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21 誇りなき *残酷描写有

 
 雨はいつの間にか止んでいた。雲が晴れ始めた空は、既に朝日に白みかけていた。
 
 濡れた雨除けの上着を脱ぎ捨てて、山道を転がるように駆けた。既に足の感覚はない。疲労も苦痛も感じない。焦燥感にせき立てられるようにして駆け続ける。
 
 目蓋の裏に蘇ってくるのはカヤの事ばかりだ。最初に会った時の獰猛な眼差し、拒絶的な言葉、屈辱に打ち震える肩、それらすべてがゆっくりと綻んで、柔らかく溶けていく様。カヤの泣き笑いの顔、愛おしさに満ちた微笑み、切実な交情、死を受け入れ、ユーティに自分を忘れてくれと願った声――
 
 悲しくて、憎らしくて、涙が出てきそうだった。カヤは、一体ユーティを何だと思っているのだ。妻を失った事すら忘れて、新しい妻を娶れるような薄情な男だとでも思っていたのか。悔しい、悔しい、カヤが憎くて堪らない――
 
 あの瞬間、ユーティはカヤを殺したいとすら思ったのだ。他の人間の手に掛かるぐらいなら自分の手で殺してやろうと。カヤを殺して、自分も死のうと…。
 
 だが、出来なかった。カヤを愛していた。愛しているから殺したかった。だが、愛しているから殺せなかった。その矛盾がユーティの心を壊した。
 
 生まれて初めて人を殺したというのに、恐怖も、罪悪感すら感じない。感じられない。カヤさえ生きていれば、他の奴らはどうなったって良い。そう考えてしまう自分が吐き気を催すほど邪悪に思えた。
 
 
 気が付いたら、走りながら泣いていた。涙が溢れ出す端から、目尻を伝って後方へと流れていく。もう心は滅茶苦茶だ。
 
 
 村に辿り着いた時には、既に空は白々と晴れ渡っていた。他の人間に会わないよう、村の円周をぐるりと回るようにして広場へと向かっていく。
 
 広場に、カヤは居た。一メートル程の高さの台の上で、膝を着いたままじっと俯いている。その傍らには大降りな斧を持った男が立っていた。処刑人らしい。
 
 処刑人が斧を振りかぶる。その光景が見えた瞬間、ユーティは弓を手に構えた。矢をつがえた状態で、声を張り上げる。
 
 
「止めろ!」
 
 
 処刑を眺めていた村人達が何事かとばかりに振り返る。その眼差しを受けながら、ユーティは弓矢を構えたまま処刑台へと足を進めた。
 
 
「カヤは無実だ! 今すぐ解放しろ!」
「ユーティ、気が狂ったか!」
 
 
 昨日カヤを捕らえに来た年嵩の男が強張った声で叫ぶ。男へと鋭い眼差しを向けながら、ユーティは唸るように声を上げた。
 
 
「バハル叔父が吐いた。カヤが毒を撒いたんじゃない。すべてアジムの策略だ」
「馬鹿な!」
 
 
 信じられないと言いたげに年嵩の男が首を左右に大きく振る。だが、ユーティは構わずカヤへと近付いた。壇上へと上がって、処刑人の男を睨み付ける。
 
 
「どけ。まだ下らない茶番を続けるつもりか」
 
 
 鈍い声で吐き捨てると、処刑人の男は躊躇うように顔を強張らせた。だが、その顔面へと矢を向けると、処刑人の男は慌てたように壇上から退いた。
 
 カヤの後ろ手を縛っていた縄を短刀で切る。すると、ようやくカヤが顔を上げた。
 
 
「…ユーティ、どうして逃げなかった」
「君の言うことを聞く筋合いはない」
 
 
 素っ気ないユーティの返答に、カヤが戸惑ったように視線を揺らす。カヤの傷付いた眼差しに、今は欠片の罪悪感も抱かなかった。
 
 だが、次の瞬間、視界の端で何ががチカリと煌めくのが見えた。咄嗟にカヤの身体を庇うようにして壇上へと倒れ伏す。矢がユーティの頭上を掠めて、年嵩の男の肩に一直線に突き刺さるのが見えた。
 
 
「ギャアッ!」
 
 
 年嵩の男の叫び声を皮切りに、村人達の間に恐怖と悲鳴が広がっていく。カヤの身体を壇上から引き摺り下ろして、台の裏へと身を隠す。
 
 
「始まった」
 
 
 独りごちると同時に、山の斜面を駆け下りてくる足音が無数に聞こえた。どうやらアジム達は手っ取り早く白兵戦に切り替えたらしい。弓を手放して、短刀を握り締める。
 
 
「カヤ、君はここに隠れてろ」
 
 
 そう言い放つなり、ユーティは台の横を走り抜けようとしていた男の足を切り付けた。悲鳴を上げて、地面へと倒れ伏す男の心臓を背後から一気に貫く。男が手に持っていた長剣を奪い取って、カヤへと手渡す。
 
 
「近付いてくる奴は全員斬れ」
 
 
 それがアジムでもイェフィムの者でも。酷薄にそう命じるユーティを、カヤが目を見開いて凝視している。自分はきっと今おぞましい顔をしているんだろうと思った。体内が凍えるように冷たい。まるで全身が鉄屑にでもなったかのようだ。
 
 ユーティを凝視していたカヤの表情が不意に強張る。
 
 
「ユーティ、しゃがめッ!」
 
 
 反射的に上体を地面へと張り付かせる。瞬間、風を切る音が頭上から聞こえた。顔をねじ曲げるようにして後方へと視線を向けると、ヤッソが剣を勢いよく振りかぶっている様が見えた。
 
 
「このっ死にぞこないがァあ!」
 
 
 その言葉はカヤへと向けられていた。再び振り上げられた長剣の矛先も。
 
 それを見た瞬間、目蓋の裏が真っ赤に染まった。内臓がぞわりと隆起するような憎悪に、身体が勝手に動く。
 
 伏せていた身体を、跳ねるように起き上がらせる。身体をくるりと反転させるのと同時に、握り締めていた短刀を目の前の腹へと斜め下から突き刺した。ずぶずぶと内臓に刃が沈んでいく感触が掌に伝わってくる。
 
 
「…え?」
 
 
 一拍置いて、ヤッソの不思議そうな声。ヤッソはきょとんとした眼差しで自分の下腹に突き刺さった刃を見つめていた。
 
 
「死に損ないはお前の方だ」
 
 
 そう吐き捨てた瞬間、ユーティは短刀を一気に引き抜いて、真横へと振り薙いだ。ヤッソの咽喉がぱっくりと一文字に裂けて、その隙間から血液が噴き出す。ヤッソの身体は、そのまま地面へと仰向けに倒れた。生にしがみ付くようにピクピクと痙攣する四肢が惨たらしい。
 
 周囲は既に騒然としていた。襲いかかるアジム族から必死に逃げている者。武装をして立ち向かっている者。だが、戦いに慣れたアジム族に対して、イェフィムの抵抗は殆ど意味を為していない。地面には既に幾つもの死体が転がっている。血に濡れた地面から噎せ返るような血臭が辺りに広がっていた。
 
 だが、それを悠長に眺めている暇はなかった。突然、熱いものが触れたかのような痛みが右腕に走る。
 
 
「貴様ぁ!」
 
 
 剣を構えたギバが立っていた。息子を殺された怒りからか、その目は赤黒く見えるほど血走っている。
 
 咄嗟に短刀を左手に持ち替えて、真っ正面から振り下ろされる剣を受け止めた。ギギッと剣と剣が擦れ合う音が聞こえる。
 
 
「よくもッ、よくも息子を…ッ!」
 
 
 怒りに我を忘れたようにギバは太刀を振るう。流石一族の長だけあって、一打が強力だ。重い衝撃に、握り締めた短刀が弾け飛ばされそうになる。必死で攻撃を受け止めながら、ユーティは唸るように吐き出した。
 
 
「自業自得だ」
「何だとッ!」
「お前達だってカヤの父を殺したはずだ」
 
 
 ただ自らの行いが自分に返っているだけだと言い放つ。だが、そんな言葉一つで我が身を省みるはずもなく、ギバは剣を振って叫んだ。
 
 
「欲しい物を、力ずくで奪って何が悪いッ!」
 
 
 誇りも威厳もない、我儘な子供のような台詞だ。実の兄を殺してまで欲しかったものが族長の座なんて、ユーティには理解出来ない。理解したいとも思わない。
 
 
「畜生以下だな」
 
 
 思わず唇から侮蔑の言葉が零れ出していた。ユーティの一言に、ギバの目がますます怒りに燃えたぎる。
 
 真上から振り下ろされた剣を受け止めた瞬間、短刀の刃がパキッと軽い音を立てて真っ二つに折れるのが見えた。その光景に、胃の腑が震える。
 
 ギバが口元を嗤いに歪めながら、再び剣を振り上げた。息を呑んで、煌めく刃を凝視する。
 
 殺されると思ったその瞬間、突然木の枝のようなものがギバの咽喉から飛び出してきた。咽喉を背後から矢で貫かれていると気付いたのは、ギバがごぶごぶと血反吐を吐き出し始めた時だ。
 
 矢が放たれた方向へと視線を向けると、壇上に立ったカヤが矢を放った体勢のまま固まっていた。その目は、死に行くギバを真っ直ぐ見据えている。
 
 
「ユーティに、手を出すなッ!」
 
 
 その叫び声に、不意に心臓の奥からせり上がってくるものがあった。
 
 ギバが仰向けに倒れて動かなくなる。族長を失った事に気付いたのか、アジム族の兵士達の間に動揺が広がるのが解った。戦うべきなのか、退くべきなのかを思案している様子だ。
 
 ざわめく者達へとカヤが続けざまに叫ぶ。
 
 
「恥を知れッ! お前達は、アジムの誇りを忘れたか!」
 
 
 まるで空間を射抜くようなカヤの声に、それまで騒然としていた周囲が一気に沈黙する。緊張に張り詰めた空気の中、カヤは血走った眼差しで辺りを睥睨した。
 
 
「イェフィムはアジムを侮辱などしていない! イェフィムを侮辱したのはアジムの方だ! 男なんかを花嫁に送って…それでもイェフィムはアジムを許したのに、お前達のこの行為はなんだ! 武器も持っていない相手に一方的に襲いかかって…情けない愚かしいとは思わないのか! こんな…こんな誇りの欠片もない…」
 
 
 カヤの声が少しずつ小さくなる。まるで嘆くようにカヤは首を小さく左右に振った。その目は微かに潤んでいる。
 
 
「…アジムの魂は死んだ…。お前達はもうアジムではない…。ただの蛮族だ…。我が一族は…仲間は消えた…」
 
 
 カヤの切ない悲嘆に、心臓が小さく痛む。カヤはこの瞬間、生まれ育った故郷を、仲間達を永遠に失ったのだ。
 
 カヤは顔を上げると、再び手に持った弓を構えた。それを眼下にいるアジム達へと向けながら言い放つ。
 
 
「イェフィムは俺の家族だ。俺の家族に剣を向ける奴らは決して許さない。まだこんな馬鹿げた争いを続けるつもりなら、お前達全員を地獄に引き摺り込んでから死んでやる」
 
 
 さぁ、どうする。と最後の選択を叩き付ける。向けられた矢尻に、アジム達が身体を強張らせるのが見えた。
 
 数十秒の膠着の後、アジム達が次々と手に持っていた剣を地面へと落とし始めた。最初に武器を手放した男がカヤへと声を掛ける。
 
 
「カヤ…悪かった…」
「…俺に謝る必要はない。たくさんの人が死んだ」
「…そうだな」
 
 
 自嘲気味な相槌を小さく漏らして、アジム達が去っていく。その姿が見えなくなった途端、全身の力が抜けたようにカヤがその場に座り込んだ。
 
 カヤは、声もなく泣いていた。両手で顔を覆って、必死で声を上げるのを堪えている。両手の隙間から、ぽろぽろと透明な涙が止め処もなく零れ落ちていた。
 
 

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Published in 花嫁のカヤ

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