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5 手負いの獣

 
 消毒液と包帯を持って、扉を叩いた。暫く待ったが、扉は開かず、返事も返ってこない。ただ重たい沈黙ばかりが扉の奥から伝わってっくる。数分待ってから、仕方なく勝手に室内へと入った。
 
 もう夜も深い時間だというのに部屋の中は暗く、ランプ一つ灯されていない。二三歩足を進めた時、不意に手負いの獣のような唸り声が部屋の奥から聞こえてきた。目を凝らすと、部屋の隅に黒い影が蹲っているのが見えた。
 
 
「さっき手を怪我しただろう。手当をしに来たんだ」
 
 
 包帯を掲げて、声を掛ける。先ほどカヤの掌から血が滴っていたのを覚えていた。小さな傷だが、放っておけば化膿してしまう。
 
 
「遅くなってすまない。そちらに行ってもいいか?」
 
 
 そっと影へと足を踏み出すと、途端噛み付くような声が響いた。
 
 
「近寄るな!」
 
 
 それは怒声というよりも悲鳴のように聞こえた。傷を負った獣が怯えて、牙を剥いているかのようだ。
 
 その場に立ち止まったまま、影をじっと見つめる。暗闇の中、廊下から漏れ入る光に反射して、琥珀色の瞳だけがギラギラと鈍く光っていた。光の加減によって、その瞳は金色にも白銀にも見える。まるで万華鏡のように複雑な色彩だ。
 
 その隠微な輝きを見つめながら、ユーティはゆっくりと声を上げた。
 
 
「なら、ここに消毒と包帯を置いていく。自分で手当は出来るだろう?」
 
 
 屈んで、床の上へと消毒液と包帯を置く。だが、影は微動だにしない。侵入者を警戒するように、部屋の隅で固まったままだ。敵対者を睨みつけるジャッカルの子供のようだと思った。
 
 
「君に誤解がないように言っておきたい。俺は、君が嫌がることはしない。決して。これだけは約束する」
 
 
 少しでも警戒を解きたくてそう宣言するが、相変わらず返答は返ってこなかった。きっとまだ落ち着いて話が出来る段階ではないのだろう。
 
 おそらくカヤ自身も、今の現状は受け入れがたい状態なのだ。カヤの様子からして、自ら望んで花嫁として此処に来た訳ではないのだろう。おそらくは有無を言わさず押し付けられた。生まれ育った一族に、まるで捨てられるように置き去りにされた。ゴミのように、生け贄のように、ただ独り放り出されて――
 
 そう考えれば、ユーティは兄達のようにカヤを憎む気持ちは湧いてこなかった。ただ切ないと思うだけだ。見知らぬ土地に独りぼっちは、酷く心細いだろうと。
 
 
「――寂しいな」
 
 
 小さく、独り言のような言葉が零れた。それがカヤへと向けた言葉なのか、それとも他の誰かに向けた言葉なのかは自分でも解らなかった。声は空中へと零れて、儚く霧散していく。こんな言葉に、感情に意味はない。
 
 カヤが視線を持ち上げて、ユーティを真っ直ぐ見据えているのが判る。その視線から顔を逸らして、のんびりとした声を上げた。
 
 
「後で食事を持ってくる。最近は新鮮な肉が手に入っていないから干し肉にはなるけど…母さんとエマの料理は美味いよ」
 
 
 そう呟いて、扉の方へと踵を返す。扉から出て行こうとした瞬間、暗闇から小さな声が聞こえた。
 
 
「お前は俺に同情してるつもりか?」
 
 
 初めてカヤの声をきちんと聞いた気がした。微かにくぐもった、感情を押し殺したような低い声音。ユーティは立ち止まり、緩く振り返った。
 
 
「さぁ、解らない」
「解らないだと?」
「君も俺も、結局は同じだ。これから運命共同体になるんだから」
 
 
 運命共同体、夫婦になるのだと思えば、ユーティはカヤに同情する気持ちにはなれなかった。カヤを哀れむことは、つまりは自分自身を哀れむことに他ならないからだ。
 
 
「お前が、花婿か」
 
 
 確かめるというよりも、解り切った事実を唾棄するような声音に聞こえた。
 
 
「そう、俺が君の花婿になる」
「哀れなもんだな。『貧乏くじ』を引かされて」
 
 
 矢張り先ほどの家族の会話は、カヤにも聞こえていたのだろう。暗闇から嘲るような掠れた笑い声が聞こえてきた。だが、ユーティを嗤っているのではない。それは自分自身を嘲っている声だ。
 
 まるで道化師のような乾いた笑い声を聞きながら、ユーティはじっと暗闇を見つめた。悲しく嗤う男の姿を暗がりの中から見通すように。
 
 
「俺は、自分を哀れだとは思わない。君を『貧乏くじ』だとも思わない。君が俺のところに花嫁として嫁いできてくれた。ただ、それだけのことだ」
「嘘をつけ。男の花嫁なんざを歓迎する奴が何処にいる」
 
 
 吐き捨てるようなカヤの声音。
 
 次の瞬間、ふらりと影が立ち上がるのが見えた。カヤは左足を引き摺りながらも荒い足取りでユーティへと近付いてくる。
 
 そうして、右腕を伸ばすと、ユーティの胸倉をキツく鷲掴んだ。勢いのまま壁へと背を叩き付けられる。瞬間、衝撃にグッと息が詰まった。
 
 
「何故、俺を殺さない。お前達は侮辱されているんだぞ」
 
 
 至近距離に燃える瞳があった。鼻先が触れそうな程の距離で、カヤがユーティを真っ直ぐに睨み付けている。その狂暴な眼差しに、腹の底がまたひやりと凍えるのを感じた。
 
 この男の目は、凶器だ。振り下ろされる棍棒のように、切り付けてくる剣のように、他人の心を粉々に破壊して、根こそぎ奪っていく。
 
 奥歯をキツく噛み締めたカヤが唸るように続ける。
 
 
「侮辱には死をもって償わせる。たとえどれだけの年月が経とうと、どれだけの犠牲が出ようと、屈辱は晴らさなくてはならない。俺達は、ずっとそうしてきた」
 
 
 俺達というのはアジム族のことだろう。誇りと栄誉を重んじるアジム族が受けた屈辱を晴らすためにどれだけの部族と戦ってきたのか。どれだけの血と死にまみれてきたのか。ユーティは知らないし、知りたいとも思わない。
 
 カヤを見据えて、ユーティは静かに声を上げた。
 
 
「それでは、君は考え方を変えるべきだ。イェフィムは争いを嫌う。ここは恨みも怒りも、すべて水に流して生きてきた土地だ。俺は、君を受け容れた。君はもうアジムの者じゃない。イェフィムの、俺の嫁だ」
 
 
 そうはっきりと告げる。瞬間、痛みを堪えるように歪んだカヤの顔が見えた。
 
 胸倉を掴むカヤの拳へと手を伸ばす。指先が触れた瞬間、熱い物にでも触れたかのようにカヤの拳が跳ねて、素早く離れていった。遠ざかる指先が微かに戦慄いている。視線を落とすと、その左膝頭も小刻みに震えているのが見えた。
 
 
「足が痛むのか?」
 
 
 問い掛けると、またカヤの瞳に憎悪が滲んだ。
 
 
「お前には、関係ない」
 
 
 すべてを拒絶するようなカヤの返答に、ユーティは言葉を詰まらせた。無理に聞き出そうとしても、今はカヤの神経を逆撫でにするだけだ。そう諦めれば、再び踵を返して部屋から出て行く。
 
 扉から出る直前、呟いた。
 
 
「婚礼は四日後だ。君はベールを被って座っておくだけでいい。もしそれも辛いなら、俺に言って欲しい」
 
 
 返事は返ってこなかった。暗闇へと語りかけるように囁く。
 
 
「食事と一緒に、痛み止めになる煎じ薬を持ってくる。部屋の前に置いておくから、足の痛みが酷いようなら飲んでくれ」
 
 
 それだけ言い残して、扉を静かに閉ざす。
 
 婚礼までの四日間、カヤは部屋から一歩も出てこなかった。
 
 

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Published in 花嫁のカヤ

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