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11 オンナ

 
 夕方に田丸と別れて、自宅のマンションまで辿り着いたところで、マンションの鍵を店に置いたままなのに気付いた。しまった、と顔が歪む。店に行けば、間違いなく朝子に会ってしまう。田丸に、朝子の店には行くなと言われたばかりなのに、自分の迂闊さが呪わしかった。だが、馬鹿正直な自分の性根を考えれば、黙って仕事を辞めることなんか出来るわけがない。どうなるにしても、挨拶ぐらいはしなくてはいけないだろう。しかし、あんな冷たい眼差しでヒナコを見ていた朝子の様子を思い出すと、行く前から皮膚が凍えるようだった。嫉妬と憎悪にまみれた女の目は、今まで味わってきたどんな眼差しよりもおぞましい。
 
 憂鬱さと恐怖を腹の底に抱えたまま、ヒナコは店まで行った。まだオープンまで三時間以上余裕がある。朝子がいなければいい、と思いながら、裏口から店へと入った。ロッカールームを覗くと、そこにはまだ誰もいなかった。軽く息を吐き出して、昨夜から入れたままの鞄を取り出す。だが、どうしてだか鞄の内ポケットに入れたはずのマンションの鍵がどうしても見付からなかった。鞄の中身をすべて出しても、その形は見えない。何処かに落としたのかもしれないと思うと、狼狽に胸が詰まった。憂鬱が濃度を増して、背中に圧し掛かってくる。
 
 もしかしたら店内に落としているかもしれないと思い、そっとロッカールームから店内への扉を開く。まだ電気もついていない薄暗い店内には、人の影は見えなかった。そろりそろりと泥棒のように足音を潜めて忍び込みながら、床へと目を凝らす。臙脂色の絨毯の上に、銀色の形がないのかを探す。しかし、店内を一周しても鍵は見当たらなかった。思わず溜息を吐き掛けた時、不意に背筋に悪寒が走った。
 
 
「おかえり、ヒナちゃん」
 
 
 ひたりと背中の皮膚に貼り付く様な、粘着いた声音だった。息を詰めて、肩越しにゆっくりと振り返る。そこには、カウンターの椅子に腰掛けている朝子の姿があった。ついさっきまでカウンターには誰も座っていなかったはずなのに、どうしてそこにいるのか理解出来ない。まるで何もないところから不意に湧いて出たような不気味さを感じた。
 
 朝子は、カウンターに置いた長方形の箱から黒い塊を口へと運んでいる。よく見ると、それは客からプレゼントされた高級チョコレートだった。カウンターの上に、食べ散らかされた大量のチョコレートの包みが散乱している。それだけでも十分異様だったが、それ以上に恐ろしかったのはチョコレートの箱の横に置かれた出刃包丁だ。ギラリと鈍く光る切っ先にヒナコは息を飲んだ。
 
 
「何探してるの?」
 
 
 朝子が頬袋にチョコレートを詰めたまま、再び問い掛けてくる。ヒナコは、咄嗟に言いよどんだ。唇を二三度戦慄かせてから、消え入りそうな声で答える。
 
 
「マンションの、鍵がなくて…落としたのかと思って…」
「それってこれかしら?」
 
 
 朝子の人差し指に掛けられていたのは、小さな鍵だ。ヒナコのマンションの鍵。それを見た瞬間、ぞっと背筋が粟立った。鍵は落ちていたんじゃなくて、朝子がヒナコの鞄から抜き取ったんじゃないだろうか。そうでなければ、こんな偶然そうそう起こるわけがない。
 
 細い指先にかかった鍵をゆらゆらと左右に揺らして、朝子が艶然とした笑みを滲ませる。
 
 
「返して欲しい?」
「…はい」
 
 
 弱々しく答えると、朝子は、うふふ、とまるで獲物を甚振るような甘やかな笑い声をあげた。湾曲した唇の周りには、薄っすらとチョコレートらしき茶色がこびり付いている。
 
 
「いいわよ、返したげる。ほら、取りに来て」
 
 
 伸ばされた掌の上に、鍵が乗っている。まるで、待ち侘びるように朝子は両肩を軽く揺らした。
 
 ヒナコは一歩一歩ゆっくりと進んで、鍵へと手を伸ばした。そうして、鍵を掴もうとすれば、まるで焦らすように朝子の手が退けられる。追い掛けるように更に手を伸ばせば、また引かれる。まるで追いかけっこのようだ。朝子の咽喉を震わせるような微かな笑い声が聞こえる。
 
 
「返して、ください」
 
 
 殆ど懇願するように呟いていた。別段何もしていない筈なのに、酷く心が消耗している。弱り切ったヒナコの様子に、朝子は更に笑い声を深めた。美しい一重瞼の脇に、醜悪な笑い皺が刻まれる。
 
 
「ダメよ、だぁーめ。あんたには一生何にもあーげない」
 
 
 まるで小学生の苛めっ子のような台詞だった。だが、それは小学生のものよりもずっと陰湿な響きを持っていた。
 
 そうして、不意に脇腹にずんと突き上げるような衝撃が走る。ぐ、と息を詰めて、足を踏ん張ったが駄目だった。気付いたら、身体が絨毯の上を転がっていた。鳩尾がギリギリと捩れるような苦痛が込み上げて、臓腑が断続的に痙攣するのを感じる。咄嗟に噛み締めた奥歯がガチッと音を立てて震えた。朝子に脇腹を蹴られたと気付いたのは、数秒後だ。
 
 無様に倒れたヒナコを見て、朝子がカラカラと転がるような笑い声を立てる。そうして、カウンターの上に置いていた出刃包丁を手に取ると、青褪めるヒナコを見詰めてにこりと微笑んだ。
 
 
「あんた、あの人に抱かれたの?」
 
 
 チョコレートを奥歯の辺りで噛み砕きながら、朝子が問い掛けてくる。ヒナコは鳩尾を両手で抑えながら、じっと朝子を見上げた。普段の清楚な姿は欠片もなく、目の前の女は色濃い狂気を身に纏っていた。何も答えないヒナコを見下ろして、朝子は顔面を般若のように歪めた。
 
 
「抱かれたのかって聞いてんだよ」
 
 
 濁った声だった。女のものとも男のものとも言えない、錆びた金属と金属が擦れ合っているような音に聞こえた。出刃包丁がヒナコの胸元へと突き付けられる。息を大きく吸ったら、そのまま切っ先が肉に埋まりそうで、全身が総毛立つ。
 
 朝子が上背を丸めて、ヒナコを凝視する。瞳孔が拡大したその瞳に、魂ごと吸い込まれそうになる。近付いた朝子の咥内からは、甘ったるいチョコレートの匂いが漂ってきた。その臭気に酷い息苦しさを感じながら、ヒナコはぎこちなく首を左右に振った。
 
 
「抱かれて、ないです…」
「そぉ」
 
 
 自分から聞いておきながら、朝子は酷くそっけない相槌を返した。出刃包丁を弄ぶように掌の上で二三度跳ねさせてから、独りごちるように呟く。
 
 
「もし抱かれてたら、あんたの胸切り落としてやろうって思ってた」
 
 
 そう言って、咽喉の奥で薄く嗤う朝子の姿に全身が硬直する。カウンターの椅子へと戻ると、朝子は再びチョコレートを頬張った。
 
 
「そうよ、そう。あんたみたいな、ぽっと出の奴にあの人を取られて堪るもんですか。トンビに油揚げなんてこと許せるわけないわ。許せない、許さない許さない許さない、許さねぇからな」
 
 
 執拗に反芻される言葉が次第に崩れていく。朝子の目には、もうヒナコは映っていなかった。うふふふふと笑いながら、チョコレートを貪る姿は常軌を逸していた。ヒナコは痛む脇腹を抱えながら、ゆっくりと起き上がった。鳩尾から肋骨まで痺れるような痛みが広がって、一瞬咽喉がひゅっと掠れた呼吸音を漏らす。
 
 
「あ、さこさん、は、田丸さんを…」
「愛してるわ」
 
 
 最後まで言う前に、朝子が遮るように答えた。さも当たり前かのような滑らかな答えだった。
 
 
「でも、…あさこさんは、組長の…女だって…」
「そうよ、あたしはあの人の父親の愛人よ。だから何? あの人のことを愛しちゃいけないわけ? そもそも、あたしは二十年以上前からあの人だけを愛していたのよ。つい昨日会ったばかりのあんたなんかに横から掻っ攫われて堪るかよ畜生」
 
 
 噛み付くように朝子が粗雑な言葉を吐き捨てる。喋る度に唇の隙間から、チョコレートに塗れた茶色い歯が覗き見える。ヒナコは、二十年という言葉に目を剥いた。
 
 
「二十、年?」
 
 
 オウム返しに繰り返すヒナコを、朝子が軽蔑するような眼差しで見遣る。その眼差しが言っていた。あんたとは年季も想い入れも全然違うんだよ。
 
 
「そうよ、二十年以上。あの人が大学生で、あたしが小学生の頃からずっとずぅーっとあたしはあの人だけを見てきたのよ。あの人はね、元々はあたしの姉の恋人だったの」
 
 
 朝子の眼差しが過去を思い返すように宙を緩く彷徨う。完全にヒナコの存在をシャットアウトして、自分の世界に入り込んでいるかのようだった。
 
 
「姉に連れられて、あの人は何度もあたしの家に来たの。あたしはね、あの人が姉を抱く姿を見たわ。箪笥の中に隠れて、隙間からずっとあの人の背中を見てたの。肩甲骨を汗が伝うところまで、ちゃんとちゃんと見てたのよ。あの人は、あたしが見てるのに途中で気付いてたわ。姉を犯しながら、あたしを見て嬉しそうに笑ったの」
 
 
 両手の指を組み合わせて、宙を見詰める朝子は丸っきり乙女じみていた。その滑らかな頬が高揚に鮮やかなピンク色に染まっている。キラキラと輝く瞳は、過去の田丸を見詰めているようだった。
 
 
「姉がシャワーを浴びに行った後、あの人は箪笥をあけてあたしの頭を優しく撫でてくれたの。それから、良い勉強になっただろ、早く彼女作れよって言ったわ。だけど、あたしはあの人に抱かれたかった。姉じゃなくて、あたしを抱いて欲しかった。その頃から、ずっとずっとあたしは、あの人の女になることだけを夢見て生きてきたのよ。―――それなのに」
 
 
 不意に、声が下がる。恨めしさと忌々しさが篭った負の眼差しがヒナコへと突き刺さった。
 
 
「中途半端なオカマがでしゃばりやがって、ふざけんなよ糞が。何であんたみたいな女にも男にもなり切れねぇゴミクズがあの人に選ばれんだよ。何であの人に優しくしてもらえんだよ。糞が糞が糞が、何であたしがあの人じゃなくて、老いぼれ爺に抱かれなきゃなんねぇんだ」
 
 
 尽きぬ恨み言を吐き出しながら、朝子は鷲掴んだチョコレートを次々と口の中へと放り込んだ。くちゃくちゃとチョコレートを噛む音が聞こえて来る。その姿を、ヒナコは押し黙ったまま見詰めた。
 
 朝子は、女だった。身体は元男かもしれないが、心は完全に女のものだった。一人に男に恋焦がれ、そうして手に入らないことに薄汚いまでの嫉妬心と悔恨を抱いている姿も。それに比べて、自分は何なのだろうとヒナコは思った。朝子の言う通り、女にも男にもなれないゴミクズだった。胸に突き刺さる痛みを感じながら、ヒナコは立ち尽くした。
 
 反論が返せなかった。朝子に立ち向かうだけの力も根拠も、ヒナコは持ち合わせていなかった。長年蓄積された想いを抱える朝子に対して、自分は一体何を持っているだろう。ただ、好きなだけだ。田丸が好き、あの人が可愛い、あの人を抱きたい、それだけしか持っていない。
 
 チョコレートを最後の一つまで貪り食べて、朝子はふぅっと小さな溜息をついた。その形の良い唇の周りは、もうチョコレートでべちゃべちゃに汚れている。
 
 
「あの人の女になるつもりだったのに、人生って腹が立つぐらいままならないものね」
 
 
 そう独りごちて、朝子は気だるそうに瞬きをした。それから、無関心な眼差しでヒナコを見詰める。
 
 
「店は辞める?」
「…辞めます」
 
 
 そう答えるのがやっとだった。朝子は、そうと興味なさそうに呟いてから、ヒナコから目を逸らした。手を軽く動かして、ヒナコへと鍵を投げる。それを咄嗟にキャッチして、ヒナコはどうしてと思わず呟いていた。朝子は面倒臭そうに首を左右に振った。
 
 
「はらわたが煮えくり返ると、無性に甘いもの食べたくなるの。チョコ食べてないと、あんたのこと勢いあまって刺し殺しちゃいそう」
 
 
 そうして、『もうチョコなくなっちゃったわね』と朝子は上の空で続けた。ヒナコは、急いで踵を返した。そうして、もう此処には二度と来れないと思った。朝子にも、二度と会えない。会ってはいけない。
 
 情念の魔物が朝子の体内で、確かに息衝き、生々しく蠢いていた。
 
 

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Published in 朱色のワタシ

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