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12 心臓

 
「構えが遅い」
 
 
 言い放たれた冷たい声音に、グッと咽喉が詰まる。弓矢を構えたまま視線をちらりと横へと向けると、途端寒々とした眼差しが突き刺さった。
 
 
「一本目を打ったら、直ぐに矢筒から二本目を引き抜いて構える。左手を固定位置から動かさなければ、二打目を打つ速度も上がる」
 
 
 噛んで含めるような口調に、ユーティは情けなく眉尻を下げた。まるっきり物覚えの悪い生徒と厳しい先生のような状況だ。
 
 
「すまない、覚えが悪くて」
「お前が夫じゃなかったら、尻を蹴り飛ばしてるところだ」
 
 
 本気か冗談かわからないその一言に、思わず目を大きく見開く。すると、そのユーティの表情が可笑しかったのか、カヤが噴き出すように笑った。
 
 
「ふ、ふ、冗談だ」
「なんだ冗談か」
「あぁ、勿論。夫だろうが他人だろうが、後二回同じ失敗を繰り返したら、その尻を思いっきり蹴っ飛ばしてやる」
 
 
 冗談ってそっちの方か、と思わず脱力してしまう。肩をガックリと落としたユーティを見て、カヤが更に高らかな笑い声を上げる。腹を抱えてケラケラと笑い声を上げる姿は、酷く子供っぽい。
 
 カヤがミド家に嫁いできてから既に三月ほど経った。この三月の間に、カヤも随分とミド家に馴染んだ。ミド家だけでなく、村人達の間にもカヤの存在は浸透しつつある。
 
 あの狩りに出掛けた日の夜、カヤを伴ってアカシカの肉を近隣の家へと配り歩いた。村人達は最初はギョッとした表情を浮かべていたが、ユーティやエマが『うちのお嫁さんが』と何度も繰り返しているのを聞いて、ようやくミド家がカヤを受け入れたのを感じ取ったのだろう。肉を渡して立ち去る時には、誰もが穏やかな眼差しでカヤを見つめていた。
 
 勿論村人全員がカヤを受け入れたわけではない。まだ懐疑的な眼差しを向ける人間もいる。それでも今では表立ってカヤを糾弾するような人間は一人もいなかった。
 
 カヤもよく辛抱した。足が悪いながらも黙々と家事に励み、ミド家の息子達に丁寧に弓の作り方を教えた。木材を選定し、綺麗にまとめられた図解を描き上げて、夜遅くまで説明した。
 
 それにカヤの弓の腕は一流だった。遠く離れた的の中心を正確に射抜く。弓矢の射ち方を教えて欲しいとユーティが頼むと、カヤは一瞬面映ゆそうな表情を浮かべて頷いた。カヤは照れると、少しだけ不貞腐れたような表情をする。それがユーティには可愛くて堪らない。
 
 カヤの人の良さが次第に周囲にも伝わってきたのか、最近ではカヤの弓講座に近隣の子供も参加するようになってきた。カヤはユーティを指導する合間に、子供達にも丁寧に矢の射ち方を教える。ユーティに対する指導は厳しいが、子供達へ向ける言葉は優しい。
 
 今も叔父バハルの五歳になったばかりの娘、ヨヨがその小さな手で子供用の弓を弄っている。
 
 
「ヨヨ、あんまり引きすぎると危ないぞ」
 
 
 ぐいーっと力の限り弦を引っ張るヨヨへと、カヤが慌てて駆け寄る。ヨヨはつぶらな瞳で、カヤを不思議そうに見上げた。ふっくらとした赤い頬を見つめながら、カヤが優しく微笑む。
 
 
「一緒に射ってみるか?」
 
 
 カヤが問うと、ヨヨは嬉しそうに目を細めた。ヨヨは無口な子だが、その表情は言葉よりも雄弁に心を語る。カヤもこの大人しく愛らしい子を特別可愛がっているようだった。
 
 そういえば、この三月で一番変わったことがある。カヤがよく笑うようになった。最初はぎこちなかった笑顔も、今では溌剌とした屈託のない笑顔へと変わっている。カヤが本来持っていた健全な魂がその笑顔と共に少しずつ溢れ出しているようだった。カヤの笑い声を聞く度に、ユーティまで嬉しくなる。
 
 カヤがヨヨの手を補助しながら、子供用の小さな弓を引いていく。木に取り付けられた的に矢が当たると、ヨヨがふにゃりと頬を綻ばせるのが見えた。ヨヨの笑顔を見て、カヤがまた嬉しそうに目を細める。
 
 その時、家の方から叔父バハルの声が聞こえてきた。
 
 
「ヨヨー、そろそろ帰るぞー!」
 
 
 その声に、ヨヨがパッと顔を輝かせて、家へと向かって駆け出す。その姿を眺めながら、カヤが長閑な声を上げた。
 
 
「転ばないように気を付けろよ」
 
 
 ヨヨの小さな背へとひらひらと手を振るカヤの姿を見て、ユーティは呟いていた。
 
 
「カヤは、子供が好きなのか」
 
 
 独りごちるようなユーティの声に、カヤがふっと振り向く。その何気ない眼差しにすら心臓が小さく跳ねた。
 
 
「アジムでは、よく子供の世話係をしていたからな。弓や剣術だけじゃなくて座学なんかも教えていた」
「座学?」
「方角の見方だとか、食べられる木の実の区別だとか、傷薬や毒薬の作り方なんかをな」
「毒薬…」
 
 
 さらっと出てきた毒薬という一言に、思わず唇が半開きになる。途端、カヤが肩を竦めて笑った。
 
 
「アジムは敵が多い部族だったからな」
 
 
 違う、自分達で敵を作っていたのかな。とカヤがぽつりと呟く。まるで過去に思いを馳せるように、その視線がぼんやりと宙に浮かんだ。その目に見えない何かを見つめるような眼差しを見る度に、ユーティの心は不穏にざわついた。
 
 
「カヤは…アジムに戻りたいと考えたりはするか?」
 
 
 躊躇うように問い掛けると、カヤはパチリと大きく瞬いた。じっとユーティを凝視してから、僅か困ったように首を傾げる。
 
 
「わからない」
「わからない?」
「生まれてからずっとアジムの中で生きてきたんだ。愛情や執着がないと言えば嘘になる。他の部族としょっちゅう争っているような部族だったが、それでも自分達の中に曲げられない誇りや信念はあった。誠意を向けてくれる相手に対しては、最大限の敬意と尊敬を返していた。そのアジムの潔癖な魂が俺は好きだった。……それも、今では全て失ってしまったかもしれないが…」
 
 
 カヤが悲しげに俯く。前族長であったカヤの父が殺され、ギバが跡を継いだ時点でアジムからは信念が消えてしまったのかもしれない。他部族を侮辱し、仲間であったはずのカヤを見捨てた時点で、その潔癖な魂は泥にまみれてしまった。
 
 
「アジムには白か黒しかない。守るものと叩き潰すものとをハッキリと区別している。だが、イェフィムに来て、もしかしたら俺達は許せるものすらも叩き潰してきたのではないかと思った。話せば解り合える相手を切り捨ててきたのではないかと」
 
 
 そう囁いて、カヤは寂しげな微笑みを浮かべた。
 
 
「ここでは、たくさんの人が俺に優しくしてくれる。俺はイェフィム族を侮辱するために送られてきた人間だというのに、心から労って、ここに居ることを許してくれる。この村は良いところだ。恨みも怒りも流して、静かに受け入れてくれる。この村に来れてよかったと、今ではそう思う」
 
 
 カヤが伏せていた視線を持ち上げて、ユーティを見る。その揺るぎない眼差しに、じんわりと胸の奥が熱くなった。
 
 
「俺は、君がこの村に来てくれて嬉しい。俺の妻になってくれて」
 
 
 込み上げる喜びにそう口に出すと、カヤは一瞬驚いたように目を見張った。
 
 
「本気か?」
「本気だ」
 
 
 当たり前のように答える。すると、途端カヤの顔がカッと赤くなった。まるで熟れた林檎のようだ。カヤの目線が泳いで、明後日の方向へと逸らされる。
 
 
「…お前は、あんまりそういう事を言うな…」
「そういう事?」
 
 
 不思議そうに首を傾げると、カヤの顔がくしゃくしゃに歪んだ。羞恥と戸惑いに揺れた表情をしている。カヤは僅か押し黙った後、たどたどしい口調で呟いた。
 
 
「…心臓が、おかしくなる…」
 
 
 掠れたカヤの声。薄く噛み締められた下唇を見た瞬間、不意に言葉にしがたい衝動が込み上げた。心臓が熱くなって、脳天から指先まで血流が一気に巡る。
 
 タッ、と地面を蹴って、カヤとの距離を詰める。肩を掴むと、カヤの目が驚きに見開かれた。琥珀が溶けたような甘い色の瞳。その瞳をじっと見つめたまま、唇を重ねた。想像よりも柔い感触が唇に広がる。カヤの唇が一瞬震えたのを感じた。
 
 カヤの両手がユーティの腕を掴む。だが、その手はユーティの腕を振り払うことも、突き飛ばすこともしない。ただ小動物のように微かに震えているばかりだ。
 
 カヤの温かい呼気を感じる。口付けは一瞬だったのに、それは酷く長い時間のように感じた。
 
 そっと唇を離すと、カヤが小さな声を漏らした。
 
 
「…なんの、つもりだ」
 
 
 憤怒や嫌悪の声ではない。ただただユーティの行動が理解不能と言いたげな困惑の声音だった。
 
 
「君に口付けたかった」
「どうして…」
「君を愛しているからだ」
 
 
 思っていたよりも滑らかに、心は唇から零れ出した。その言葉はユーティの心臓の奥深くにすとんと落ちてきた。自分の言葉で、ようやく自分の心をはっきりと知った気がした。
 
 カヤを愛している。同性だとか、足が弱いだとか、そんな事は関係なく、ただ一つの魂として目の前の男を愛していた。
 カヤの目が見開かれる。その唇がわなわなと上下に震えていた。
 
 
「カヤ…嫌か? 俺のことが嫌いになったか?」
 
 
 そっと顔を覗き込んで訊ねると、カヤは首をぎこちなく左右に振った。だが、目線は伏せられたままでユーティを見ようとはしない。
 
 
「カヤ…」
 
 
 もう一度呼び掛けるのと同時に、家の扉が開かれる音が聞こえた。カヤの肩がビクリと大きく跳ねる。父が扉を開け放ったまま、感情の読めぬ眼差しでユーティを見ていた。
 
 
「ユーティ、カヤ、そろそろ昼食が出来る。中に入れ」
 
 
 父の硬質な声に、カヤの顔から見る見るうちに色が抜けていく。カヤは手の甲で唇をキツく押さえて、掠れた呼吸を漏らした。
 
 

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Published in 花嫁のカヤ

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