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10 祈りの歌

 
 馬舎へと向かう。そこには二頭の馬が繋がれていた。それぞれ栗毛と黒毛の馬で、父とユーティの愛馬だった。黒毛の馬へと呼び掛けるように声を上げる。
 
 
「アベル」
 
 
 黒毛の馬が頭を上げる。近付いて鼻面を撫でると、ぶるるると満足げな鼻息を漏らすのが聞こえた。
 
 
「カヤ、この子はアベルだ。三歳になる俺の馬。気性は少し荒いが、足は村一番に速い」
 
 
 そう紹介する。アベルの黒々とした瞳を見つめてから、カヤは静かに指先を伸ばした。柔らかな手付きで、アベルの毛並みを撫で、確かめるように後ろ足に触れる。
 
 
「良い馬だな。足が引き締まっていて、臀力も持久力もありそうだ」
 
 
 カヤの誉め言葉に、ユーティは無意識に唇を緩めていた。
 
 
「有り難う、カヤにそう言ってもらえると嬉しいよ」
 
 
 そう告げると、カヤが一瞬堪えるような表情を浮かべた後、パッと顔を逸らした。その耳が僅かに赤いのが見える。その淡い朱色が酷く愛らしい。
 
 ユーティは、馬具を手早く取り付けた。アベルに飛び乗って、カヤへと手を差し伸べる。
 
 
「カヤ、乗って」
「…お前と一緒に乗るのか?」
「アベルの足は強い。長距離でなければ、二人乗りでも問題ないさ」
「そういう事じゃなく…」
「君の足が心配なんだ。一緒に乗っていた方が揺れも少なくなる」
 
 
 ここに馬でやって来た時に、苦悶の表情を浮かべていたカヤの姿を思い出す。今では歩いたぐらいでは足が痛む様子は見せないが、一人で馬に乗せるのは流石に心配だった。
 
 そのまま手を伸ばしていると、諦めたようにカヤはユーティの手を掴んだ。握りしめる手にグッと力を込めて、一気に馬上へと飛び乗ってくる。足が悪いとは思えない、滑らかで軽快な動作だった。
 
 前方に座ったカヤの身体の横から腕を伸ばして、綱を掴む。カヤの態勢が整ってから、馬を走らせた。最初はゆっくりと、徐々に速度を出していく。
 
 
「足は痛まないか?」
「平気だ」
「ん、良かった。少し距離はあるけど、湖の方まで行ってみようか」
 
 
 そう零して、方向を変える。家が見えなくなり、少しずつ村から遠ざかっていく。人工物がなくなり、視界に見えるものがすべて瑞々しい自然へと変わる。
 
 カヤは時折ぐるりと周囲を見渡す以外は、真っ直ぐ前を見据えていた。表情は引き締まっているが、村の中よりもずっと穏やかな顔をしている。
 
 村から離れて十分ほど経った頃だっただろうか。風に乗って、淡い歌声が聞こえてきた。カヤが小さな声で歌っている。子守歌のような、柔らかく微睡むような歌だ。それが何の歌なのか聞いてみたかったが、カヤの歌を遮りたくなくて、ユーティは口を噤んだ。透き通るようなカヤの歌声に、静かに耳を傾ける。
 
 暫くすると歌声が止まった。
 
 
「何の歌なんだ?」
「アジムに古くから伝わる狩りの歌だ」
「狩りの歌にしては、随分と優しい歌なんだな」
「そうだな。狩りというよりかは祈りの歌に近いかもしれない」
「祈り?」
「俺達は獣を狩る。命を奪って、捌いて食ってしまう。だが、いずれ俺達も死んで土に還り、獣達の栄養になる。命は循環していて、いずれ世界へと還っていく。だから、どうか俺達が獣を狩るのを赦して欲しい、と祈る歌だ」
 
 
 母もこの歌が好きだった。とカヤは独りごちるように続けた。
 
 
「君のお母さん?」
「そうだ。俺が二つになる前に病気で死んだからあまり記憶はないが、この歌をよく歌っていたのは覚えている。狩りの歌なのに、まるで子守歌みたいに歌っていた」
 
 
 柔らかなカヤの声で、その思い出が彼にとって酷く大事なものなんだと解った。
 
 
「父に母のことを聞くと、決まって何とも言えない表情をするのが面白かった。それから『お前の母さんは不思議な人だった』と、苦笑いを浮かべながら言うんだ。俺は父さんのその苦笑いを見るのが好きだった。その表情を見る度に、父さんが母さんのことを本当に愛していたことが伝わってくるから。その度にどうしてだか俺まで誇らしい気持ちになった」
「誇らしいか…少し解るような気がするよ」
「そうか、解るか」
 
 
 ぽつりとカヤが零した。僅かな沈黙が流れる。
 
 不意にカヤが肩越しに振り返ってきた。至近距離でユーティの顔をじっと見つめてくる眼差しに、心臓が小さく跳ねた。
 
 
「あんたの話を聞きたい」
「俺の?」
「俺ばかり話すのはズルい」
 
 
 ズルいだなんて、まるで子供の言い分だ。子供っぽいカヤの口調に、思わず唇から笑い声が零れてしまう。
 
 
「俺の話か。いざ話すとなると何を話せばいいのか解らないな」
「お前が子供の頃の話とか」
「子供の頃…あまり良い子だったとは言えないな」
 
 
 良い子ではなかったと言えば、僅か驚いたようにカヤが目を大きく開いた。
 
 
「荒れていたのか?」
「荒れていたというよりも、閉じ篭もっていたに近いかな。自分が拾われた子供だと知った頃は、誰とも話したくなかったし、家族とさえ目を合わせられなかった。毎日何かに怯えていた気がする。いつお前なんか要らない、この家から出て行け、と言われるのかと思ってビクビクしていた」
 
 
 緩やかな馬の歩みの中、ぽつぽつと言葉を落としていく。カヤは前を向いて、黙ってユーティの言葉を聞いているようだった。
 
 
「それから、自分の気持ちを上手く言葉に出せなくなったような気がする。その場の雰囲気を読んで、その時にふさわしい自分を演じているような…自分の本当の気持ちを口に出したら、みんなから見捨てられてしまうような気がして――」
 
 
 そこまで喋ったところで、不意に唇が動かなくなった。言葉が咽喉の奥に重く詰まっている。吐き出したいのに、吐き出せない。こんな無様な感情は表に出してはいけない、と自分の中の誰かが必死に唇を閉ざす。いつだって本当の言葉は、自分の口から出てこない。もどかしさに下唇を噛み締める。
 
 そのまま押し黙っていると、前方に座っていたカヤが不意にユーティの胸元へと凭れ掛かってきた。体温と重みがじわりと伝わってくる。そうして、カヤは独り言のような声音で呟いた。
 
 
「俺は、見捨てない」
 
 
 その声が耳に届いた瞬間、無意識に息が止まった。咽喉がひゅっと短い音を漏らす。カヤが続ける。
 
 
「お前がどんな奴でも、俺はお前を見捨てない」
 
 
 淡々とした、だが揺るぎない声音だった。自分の言葉を疑わない、真っ直ぐ心の奥底まで響いてくるような凛とした声だ。不意に、唇が情けなく震えそうになった。
 
 
「どうして…」
 
 
 掠れた声で問い掛けると、凭れ掛かったままカヤが首を捻るようにしてユーティを見つめてきた。
 
 
「お前が俺を見捨てなかったように、俺もお前を見捨てない。それだけの事だ」
 
 
 そう口に出して、カヤはほんの少し目元を和らげた。そうすると、鋭い顔立ちに何とも言えない甘さが滲み出てくる。
 
 
「それに、仮初めだろうが俺達は夫婦だろう? 夫を見捨てたりしないよ」
 
 
 運命共同体なんだろう?と、まるで悪戯っ子のように問い掛けて、カヤが小首を傾げる。その瞬間、胸の奥底から温かく柔らかい感情が込み上げてくるのを感じた。
 
 
「カヤ…」
「なんだ?」
「カヤ、俺は君を――」
 
 
 自分が何を言おうとしているのか、自分でも解らなかった。咽喉に詰まった重みを強引に押しのけて、感情が唇から溢れ出ようとしている。
 
 だが次の言葉を口に出そうとした瞬間、不意にカヤが唇に人差し指を当てて、静かに、と押し殺した声を上げた。馬の足を止めて、じっと探るような眼差しで遠く離れた草むらを見つめる。
 
 

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Published in 花嫁のカヤ

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