Skip to content →

1 純白のベール

 
 純白のベールの下で、彼は一体どんな表情を浮かべているのだろう。
 
 周囲へと巡らしていた視線を、微動だにしない隣の男へと向ける。隣に座っている男の頭から足元までは、真っ白なベールが被せられている。ベールの下の身体は、色鮮やかな花嫁衣装を纏っているはずだ。急拵えで作られた、男の身体よりも少し大きめの花嫁衣装。
 
 男は、一体どんな気持ちでその衣装に袖を通したのだろう、と想像する。アジム族では、屈辱は死と同意義だったはずだ。
 
 
「ユーティ、祝杯を」
 
 
 聞こえてきた声に視線を上げると、酒杯を掲げた長兄ボラドの姿が見えた。ボラドは、その筋骨隆々とした体躯をうねるように動かし、騒ぐ参列者達の間をすり抜けてくる。そうして、ユーティの目の前に腰を下ろすなり、酒がなみなみと注がれた杯を持ち上げた。
 
 
「結婚おめでとう」
「ありがとう、ボラド」
 
 
 笑顔で答えて、ユーティも杯を掲げる。ボラドと目線を合わせてから、示し合わせたように一口酒を咽喉へと流し込んだ。途端、鋭いアルコールと瑞々しい果実の味が咥内いっぱいに広がった。甘酸っぱい柘榴の味だ。ボラドが唸るように呟く。
 
 
「今年の柘榴は良い味だ」
「昨年は日照りもなく、川の流れも絶えなかった。イェフィムは天地に恵まれてる」
 
 
 独りごちるようなユーティの言葉に、ボラドが笑みを深める。
 
ボラドはいずれイェフィム族を率いる族長となる。族に対する責任感もあり、愛情も誇りもある。だからこそ、自らの族を褒められて嬉しくないはずがない。
 
 それは三男であるユーティも同じだ。生まれ育ったこの場所、村の真ん中に清らかな川が流れており、土は肥え、餓える事もない。周囲を荒野や山岳に囲まれているとは思えないほど恵まれた村だと思う。飢餓や死の恐怖がない分、村人達の気質も穏やかだ。
 
 だが、ユーティ達のような決まった土地に定住する一族に比べて、各地を移動して生き抜く遊牧の民は、より困難な生き方を強いられているのだろうと思う。餓えることも、狩りに失敗して死ぬことも当然のように起こりえる。だからこそ、生き抜くことに貪欲で、獰猛で、時々息を呑むほどに気高く美しい。
 
 ふと隣の男へと視線を向ける。遊牧する民であるアジム族からイェフィム族へと嫁いできた、誇り高き男。これは間違いなく、男にとって屈辱的な婚姻のはずだ。だが、男は何も言おうとはしない。純白のベールを被ったまま、凛と背を伸ばして座っている。まるで一度でも俯いてしまえば負けだと言わんばかりに。
 
 ユーティの視線の先を見て、ボラドの顔が何とも言えない表情に歪む。苦虫を噛み潰したような、哀れむような、嫌悪と憐憫が入り交じった複雑な表情だ。だが、ボラドは男を無視するように視線をユーティへと戻すと、わざとらしいほど明るい声を上げた。
 
 
「婚礼衣装、よく似合ってるな。男前に磨きがかかってるぞ」
「冗談言うなよ。ボラドに男前なんて言われると、恥ずかしくて穴に埋まりたくなる」
 
 
 茶化すなよとばかりに右手を左右に振る。実際、逞しい体格をしており、眉がクッキリと太く男らしいボラドに対して、ユーティは筋肉は付いているがボラドよりは細身で、目尻がやや垂れ気味で柔和な顔立ちをしていた。毛先に軽く癖のついた黒髪も、寝起きの草食動物を連想させられる。兄弟だというのに、悲しいほどにその外見は似ていない。
 
 
「おい、本気で言ってるんだぞ」
 
 
 憮然としたボラドの言葉に、ユーティは小さく苦笑いを零した。
 
 
「こういう場で花婿を誉め過ぎるのはタブーだよ。結婚式では花嫁を誉めなくては」
 
 
 窘めるように呟いた瞬間、ボラドの表情が微かに引き攣るのが見えた。ボラドの視線が戸惑うように宙を泳ぐ。
 
 
「まったく違う土地に来て不安な花嫁を歓迎するのが結婚式だろ」
 
 
 言い聞かせるように言葉を続ける。そのまま静かに見据えていると、ボラドは諦めたように小さく息を吐いて、ベールを被った男へと酒杯を掲げた。
 
 
「イェフィム族ミド家の新たな花嫁に、祝杯を」
 
 
 ボラドのたどたどしい祝福の言葉に、男は反応を返さなかった。ただ、濃いベールの奥から真っ直ぐに前だけを見つめている。ボラドの顔に、再び渋い色が滲んだ。今度は、男に対する不快感を隠そうともしていない。
 
 うっかり嫌味の一つでも吐いてしまいそうなボラドを抑えるように、ユーティは男の前に置かれていた杯をそっと持ち上げた。ベールを被る男の前へと、濃い朱色の液体が注がれた杯を捧げる。
 
 
「柘榴酒を飲んだことはあるか? イェフィムの柘榴酒は一等美味い。君も飲んでみるといい」
 
 
 促すように囁くものの男は首肯の一つも返さない。指先を伸ばして、他の者に見えないようにベールの合わせ目を静かに開く。すると、純白のベールの隙間から燃えるような赤毛が垣間見えた。
 
 陽に褪せた赤毛、小麦色の肌、そうして短い前髪の下には琥珀色の瞳が見える。猫科の猛獣を思わせる鋭い眼差しがベールの隙間からユーティを斜に睨み付けていた。その心臓ごと射抜くような瞳に、心臓が僅か不整脈を起こしたように跳ねる。不意に現れた虎に睨み据えられたような感覚だ。
 
 隙間から、キツく噛み締められた下唇が見える。男の唇は、小刻みに震えていた。必死に屈辱を噛み殺している表情だ。
 
 花嫁とは到底思えぬ。これは間違いなく、荒野を駆ける戦士の顔だ。獲物を狩り、部族を率いるカリスマを持った男だ。だが、その戦士は今やユーティの妻になろうとしている。男が望もうが望むまいが、既に婚姻は結ばれようとしているのだ。
 
 屈辱に震える男を見つめたまま、ユーティは男の耳元へと唇を寄せた。
 
 
「足は痛まないか?」
 
 
 そう訊ねると、途端男の瞳に燃えるような憤怒が浮かび上がった。同時に、男の左足爪先がピクリと戦慄く。まるでユーティの言葉によって、痛みを与えられたかのように。
 
 その小さな戦慄きを見下ろしながら、ユーティは男との婚姻が決まった日の事をぼんやりと思い出した。
 
 

< back ┃ topnext

Published in 花嫁のカヤ

Top