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06 俺、もしかして牽制されてる?

 
 唇が触れ合うまで後一センチというところで、不意に背後から引っ張られる感覚があった。指が肉に食い込むほどきつく上腕部を捕まれて、無理矢理空介から引き剥がされる。瞬息後には、背中を廊下の壁へと叩き付けられていた。背骨がぐわんと撓む痛みに、咽喉がグッと篭もった音を漏らす。
 
 
「お前、空介に何をしてる」
 
 
 鈍く、殺意を噛み締めるような冷たい声音が頭上から聞こえた。見知らぬ男が陽太の両腕を掴んで、真上から見下ろしている。まるで目だけで相手を凍えさせるような、酷く冷血な眼差しだ。
 
 
「何しようとしてた」
 
 
 咄嗟の事に陽太が硬直していると、男の詰問が繰り返された。腕を掴む手に更に力が込められて、骨が微かに軋むのを感じる。
 
 
「いッ…!」
 
 
 小さく悲鳴を漏らすと、傍らに立っていた空介が慌てて男の腕を掴んだ。
 
 
「浅海兄ちゃん、女の子に何してんだよ!」
 
 
 空介の非難の声に、浅海と呼ばれた男がゆるりと緩慢に首を動かす。空介へと視線を向けると、浅海は不愉快そうに目尻を歪めた。その眦が微か神経質そうに痙攣している。
 
 
「何だ、この女は。どこから湧いてきやがった」
「兄ちゃん達の婚約者の月乃さんだよ。いいから、早く腕放してあげなよ。痛がってるじゃんか」
 
 
 諫める言葉に、浅海は緩く溜息をついてようやく陽太の腕を離した。浅海に掴まれていた部分は、微か赤く染まり、皮膚には感覚がなかった。きっと明日には指の形の痣が浮かび上がるだろう。
 
 痺れた腕をさすりながら、浅海へとちらりと視線を向ける。空介に兄ちゃんと呼ばれたということは、この男もまた美濃家の息子の一人なのだろう。つまりは。月乃の結婚相手候補の一人だ。
 
 浅海もまた空介と同じく背の高い男だった。剣道着を身に纏っているが、体育会系っぽいむさ苦しい感じがしないのはその清潔感のある顔立ちのせいだろう。左右に分けられた前髪の合間から覗くのは、切れ長な目だ。まさしく、涼やかという言葉がピッタリ当てはまるような正統派の美形だった。見た目から言えば、絵に描いたような名家の息子そのものだが…。
 
 
 でも、耳に超ピアスの穴あいてんですけど…。
 
 
 真上から見下ろされた時に、髪に隠されていた浅海の耳朶が陽太からはよく見えた。そこには正直オシャレの範疇とは思えないほどの大量のピアス穴があいていた。穴だらけの耳朶は、どうにも名家の息子には似付かわしくない。
 
 
「月乃さん、大丈夫?」
 
 
 心配そうに空介が近付いてくる。まるで尻尾を垂らした犬が駆け寄ってくるような姿に、陽太は思わず頬を緩めた。
 
 
「あ、はい、大丈夫です」
「ごめんな。浅海兄ちゃん、普段はこんなんじゃないんだけど…」
「お前が喰われるかと思ったんだ」
 
 
 しれっと漏らされる浅海の一言に、ギクリと背筋が強張った。
 
 
 げっ、めっちゃ見抜かれてる。
 
 
 だが、その浅海の一言に、当の本人である空介はきょとんと目を瞬かせた。のんびりと首を傾げた後、面白い冗談でも聞いたかのようにカラカラと笑い声をあげる。
 
 
「食われるって、俺は食いもんじゃねぇんだからさ」
 
 
 その暢気な笑い声に、ほっと安堵の息を漏らしたいような、鈍感と小一時間説教してやりたいようなもどかしい感情が湧き上がってくる。自分が性欲の対象にされている事にまったく気付いていない。だが、それも当然か。今空介の目の前にいるのは、見た目だけは清楚な美少女なのだから。
 
 そもそも男だとバレて一番困るのは陽太だ。うっかりキスしそうになったが、ギリギリ止めてもらってよかった。
 
 
「あの、口の周りにカスタードがついてたんで取ろうと思って…」
 
 
 念のためにそう言い訳しておく。すると、空介が今更気付いたように自身の口元へと指を伸ばした。だが、その指先がカスタードを拭う前に、浅海が空介の下顎を掴んだ。
 
 
「ぁ、兄ちゃ…?」
「ちょ…!」
 
 
 怪訝そうな空介の声に被さるような陽太の短い悲鳴を無視して、浅海の舌が空介の唇の端についたカスタードをべろりと舐め取る。その光景に、陽太はあんぐりと口を開いた。
 
 
 ちょっと、あんた何してんのおおおおおぉぉ!!!
 
 
「…やっぱり食い物じゃないか」
 
 
 弟の口角をねっとりと舐めながら、浅海がぽつりと呟く。そうして、呆然としている陽太を横目で眺めて、ふっと微かに笑ったのだ。それは明らかな嘲りだった。
 
 
 お、俺、もしかして牽制されてる?
 
 
 まさかとは思いつつも、そんな危惧を抱かずにはいられない。一応は自分の婚約者である女の前で、弟にキス紛いのことをする奴がいるのか。
 
 空介が唾液で微かに濡れた口角を手の甲で拭いながら、不可思議そうに浅海を見上げる。まるで子供のような邪気のない眼差しだ。
 
 
「兄ちゃん、腹減ってんの?」
 
 
 こんな時まで間が抜けた事を言う。はい、と食べかけのシュークリームを浅海へと差し出す空介の姿に、陽太はガックリと身体から力が抜けるのを感じた。
 
 
「食べる?」
「要らん。そういえば、さっき親父がお前のこと探してたぞ」
 
 
 ふと思い出したように呟かれた浅海の一言に、空介がパチリと瞬く。
 
 
「え、マジ?」
「プリンがどうとか言ってたぞ。さっさと行ってやれ」
「えー、あー、じゃあ、後は兄ちゃんが月乃さん案内してくれる?」
 
 
 空介のその何気ない一言に、ピシリと身体が石になるのを感じた。
 
 
 か、勘弁してくれ。明らかに敵意を向けられてる相手と二人っきりとか地獄じゃないか。完全死亡フラグにもほどがある。
 
 
 頼むううぅう断ってくれええぇ、という陽太の一生分の願いも、次の瞬間儚く消えた。浅海は思いがけずふわりと優しげに笑うと、くしゃりと空介の頭を撫でてこう言ったのだ。
 
 
「ちゃんと案内するから安心しろ」
 
 
 その様子だけ見れば、極普通な優しいお兄ちゃんに見えなくもない。だが、ちらりと横目に陽太を眺める眼差しは絶対零度で…。額に微かに冷汗が滲む。
 
 
 お、俺、埋められたりしないよな…。
 
 
 陽太の焦燥も空しく、空介は浅海に頭を撫でられて、嬉しげにへにゃりと笑っている。
 
 
「ちゃんとな。兄ちゃんの将来のお嫁さんになるかもしんねぇんだから」
 
 
 いやいやいやいや、この人のお嫁さんとか絶対無理! 男とかそういう問題の前に、まずこの殺意満々の目が無理! 結婚して三日以内に保険金殺人する人の目してるもん!
 
 
「あ…あの、私も空介くんと一緒に…」
「いちいち心配するな。ほら、さっさと行け」
 
 
 ギャー! 退路塞がれた! というか、いつの間にかガッシリ肩掴まれてるんですけど! 気のせいか、肩の骨がミシミシいってるんですけど!
 
 
「それじゃ、月乃さん、またご飯の時にな」
 
 
 空介がひらひらと手を振って去っていく。陽太は、その後ろ姿を呆然と眺めた。
 
 
 い、行かないでー……あー、でも、やっぱり尻かわいいなぁ…。三十分ぐらい顔埋めてモミモミしてぇ…。
 
 
 そんな不埒な事を考える辺り、自分もまだまだ暢気なのかもしれない。だが、暢気な時間は長くは続かなかった。空介の姿が見えなくなった途端、頭上から氷のような声が落ちてくる。
 
 
「おい、クソビッチ」
「え、…えーっと…」
 
 
 どうか、今のは聞き間違いでありますように。
 
 
「手前のことだよ、ゲロ臭ぇ糞豚ビッチが。よくも人の弟に手出そうとしやがって。チ●ポ突っ込んでもらえりゃ誰だっていいのか、この腐れマ●コ女」
 
 
 うわぁ、もう百パーセント聞き間違いじゃないよ。というか、この人、こんな綺麗な顔して、滅茶苦茶放送禁止用語連発しまくってるし。さっきまでの優しいお兄ちゃんの顔はどこ行ったのさ…。
 
 
 苛立ったように浅海が目を細めて、片手で前髪を掻き上げる。その仕草で、耳元から髪がツーブロックに刈られているのが見えた。頭頂部の髪が長いせいで、普段は髪を上げなければ刈り上げに気付かれないようになっているのか。
 
 その上、前髪を掻き上げた左手の甲にはくっきりとトライバル柄のタトゥーが刻まれていた。炎が揺らいでいるようなタトゥーが手首から中指へと向かって黒一色で彫られている。
 
 
 うげぇ、この人、ピアス穴にツーブロック刈りといい、更にトライバルタトゥーとか、全然名家の息子じゃないじゃん。つぅか…。
 
 
「や、やんき…」
「殺すぞクソアマ」
 
 
 ヤンキーと言い掛けた瞬間、物凄い勢いで睨み付けられた。壁際へとじりじりと追い詰められて、再び至近距離から見下ろされる。
 
 
「親父の言いつけで美濃家に嫁いできたか何だか知らねぇがな、今後一切くぅには近付くな。くぅに指一本触れてみろ、手前の脳天にハンドミキサー突っ込んで掻き回してやるからな、この腐れビッチ」
 
 
 うわぁ、脳味噌シェイクのできあがりだぁ…なんて考えてる場合じゃない。というか、くぅ、って空介の事だよな。普通兄弟でここまで弟に干渉するものか? 指一本も触れたら殺すとか、何か可笑しくね?
 
 
 だらだらと冷汗をかいて押し黙っている陽太を一頻り睨み付けてから、浅海が舌打ちを漏らす。
 
 
「嗚呼畜生、巫山戯てやがる。何が手前と結婚した奴に家を継がせるだ。誰も選ばれなかったら美濃家は取り潰しだとか、あの糞ジジイ、いい加減耄碌してんじゃねぇか」
「ちょ……え、えぇー!?」
 
 
 唐突に漏らされた衝撃的事実に、陽太は思わず叫んでしまっていた。
 
 
 何それ、初めて聞いたけど。いつの間に、そんな重たいもの背負わされてたの?
 
 
 喧しい叫び声に、浅海が鬱陶しそうに眉を顰める。陽太はあわあわと唇を震わせながら、必死で言葉を紡いだ。
 
 
「なっ、何ですかそれ。私、そんなの聞いてませんけど」
「はぁ? 俺が知るか、クソが。ついでに、言っておく」
 
 
 浅海の両手が身体を囲むようにドンッと壁に叩きつけられる。まるで檻に閉じ込められたかのように圧迫感に、陽太は身体を竦ませた。
 
 
「俺は手前みたいなクソビッチには欠片も欲情しねぇ。手前に突っ込むくらいなら野良犬かビニール人形にでも突っ込んだ方がよっぽどマシだ。手前みてぇなビッチ面、見るだけで吐き気がする」
 
 
 散々悪態を吐いた後、浅海は今日一番の衝撃的発言を漏らした。
 
 
「だけど、手前と結婚する」
「ちょっ、意味わかんないー!」
 
 
 思わずそう突っ込んでしまっても仕方ないだろう。ここまで人のことを罵っておきながら、それでも結婚するとか支離滅裂にも程がある。マゾ? 実はマゾなのお兄さん?
 
 
 顔面を引き攣らせる陽太を見て、浅海が不愉快そうに鼻を鳴らす。
 
 
「俺が家を継がないと、くぅが悲しがる。だから、仕方ねぇがお前と結婚してやる。ガキはその辺の男とファックして勝手に作れ。産まれれば美濃家の跡取りとして引き取ってやる」
 
 
 す、好き勝手なこと言いやがる。人のことを盛った雌犬とでも思ってるのか。というか、男だし。男だから子供作れないし。むしろ、盛った雄犬だし。あぁ、何だか自分が虚しくなってきた…。
 
 
 というか、浅海が家を継がないと空介が悲しがるっていうのはどういう意味だ。空介は最初から家を継ぐ気がなくて、浅海は空介のために家を継ごうとしていて。浅海の空介へと向ける異常な執着心といい、この兄弟は一体どんな関係なんだ。そんな事は陽太が想像したところで解るわけがない。
 
 そんな事よりも、このままだとこの見た目優等生なヤンキー男と強制的に結婚させられるという現実の方がやばい。
 
 
「あ…あの…私、誰とも結婚する気、ない、です…」
 
 
 弱々しい声ながらも、そう主張してみる。途端、浅海の目がきつく吊り上がった。
 
 
「あぁ?」
「だっ、だからっ、貴方とも結婚できません…っ!」
 
 
 陽太の必死の反抗を、浅海は口の端でせせら笑った。その不敵な笑みに、背筋がぞわりと粟立つ。
 
 
「へぇ」
「で、ですからっ…私のことは放っておいてほし…」
「お前、逃げられるとでも思ってんのか?」
 
 
 鼓膜の奥に潜り込むような低い声音に、全身の産毛が逆立った。目蓋の裏で赤いランプが一斉に光り始める。陽太の身体を囲う浅海の身体が更に近付いてくる。身体が密着しそうになるのを両腕を突っ張って耐える。
 
 
「これから一年間が楽しみだな」
「な、何が、ですか…」
「鬼ごっこ」
 
 
 笑いを含んだ浅海の声に、陽太は冷たい汗が背中を伝うのを感じた。
 
 平穏な一年なんてものは、死んでも送れなさそうだ。
 
 

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Published in きみすき

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