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18 運命

 
 目が覚めると、暗闇が広がっていた。石床の冷たさが殴られた顔面にじんわりと染み込んでくる。ゆっくりと顔を持ち上げて左右を見渡すと、小さな窓から射し込む月明かりと物々しい鉄格子が見えた。どうやら檻の中へと閉じ込められているらしい。
 
 うつ伏せになっていた身体を静かに起こす。途端、身体中の骨がパリパリと罅割れるように痛んだ。ぐぅう、と呻き声を漏らすと、暗闇から声が聞こえてきた。
 
 
「起きたか」
 
 
 カヤの声だ。目を凝らすと、隣の檻の端に座っているカヤの姿が見えた。だが、暗くてカヤの影しか見えない。鉄格子で隔てられた隣の檻へとゆっくりと近付く。
 
 
「カヤ、無事か…」
「あぁ、俺は大丈夫だ。お前こそ頭は痛まないか」
 
 
 聞こえてくるカヤの声に、ほっと息が漏れる。隣の檻とを仕切る鉄格子を両手で握り締めて、ユーティは唇を開いた。
 
 
「少し痺れは残っているが、痛みはそれほどでもない」
「そうか、良かった」
 
 
 ふ、ふ、とカヤの小さな笑い声が聞こえる。だが、その笑い声は微かにくぐもっていた。まるで何かを隠すために笑っているような。
 
 
「…カヤ、こっちにおいで。顔を見せてくれ」
 
 
 そう囁き掛けても、カヤは動こうとしない。
 
 
「頼むカヤ…君の顔が見えないと不安で堪らない…」
 
 
 哀願じみたユーティの声に、ようやくカヤが鈍く動き出す。殆ど床を這うようにして、カヤはユーティの近くまで寄ってきた。その姿が射し込む月明かりに照らされた瞬間、ユーティは息を呑んだ。
 
 
「カヤ…ッ、その傷は…!」
 
 
 カヤの顔や身体には無数の殴打痕が残っていた。ユーティの傷なんかよりもよっぽど痛々しく、容赦のない暴力の痕が浮かび上がっている。
 
 だが、カヤは赤紫色に腫れ上がった頬をぎこちなく動かして、淡い笑みを滲ませた。
 
 
「ユーティ、大丈夫だ」
「大丈夫なわけないだろ…! こんな…っ!」
 
 
 あまりの痛ましさに言葉が詰まる。
 
 鉄格子を掴む指先が震えると、カヤの指先がそっとユーティの掌を撫でた。その指の爪が何枚も剥がされているのが見える。剥がされた爪のあとには、まだ血を滴らせる赤い肉が生々しく覗いていた。
 
 
「カヤ…カヤ、すまない…。こんな酷い目にあわせて…」
「お前のせいじゃない」
「俺のせいだ。君を守ると誓ったのに…」
「ユーティ、自分を責めるな。お前は、俺を守ろうとしてくれた。自分の立場が危うくなるのも構わず、俺を妻だと呼んでくれた。だから、もういいんだ」
 
 
 まるで慰めるようなカヤの声。それは既に何かを悟っているような声音に聞こえた。すべてを諦めて、受け容れたような――
 
 はっとして顔を上げる。見開かれたユーティの瞳を見つめて、カヤはそっと微笑んだ。
 
 
「俺は、明日処刑される」
 
 
 その一言に、目の前が真っ暗になる。咄嗟に鉄格子の隙間から、カヤの手首を掴んでいた。掴んだ皮膚は、まるで死人のように冷たかった。
 
 
「駄目だ」
「ユーティ」
「ダメだダメだ、絶対に君を死なせない」
「ユーティ」
「君は何もしていない。イェフィムに懸命に尽くしてくれた。それなのに、何故殺されなくてはならない。君は悪くない。何も悪くないのに…」
 
 
 もう自分が何を言っているのか解らなかった。ただ繰り言のように、ダメだダメだ、と俯いたまま繰り返す。
 
 ふと頬に触れる掌を感じた。顔を上げると、カヤの柔らかな表情が見えた。慈しむような、愛情に満ちた表情だ。
 
 
「ユーティ、もういいんだ」
「何が…何も、いいわけがない…」
「いいんだよ」
 
 
 不意に、目の前が真っ赤になるような憤怒が込み上げた。感情が咽喉から迸る。
 
 
「いいわけがない! 君は明日殺されるんだぞ! 畜生のように、首を切られて…」
 
 
 首を切られる、という自分の言葉に、また頭の奥が真っ白になる。
 
 カヤは明日処刑される。足を引き摺りながら追い立てられるように処刑台へと上がらされて、村人達の前で首を切り落とされる。カヤの頭が地面の上を転がっていく――
 
 感情任せの声を浴びせられても、カヤは動じなかった。ただ宥めるようにユーティの頬を撫でている。
 
 
「いいんだ、ユーティ。これが俺の運命だ」
「こんな…こんな最低な運命があるものか。こんな残酷な運命があってたまるか…」
 
 
 もう堪え切れなかった。眼球から涙が溢れ出して、頬を撫でるカヤの掌をしたたかに濡らす。唇が震えて、情けない嗚咽が咽喉から零れ出した。
 
 苦しい、心臓が潰れそうだ。何故、どうして、こんな酷い運命ばかりがカヤに訪れなくてはならない。何故こんなにも懸命に、いたいけに生きてきた人間が虐げられ、魂をいたぶられるのだ――
 
 しゃくり上げるユーティへと、カヤが静かに語りかける。
 
 
「ユーティ、俺はずっと考えていた。何故、父やアンジェにあんなにも残酷な運命が与えられたのかと。二人の人生は幸福だったのかと――でも、ようやく解った。運命は、ただ訪れるだけだ。それがどれだけ残酷でも、幸運でも、ただ等しく、平等に与えられる。だからこそ、運命は受け入れるしかないんだと。……それに、俺はこの運命がそれほど悪いものだとは思わない」
「どうしてだ、どうして」
「お前に出会えた」
 
 
 涙に濡れた瞳を上げると、微笑むカヤの顔が見えた。琥珀色の瞳には温かい愛情に溢れている。悲しいくらい、穏やかな表情だ。
 
 
「俺を嫁にしてくれてありがとう。足弱の男を、殺しもせず労ってくれてありがとう。あのとき死ななくてよかったと心から思えた。短い間だったけど、この村で暮らせて楽しかったよ。それにお前と一緒に生きれて幸せだった。もう十分だ。悔いはない」
 
 
 悲しみで胸が潰れそうだ。狂おしいほどにカヤが愛おしくて、だからこそ悲しくて堪らない。
 
 縋るようにカヤの腕を掴んで、ユーティは首を左右に小さく振った。
 
 
「カヤ、やめてくれ…。頼むから、そんなことを言うな…」
 
 
 震えるユーティの身体をさすって、カヤが唇を開く。
 
 
「ユーティ、よく聞いてくれ。きっともうそろそろ義兄さん達がお前を迎えに来る。お前だけなら解放してもらえる。ここから出たら、すぐに家族全員でこの村から離れてくれ。明日にはきっとアジム族が攻めてくる」
 
 
 駄々を捏ねるようにユーティは首を振り続けた。
 
 
「いやだ、絶対にいやだ…君も一緒じゃないと…君を見捨てるぐらいなら死んだ方がマシだ…」
 
 
 本気だった。カヤがいない人生など意味がない。カヤを見捨てて生き残るぐらいなら、いっそ一緒に息絶えた方がいい。愛しい人を守れない自分に生きる価値はない。
 
 だが、泣きじゃくるユーティを見つめて、カヤは微笑むばかりだ。カヤの両手がそっとユーティの両頬を包み込む。鉄格子の隙間から、カヤの唇が静かに落とされた。重なる唇の柔らかさと、ほんの僅かなぬくもりに、吐き出す息が震える。
 唇が離れると、カヤは祈るように囁いた。
 
 
「――愛してるよ、ユーティ。どうか俺を忘れて、幸せに生きてくれ」
 
 
 心臓が裂ける音が聞こえた。ビリビリとまるで紙でも破るような、身体が真っ二つに引き裂かれるような――
 
 開きかけた唇が震えて、言葉が出てこない。ユーティはカヤを見つめた。その琥珀色の瞳を。
 
 目の前の光景が罅割れる、粉々に砕ける。純粋な愛情が自分の心をバラバラに壊していくのを、その瞬間ユーティははっきりと感じた。
 
 その時、誰かの足音が聞こえた。足音は鉄格子の前で止まった。
 
 
「…ユーティ、出るぞ」
 
 
 茫然自失のまま視線を振り仰ぐと、苦渋に顔を歪めたボラドとイギーの姿が見えた。檻が開かれて強引に引き摺り出される。立ち上がろうにも、膝から力が抜けて歩けなかった。半ば人形のようになったユーティを、左右からボラドとイギーが支えて、牢屋から出て行く。
 
 出ていく瞬間、肩越しにカヤを見た。カヤは声を出さず、唇だけを静かに動かした。
 
 『さようなら』と唇が言葉を描く。
 
 その光景を最後に、鉄扉は重く閉ざされた。
 
 

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Published in 花嫁のカヤ

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