Skip to content →

12 バー

 
 朝子の店を辞めてから一週間後、ヒナコは小さなバーで働き始めた。今度はニューハーフバーではなく、極普通のバーだ。人通りの少ない裏路地の地下にあるバーで、平日の夜は数えるほどしか客が来ない。だが、週末前の夜となると、途端に客が増えて賑わう。心なしか週末だけは、店のくすんだ内装もお客の活気を吸い取って明るく華やいでいるように感じた。何だか春がくるまで、ずっと冬眠しているサナギのような店だと思う。
 
 店員は、店長と古株のキッチン担当とヒナコの三人きりだった。当初仕事はウェイターだけだと思っていたが、人員不足が原因で自然とバーテンダーの仕事も任されるようになった。初めは恐る恐る振っていたシェイカーも、二週間も経てばそれなりに様になるようになってきた。最近では、お客から「女の子のバーテンなんて珍しいねえ」なんて感心したように声を掛けられることもある。その度に、ヒナコは面映ゆいような何とも言えないくすぐったさを感じた。
 
 店長ももう一人の店員もヒナコが男である事を知っているが、特に深く踏み行ってくる事はなく、適度な距離を保って接してくれる。以前のニューハーフバーで働いていた時より、お客との遣り取りもずっと気楽になった。男である事を嘲笑われたりすることもなく、作り物の胸を鷲捕まれることもない。カウンターという壁を挟んで他人と対峙できるのは、絶大な安心感をもたらした。
 
 もしかしたら、自分はあまり人と接するのが得意ではないのかもしれない。と、グラスを拭きながらぼんやりと考える。最近はグラスを磨きながら取り留めのない思考を弄り回すのが癖になっていた。
 
 
 ピカピカに磨かれたグラスを、棚へとそっと戻す。グラスの薄い飲み口が仄暗い照明を反射してチカリと光る。このグラスを磨いたのは今日で二回目だった。月曜日の夜なんて、この店にとって一週間のうちでも最も暇な時間だ。
 
 あまりに客が来ないために、店長は早々に店をエスケープして、最近オープンしたばかりのスロット店へと遊びに行ってしまった。もう一人の店員は、キッチンの奥に突っ伏して今頃夢の世界にいることだろう。ヒナコも多少はサボッたりしても、誰からも咎められないことは解っている。だが、生来の生真面目さゆえに仕事をおざなりにすることもできず、一人こうして黙々とグラスを磨く羽目になっている。そうして、有り余った時間の中、ぐるぐると思考ばかりが空回りし続けるのだ。
 
 
 ヒナコは、自分のことを内省的な人間だと思っている。いつだって無駄に考えすぎるのだ。思考はぐじぐじと同じ場所をただひたすら掘り返し、最終的に溢れ出した自分自身の泥にまみれる。
 
 自分がゲイだと自覚した時だって、自分はそういう人間なんだ、と極単純に考えれば良かったのだ。この世の中には自分と同じ人間がたくさんいるし難しく考える必要はない、と楽観的に。ヒナコは、それができなかった。ゲイである自分に悩み抜き、苦しさのあまり家族にカミングアウトし、妹から否定された挙げ句に迷走して、結果女とも男ともわからない存在になってしまった。自分が女になりたいかすら解っていないくせにただ主張するような胸だけをこさえて、何とも滑稽な事だ。
 
 目線だけで胸元を見下ろす。シャツを膨らませるなだらかな曲線。最初はそれを見る度に自分が女だと思えて安心していたけれども、今では不安しか感じない。その膨らみを見る度に、自分が奇妙怪奇な化け物になったかのように思えてしまう。
 
 いっその事、陰茎を切除してしまえばこの嫌悪感も消えるかもしれないと悩む時もあった。以前はそれを真剣に考えていたし、実際に海外に手術に飛ぼうと思ったこともある。だが、今ではそれは出来ない。たった一人の男の存在がヒナコの存在を根底から覆したのだから。
 
 ぼんやりと霧のようにたゆたう思考の中に、ぽつんと一人の男が現れる。少し猫背気味な、ひょろりとしたなで肩な男。ヒナコの心を一瞬にして奪った男。
 
 
――田丸さん。
 
 
 声に出さないままに、唇だけを淡く動かす。まるで恋する乙女のような仕草をしているなと思って、少し笑えた。
 
 
 田丸清一。誠闘会の幹部。養父は誠闘会の組長。背中には褪せた毘沙門天の刺青。島田という部下がいる。他人に対して躊躇なく暴力を奮う。時折見せる表情がはっとするほど幼い。そして、咥内左奥に抜かれていない親知らずが生えている。
 
 それがヒナコが知っている田丸のすべてだ。たったそれだけ。だが、それだけで胸がはち切れそうなくらい幸福だった。
 
 
 田丸にキスをした時のことを思い出す。薄い唇を割って、咥内へと舌を差し込んだ。彼の唾液を呑んだ。自分の唾液を呑ませた。微かに煙草の味のする苦い唾液を思い出すだけで頭の芯がぢんと痺れて、足下がくらりと揺れそうになる。
 
 田丸は性を過剰にまき散らすタイプの人間ではない。それどころか、その厭世的な顔立ちは他者と隔絶されたストイックさすら感じさせる。それなのに、ふとした瞬間に匂い立つのだ。枯れかけた花が一気に花弁を開くように噎せ返るような色香が立ちのぼる。あの石のような清潔な匂いのする首筋から、ヒナコを誘う蜜が垂れ流される。私を喰って、と言わんばかりの甘い香りだ。
 
 あの匂いを嗅いだ瞬間、ヒナコは男へと変わる。それまで男と女の狭間をさまよっていた性が強制的に男へと切り替えられる。そうして、腹の底から込み上げてくるのは雄としての衝動だ。目の前にいる男を抱きたい。犯したい。自分の雌にしたいという抗いがたい本能。
 
 一体、何がこれほどまでに自分をあの男へと惹き付けるのだろう、とヒナコは考えた。姿だけ見れば、その辺りを歩いているオジさんと対して変わりはない。少し痩せぎすな中年男、首筋からは洗われた石のような固く清らかな匂いがする。思い出した瞬間、身震いするような恋しさが込み上げてきた。今は田丸のすべてが可愛くて、愛おしい。無条件な恋心に、今更理由をつけることなんて出来なかった。
 
 
 あのデートの日から、田丸には会っていない。メールで新しい店で働き出した事は伝えたが、田丸から返事が返って来ることはなかった。もしかしたら、自分の事なんて忘れてしまったのかもしれないと不安にも思ったが、だからといってしつこい女のような真似をするのも躊躇われた。ぐずぐずしている内に、田丸と会わなくなって一ヶ月が経とうとしている。
 
 
 会いたい、とメールを打ってもいいだろうか。それとも、家に行ってみてもいいだろうか。だが、そんな事をして鬱陶しい奴だと思われないだろうか。ここ数日、ヒナコの頭を満たすのはその事ばかりだ。
 
 だが、あのデートの日だって、田丸はヒナコに対して少なからず好意を抱いてくれているようだったではないか。所帯を持ちたいとまで言ってくれて…。でも、それは単なる気まぐれだったのだろうか。田丸は、ヒナコが思うほどヒナコのことを好いているわけではないのかもしれない。
 
 
 じっとしていると嫌な想像ばかりが頭を過ぎる。本日三回目のグラス磨きに入ろうと棚に手を伸ばした時、バーの扉が開く音が聞こえた。
 
 
「いらっしゃいま、せ…」
 
 
 反射的に出した言葉の語尾が固まる。扉の前に猫背気味に立った田丸がひらりと掌をあげた。
 
 

backtop ┃ next >

Published in 朱色のワタシ

Top