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07 あ、切れる

 
 お魚を咥えたどら猫のように、首根っこをひっ掴まれて引き摺られていく。これがサザエさんだったら、皆で楽しくスキップしながら家へと突撃帰宅していく微笑ましい光景になるが、それはどうにも期待できそうにない。陽太の首根っこを掴む男は、今から楽しい拷問のお時間ですよ、とでも言わんばかりのドSな表情を浮かべているのだから。
 
 
「ちょ、ちょっと、お兄さん! どこ行くんですか!」
 
 
 せめて行き先だけでも教えてくれと、引き摺られながら叫ぶ。途端、浅海は「ア゛ァ?」とドスのきいた声をあげて、陽太を睨み付けてきた。
 
 
「低脳腐れマ●コにお義兄さんなんて呼ばれる筋合いはねぇよ」
 
 
 いや、別にそのお義兄さんって意味じゃないから! そりゃそう呼ぶことになれたら滅茶苦茶嬉しいけど、今はそんな事恐ろしすぎて言えません!
 
 
「い、いえ、そのお義兄さんじゃなくて…!」
「次、お義兄さんって言ったら、手前のその小汚ぇ口にチンポ百本ぐらい突っ込んでやるからな」
 
 
 空恐ろしい台詞に、陽太は咄嗟に口を固く噤んだ。下手に喋ったら、浅海の機嫌を更に悪くしかねない。半ば諦念混じりに、どうか埋められるのだけは避けられますように、と陽太は心の中で祈った。
 
 
 
 
 
 
 連れて行かれた場所は、敷地内に立てられた道場だった。都内の一軒家で、まさか道場まで建てられているとは思ってもいなかった。三十畳ほどはありそうな道場の中では、門下生らしき男達が声を張り上げて竹刀を振り下ろしている。道場の隅では数名の門下生がわいわいとお喋りを楽しんでいるようだった。だが、その会話も浅海の姿が見えた瞬間にピタリと止まった。浅海が現れた途端、道場の空気がピンと張り詰めたのを陽太は感じた。
 
 浅海がお喋りをしていた門下生へとじろりと不穏な視線を向ける。まだ若い門下生達だ。
 
 
「誰が休憩の時間だと言った」
 
 
 腹をずしりと殴り付けられるような鈍い声音に、門下生達が慌てたように背筋を伸ばす。
 
 
「す、すいませんっした!」
「道場内で気抜いたらぶち殺すっつってるよな」
「はい、すいませんっした!」
「腹筋背筋腕立て各五百セット。終わるまで帰るな」
 
 
 冷たく言い放たれる言葉に、門下生達の表情が一気に引き攣る。それ冗談ですよね、とでも言いたげに小さく痙攣する口角が何とも気の毒だった。
 
 
「返事は」
「は…」
「返事は!」
「はいぃっ!」
 
 
 雷鳴のような鋭い怒鳴り声に、門下生達が泣き出しそうな声で返事をする。その光景を、浅海の背後から陽太は唖然と眺めていた。
 
 
 な、なんつう恐怖政治…。
 
 
 顔を青褪めさせた門下生達が浅海の前から走り去って、道場の隅で一心不乱に腹筋を開始する。浅海はその光景には目もくれず、傍らで竹刀を振っていた門下生へと声をかけた。
 
 
「女用の防具一式はあるな?」
「はい、用意します」
 
 
 気心の知れた門下生だったのか、即座に返事が返された。数分も経たず剣道着と防具が用意される。浅海が顎をしゃくって、陽太へと向かって尊大に言い放つ。
 
 
「着ろ」
「うぇ? な、何でですか…?」
 
 
 まごつく陽太を見て、浅海が腹立たしそうに眉間に皺を寄せる。陽太の胸ぐらを乱暴に掴むと、浅海は至近距離から睨み付けてきた。
 
 
「今から俺と勝負しろ。負けたら、俺と結婚してもらう」
 
 
 一瞬、半開きになった唇が閉じられなくなった。数秒の沈黙の後、素っ頓狂な声が咽喉から溢れる。
 
 
「は、はいいぃー!?」
「五月蝿ぇ、いちいち叫んでんじゃねぇよクソ豚女。耳が腐る」
「いや、叫びもしますよ! 何ですか、その負けたら言うこと聞け的な理論! 今時そういう決闘、流行ってませんから!」
「流行ってるとか流行ってねぇとか知ったこっちゃねぇよ。手前みてぇなクソビッチだって、腐っても剣道家の娘だろうが。勝負に負けた奴が勝った人間の言いなりになる。そのくらい当然のことだろう」
 
 
 こ、こいつ、どこかの戦闘民族の末裔か何かか? 思考回路が完全にサイヤ人じゃないか…。
 
 
 浅海の無茶苦茶な論理に、陽太は頬をひくひくと引き攣らせた。
 
 
「で、でも、私が生まれた時には祖父は亡くなっていて、道場にも通っていませんでしたから…」
 
 
 そもそも陽太と浅海では土台が違いすぎる。浅海は小さい頃から剣道に携わってきたかもしれないが、陽太は竹刀を握ったことなんて数えるほどしかない。実力も経験にも雲泥の差があるのに、それで勝負しろだなんて不公平にも程がある。
 
 肩を窄めたままビクビクと呟かれる陽太の言葉に、浅海が冷たく目を細める。
 
 
「だが、手前の母親は剣道家として有名だった。母親から稽古ぐらいつけてもらっただろうが」
 
 
 ギクリと肩が跳ねるのを隠せなかった。確かに陽太の母親、麗子は高校卒業まで天才剣道少女として名が通っていた。天才だった祖父の血を母は色濃く引いており、大会に出れば当たり前のように優勝をかっさらった。だが、大変残念なことに人間として最も重要である『常識』というものが母の頭からはすっぽ抜けていた。
 
 高校卒業と同時に、母は剣道をやめた。それは祖父の言いつけによるものだったらしい。祖父の言い分はこうだ。
 
 
 『馬鹿と血の気が多い奴に竹刀は持たせられない』
 
 
 今のとぼけた母からは想像も出来ないが、若かりし頃の母は随分と血気盛んだったらしい。
 
 剣道というのは基本的には安全なスポーツだ。ボクシングのように頭部を強打される事もなければ、柔道のように首を捻ったりすることもない。唯一危険なのは竹刀による“打突”、つまりは突きだ。防具もない相手に対して本気で打突を行えば、咽喉の骨を折ることもできる。その危険性から、打突は中学生以下は禁止されている。
 
 よりにもよって、その打突を母は好んで繰り出した。試合だろうが練習だろうが、相手が防具を付けていなかろうがお構いなしだ。更に礼節を重んじる剣道において、母はあまりにも破天荒で攻撃的すぎた。試合相手に反則技を使われた時などは、平気で竹刀を投げ捨てて殴り掛かったりしていたらしい。そんな母の行動を見て、祖父は母に二度と竹刀を持たぬように命じた。
 
 祖父の言いつけを守り、母が竹刀を持つことは二度となかった。陽太も、母から剣道を教わったことはない。だが、その代わりのように教わったものもある。
 
 
「勿論、ハンデはくれてやる。手前にルール遵守なんて求めちゃいねぇ。手なり足なり好きなように攻撃してこい。俺に一撃でも当てたら、お前の勝ちにしてやる」
 
 
 頭の中でぐにゃぐにゃと思考をこねくり回している内に、勝手に話が先に進んでいく。浅海は門下生から竹刀を受け取ると、陽太へと真っ直ぐ差し出した。受け取れと言わんばかりに、顎を軽くあげる。
 
 
「ちょ、ちょっと待って…」
「待って何か変わるのか? 俺の気が変わって、手前の望むようになるとでも? 今ここで決めなくちゃならねぇのは、勝つのが俺か手前かって事だけだ。さっさとしねぇと、手前の骨を粉々にすり潰すぞクソが」
 
 
 ドスのきいた脅しの声に、背筋を冷たい汗が伝う。こっちは一年間男である事を隠し切って、この婚約を破談にするのを目標としているのに、勝負に負けたら結婚だなんて冗談じゃない。しかも、人のことをクソビッチだとか豚だとか人間扱いしていない男と結婚だなんて正直生き地獄だ。だからといって、この場から逃げることも出来ない。
 
 
「竹刀を取れ。嫌なら、俺に勝てばいい」
 
 
 浅海が冷めた声で言い放つ。その瞬間、陽太は差し出された竹刀を手に取った。
 
 
 
 
 
 
「うぎゃッ!」
 
 
 面越しに凄まじいスピードで竹刀が顔面を襲ってくる光景に、咽喉から鈍い悲鳴が溢れる。咄嗟に後方へと飛びずさると、竹刀が空気をヒュッと切る音が鋭く聞こえた。慌てて浅海から距離を取りつつ、両手に固く握り締めた竹刀を素人丸出しで構える。
 
 
「ちょこまか逃げてねぇで、少しはまともに打ってきたらどうだ?」
 
 
 憎々しげに言い放たれる浅海の言葉に、陽太は口角を引き攣らせた。浅海が苛立つのも解る。何とか勝負を始めたのはいいものの、陽太は開始からずっと逃げの一手に回っていた。浅海から繰り出される技をひぃひぃ言いつつ紙一重で避け続けて、既に二十分の時間が経過している。
 
 防具で全身をガッチリ固めた陽太に対して、浅海は防具を一切身に付けていない。そのせいで浅海の鋭い眼光は、真っ直ぐ陽太に突き刺さった。それは憎悪の眼差しにも見える。
 
 
「幾ら逃げても終わりゃしねぇぞ。きちんと戦え」
「そ、そんな事言ったって…」
 
 
 だって、竹刀とか怖いし、それ以上に浅海が怖いし…。
 
 
 陽太の掠れた小さな声は、当たり前のように無視された。今更話し合いなんて、目の前の男が許すはずもない。
 
 浅海の竹刀がすっと腰の高さまで持ち上げられる。剣先は陽太の眼へと向けられている。これは確か正眼の構えというものだ。浅海の身体から立ち上る気迫に、陽太は咄嗟に右足を後方へと引いた。その惨めな逃げの姿勢に、浅海の唇が不快そうに歪む。
 
 
「戦う気もねぇのか。つまらないな」
 
 
 好き勝手な事を言ってくれる。そもそも無茶苦茶な事を言い出したのは浅海の方だ。だが、勝負に乗ってしまった時点で陽太にも非がある。浅海の主張を押しのけられなかったのは、陽太が弱かったせいだ。そうして、今こうやって情けなく逃げ回る羽目になっている。
 
 悔しさに下唇を薄く噛み締める。だが、長々と悔恨に浸っている暇はなかった。浅海の身体が前方へと揺らぐ。緩やかな体重移動、動き自体はスローに見えたのに、床を踏み締める音は酷く大きかった。まるで地鳴りのようにドンッと床が音を慣らす。踏み込み、と思った時には遅かった。
 
 竹刀の側面が胴へと叩き込まれる。重い打撃に、一瞬呼吸が止まった。内臓を通り抜ける衝撃に、反射的に膝から力が抜ける。床へと膝をついて、陽太は大きく咳き込んだ。
 
 
「まず一本」
 
 
 噎せる陽太を気にかける様子もなく、浅海が冷淡な声で呟く。
 
 
 …畜生、こいつ完全に頭可笑しいだろ。
 
 
 涎が口角から溢れたが、顔面を覆う面のせいで拭うことも出来ない。下顎を伝う粘液を感じながら、陽太は頭の中で散々浅海に対する悪態を漏らした。自分で言うのも恥ずかしいが、今の陽太は他人から見れば純真可憐な乙女に見えるはずだ。その乙女相手に容赦なく竹刀を叩き込むなんて、はっきり言って気が狂ってるとしか思えない。男の風上にも置けやしない。
 
 
 周りでハラハラと陽太と浅海の勝負を見ていた門下生達も、浅海の手加減のない一撃にとうとう声をあげた。
 
 
「あ、あの……師範代、流石に女性相手にそれはまずいんじゃ…」
「お前らは黙ってろ。それに、誰が鍛錬の手を止めていいと言った。ぼーっと人のことを見てる暇があるんなら、素振りの千本ぐらい追加しても大したことじゃないよな」
 
 
 視線は陽太へと向けたまま、浅海が淡々と言い放つ。その寒々とした声音に、門下生達がビクリと身体を震わせる。そうして、無言で素振りの鍛錬へと戻った。下手に口を挟むと、被害を被るのは自分達の方と解ったのだろう。
 
 陽太は蹲ったまま、胸で大きく呼吸を繰り返した。まだ呼吸が詰まっている感じがする。息苦しさが取れない。
 
 
「いつまでしゃがみ込んでるつもりだ。立て」
 
 
 上から目線で言い放たれる言葉に、いい加減腹が立ってきた。普段は温厚に振る舞っている陽太も、ここまで来ると流石に普段被っている仮面をかなぐり捨てたくなってくる。脳味噌の奥から、堪忍袋の緒がギリギリと軋む音が聞こえてきた。
 
 取り落とした竹刀を手に取って、揺らぎそうになる足で必死に床を踏み締めて立ち上がる。面越しにキツく睨み付けると、浅海が嘲るように鼻を鳴らした。
 
 
「一丁前に生意気な目しやがって、男に股開くしかねぇ腐れビッチが。くぅの事も身体で落とすつもりだったのかもしれねぇけどな、くぅは手前みたいな薄汚ぇ女が釣り合う相手じゃねぇんだよ。手前は野良犬のチンポでも突っ込まれてろ」
 
 
 あ、切れる。
 
 瞬間、ブチッと頭の奥で何かが千切れる音が聞こえた。目蓋の裏が怒りで真っ赤に染まって、反射的に足が動く。右足が強く床を踏み締めて、次の瞬間には剣先が浅海の咽喉へと向かって突き出されていた。普段の陽太なら、防具も付けていない相手に対して打突なんて絶対にしない。だが、今は全身を満たす憤怒が理性を奪っていた。
 
 咽喉へと繰り出された打突を、浅海は易々と払った。一旦引いて、鍔迫り合いへと持ち込む。浅海との距離が一気に近くなった。至近距離にある冷徹な眼光を見返しながら、陽太は静かに口を開いた。
 
 
「私が負けたら結婚ですか」
 
 
 唐突な陽太の質問に、浅海が訝しげに顔を歪める。浅海が返答を返す前に、陽太は畳み掛けるように言った。
 
 
「なら、もし私が勝ったら、貴方の大事なものを頂きます」
「大事なもの?」
「空介くんを貰いますから」
 
 
 売り言葉に買い言葉というのはこの事だ。ただ、この冷酷な男の顔を、一瞬でも苦汁に歪めてやりたいがための言葉だった。だが、もしかしたらそれは陽太の本音だったのかもしれない。この男に陽太が空介には釣り合わないと言われた事が本気で腹立たしかった。まるで、一生好きな相手に好かれる権利がないとでも言われたかのようで…。
 
 
 浅海の目が大きく見開かれる。その驚愕の表情は、一瞬で憎悪の表情へと変わった。
 
 
「巫山戯るな。あれは、俺の弟だ。俺のものだ」
 
 
 独占欲に満ちた浅海の言葉、その瞬間陽太は理解した。浅海は間違いなく空介に執着していた。それが兄弟愛なのか、それを越えた愛情なのかは判らない。だが、この男は紛れもなく歪な感情を弟に抱いている。それは真っ当な感情ではない。
 
 
「勝負に負けた奴が勝った人間の言いなりになるのは当然なんですよね」
 
 
 挑発するように言い放つと、浅海が目尻を剣呑に歪めた。噛み締められた奥歯の辺りから、歯が鈍く軋む音が聞こえてくる。
 
 
 鍔迫り合いが激しくなる。このまま続ければ、腕力からいっても陽太が競り負けるのは解り切っていた。腕の筋肉がギチギチと痛むのを感じながら、陽太はあえて痛みを顔に出さないようににっこりと微笑んだ。
 
 
「あと、私はルールも守らなくてもいいんですよね?」
 
 
 もう形振り構っていられなかった。そう言うと同時に、陽太は竹刀を握る左手に全体重をかけて、右手を竹刀から離した。右手で浅海の竹刀を鷲掴んで、下方向へと向かって一気に引き下ろす。突然予期せぬ方向へと力を加えられたことによって、浅海の上半身が前のめりになる。その下腹へと目掛けて、陽太は右膝を垂直に突き上げた。渾身の膝蹴り。
 
 だが、その膝は浅海の腹にはめり込まなかった。陽太に掴まれた竹刀を、浅海は凄まじい腕力で腹へと向かって引き寄せていた。膝頭に固い竹刀とぶつかる感触が走る。バキッと竹が割れる音が道場内にやけに大きく響いた。
 
 その音を耳にした瞬間、陽太は後方へと向かって反射的に飛び退いた。三メートルほど距離を取る。気付いたら、道場内は静まり返っていた。門下生の誰もが息を殺して、陽太と浅海の姿を凝視している。
 
 
 浅海が真っ二つに折れた竹刀を一瞥して、不愉快そうに目を細めた。
 
 
「何を習っていた」
「何を?」
「武術を」
 
 
 端的な浅海の問い掛けに、陽太は余裕ぶって肩を竦めた。
 
 
「いろいろと、乙女のたしなみ程度に」
 
 
 それは浅海には挑発のように聞こえる事だろう。だが、陽太にとっては偽りようのない事実だった。
 
 
 剣道をやめた母が新しく始めたのが格闘技全般だった。空手、柔道、合気道、ボクシング、キックボクシング、プロレス、ムエタイ、クラヴマガ……あげればキリがない。血気盛んな年頃の娘は、骨の髄まで格闘技にのめり込んだ。
 
 母が父と出会ったのも、中国に修行に渡った時だというからいっそ笑える。『中国の竹林の奥で、パンダと戦うお父さんを見て一目惚れしたのよ』などと母はうっとりと語ったが、どこまで本当なのか解らない。その話から解るように、陽太の父も同じく格闘バカだ。その格闘バカ二人から生まれた子供が陽太と月乃だった。
 
 
 血気盛んな両親から生まれただけあって、陽太も昔から血の気の多い子供だった。可愛い顔をして、小さい頃は何度乱闘を起こしたことか解りゃしない。
 
 両親は、ありとあらゆる格闘技を陽太に教え込んだ。子供の頃はそれなりに一生懸命になったが、自分がゲイだと自覚してからは人生に対する無常さを感じてサボり気味になっていた。ここ二三年は、まともなトレーニングもしていない。弱り切った筋肉は、先ほどの膝蹴りで殆ど限界を迎えていた。
 
 
 疲労のあまり筋痙攣を起こしそうなのを、全身に力を込めて必死で堪える。唇が自嘲ともつかない笑みで捩れる。一体、自分は何を強がっているのか。こんなところで虚勢を張ったところでどうなる。
 
 
「経験者なら、手加減はいらねぇよな」
 
 
 折れた竹刀を床へと置いて、浅海が静かに呟く。その酷薄な声に、背筋がぞっと粟立った。
 
 
 嗚呼、畜生。何でこんなことしちまったんだ。最初から、土下座でもして勘弁して下さいと謝り通すか、それとも一目散に逃げ出せば良かったじゃないか。よりにもよって、ヤンキーを挑発するだなんて…。
 
 
 浅海が長い前髪を掻き上げて、唇を享楽的な笑みに引き裂く。
 
 
「ステゴロなんて久々だ。愉しませろよクソビッチ」
 
 
 ゆっくりと構えられた両拳が恐ろしい。素手での殴り合いに慣れた人間の動きだ。
 
 
 あぁ、いやだいやだ、勘弁してくれ。嫁いできた初日にボコボコに殴られるだなんて冗談じゃない。畜生、誰か、誰かこんな地獄から俺を助け出してくれ!
 
 
「にーちゃん、月乃さん、ごはんだよー!」
 
 
 その時、救いの声が高らかに響いた。道場入口に、満面の笑みを浮かべた空介が立っている。その姿を見た瞬間、陽太はへなへなとその場にへたり込んだ。
 
 

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Published in きみすき

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