の忠告を気にも留めない田丸の様子に、ヒナコは込み上げていた悲しみが和らいでいくのを感じた。まるで不器用な恋人のように、田丸はヒナコの掌を握り締めている。それだけで、どうしてだか満ち足りた。
 
 老人が顔を顰めて、唇をもごつかせる。
 
 
「別にいいってなぁ…」
「こいつを中傷する奴がいたら、俺が黙らせますよ。俺はね、こいつがいいんです。他は要らんのです。だから、あんまり親父も言わんでやって下さい。こいつはね、泣くのを堪えちまうんです。泣きたいのに、堪えようとするんです。俺は、そういうこいつを見るのが切なくってたまらないんですよ」
 
 
 田丸が少し困ったように肩を竦める。何処かおどけた仕草だった。咄嗟に、ヒナコは蹲りそうになった。身体中に温かい感情が溢れて、皮膚がパンと音を立てて弾けそうだった。
 
 込み上げてきた感情に、何と名前をつけたらいいんだろうか。喜びか、楽しさか、それともそれらすべてを包括した愛というものなのか。愛、これが愛だ。紛れもなく、ヒナコは田丸を愛していた。人生の中で、これほど誰かを好きになることは二度とない。そう確信するほど、鮮烈な愛に呑み込まれていた。
 
 

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Published in 朱色のワタシ

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