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02 姫子が殺された

 
 午後八時、帰宅した兄貴は顔色一つ変えず、いつも通りの冷血無表情で「姫子が殺されとる」と言った。眼鏡の奥の切れ長な瞳は平静過ぎるほど平静で、動揺した素振りは欠片も窺えない。スーツをきっちりと身に付けて、エリートサラリーマンじみた空気を超然と醸し出している。本当は血みどろな医者のくせに。
 
 初めは兄貴の言っている意味が解らなかった。ソファに寝そべったまま、ぽかんと開いた口からポテチを溢して、呆然と兄貴を見上げた。
 
 
「姫子ぉ、殺されたぁ?」
 
 
 間の抜けた声でオウム返しに聞き返すと、兄貴は面倒臭そうな顔で一度頷いた。隣のソファに座ってテレビを見ているミツルは「へぇ」とやる気のなさそうな相槌を打った。
 
 姫子というのは、我が家で飼っている犬だ。あ、犬ごときで下らねぇとか思った奴前に出ろ。手前の脳味噌カチ割って、ハニバル・レクターみたく焼肉にしてやる。まぁ、それは置いとくとして、姫子というのはドーベルマンだ。真っ黒くて艶やかな毛並みをした血統賞付き、シャープな体付きをしているというのに、いつだって舌は出しっぱなしの間抜け面な愛すべき犬だ。俺の七歳の誕生日にプレゼントされた姫子、もう十一歳のおばあちゃん犬だったのに。後は穏やかに老衰するだけだと思っていたのに。嗚呼、可愛い可愛い俺の姫子、殺されるってどういうことだ!
 
 思わずソファから起き上がって、「何でだよぉ!」と駄々をこねるガキみたく地団太を踏めば、兄貴もミツルも酷く鬱陶しそうに俺を見詰めた。ミツルに至っては、「うっせぇよ二郎」とお兄様を呼び捨てにする始末だ。十六歳とは思えない少女じみた童顔を歪めて、眉間に皺まで寄せている。その可愛らしい唇が罵詈雑言を吐き捨てたり、小さな体躯が大男を吹っ飛ばしたりするのだから、世の中というのは不可思議かつ不条理なことで溢れている。
 
 
「何で姫子が殺されるんじゃ!」
「そんなん知らんわ。庭に黒いもんが転がっとったから何やと思うたら姫子やったんや。姫子は御前の犬やろうが」
 
 
 愛想のない兄貴の口調に、俺は噴火しそうになる。部屋の中で「ヴがあぁぁ」「ぐぎゃあぁ」と恐竜じみた喚き声を張り上げて、それから裸足のまま庭へと駆け出す。門の近くに可哀想な姫子は転がされていた。暗闇に溶けてしまいそうな程、真っ黒な姫子の身体。弛緩したまま動かない黒い物体を見て、俺の呼吸は止まる。足も止まる。身体が硬直して、石みたくガチガチになる。玄関から、ミツルがのんびりした足取りでやってくる。
 
 
「ほんまに姫子やないか。うへぇ、何じゃこれ。足切られとるやん」
 
 
 ミツルの声を聞いて、俺の上昇しまくっていた血圧が一気に下がる。
 
 足! しなやかで躍動感のある姫子の足が! 芝生に膝をついて、暗闇の中手探りに姫子の身体を弄る。ミツルの言う通り、姫子の足はなかった。右の前足が根元から切り落とされている。真っ赤な肉がむき出しになった切口はザラザラしていて、いかにも鋭さのないものでゴリゴリと切られたといった感じだ。辺りを見渡しても、姫子の失われた足は影も形もない。
 
 そして、姫子の頭へと手を伸ばそうとして気付く。姫子の頭の両脇、人間でいうコメカミ部分に木の棒が突き刺されている。長さ十五センチ程度の棒が水平に二本埋め込まれていて、まるで鬼の角のようにも見える。何てこったい、俺の姫子は鬼にされちまったんだ!
 
 俺は全身をぶるぶると怒りに震わせながら「ざけんなよ」と押し殺した声で呟く。ざけんなよ、ざけんなよ、巫山戯んなよ! 俺の姫子にこんな事をしておいてタダでいられると思うなチンポ野郎め! 手前の尻穴を犬に犯させて、犬のチンポしゃぶらせて、引き摺り出した腸を犬に食わせて、お犬様に命乞いさせてやる!
 
 ミツルはしゃがみ込んだまま、げんなりした顔で姫子の死体を指先で弄くっている。ミツルの顔付きから、姫子の死を悲しんでいないことが解って、更に俺は怒り狂う。御前らは家族が死んでも、こんなに冷淡でいられるのか!
 
 
「御前悲しくないんか! ムカつかんのんか! 姫子が殺されたんやで! こんな、こんな足まで切られて、脳天に棒突っ込まれてブチ殺されとんやで! 何で御前そんな平静でいられるんや!」
 
 
 怒りの矛先を変えて怒鳴り散らせば、ミツルが丸っこい目玉を細めて睨み上げてきた。童顔なのに無闇に迫力があるのは、今まで人を殴り飛ばしてきた経験がオーラとしてミツルから滲み出ているからだろう。
 
 
「二郎みたいにギャアギャア喚いたところで姫子が生き返る訳でもねぇし、死んだもんはしゃあないやろうが」
「しゃあない言うな!」
 
 
 姫子の死を割り切って考えるミツルが憎らしくて堪らない。死んでしまったものは生き返らないし諦めてしまおう、確かにそう言い切ってしまえば簡単だ。だけど、人間そういうものではないだろう。誰かが死ねば仕方ないなんて割り切れずに泣き喚くものだろうが。到底無理な願いだと分かりながらも生き返って欲しいと願うものだろうが。人間そういうもんだろうが! それすら分からない俺の弟は何処まで人でなしなんだ!
 
 
「じゃあ、どうすりゃええんや。俺に泣いて悲しめ言うんか」
「そんなんちゃうわ! そんなんせんでええ!」
 
 
 ヒステリックな金切り声をあげて嫌々するように首を左右に振っていれば、Tシャツに着替えた兄貴がやって来た。人でなし二号の登場だ。
 
 
「ええ加減にせえや二郎。御前の我侭は聞き飽きた」
「我侭やない! 俺は人として当然のことを言うとるまでや! 俺は姫子の家族として当り前のこと言うとるだけや! 何や御前らこそ! 何で、何で」
「じゃけぇ、結局二郎は俺らに悲しんでもらいたいんやろうが」
 
 
 ミツルが口を挟む。前髪を掻き上げながら、煩わしそうな眼差しで俺を見据えるミツルの眼差しが腹立たしい。俺は奥歯を噛み締めて、ミツルを殴り倒したい衝動を堪える。一旦殴り合いを始めると、御互いに血みどろになって、どちらかが気絶するまで終らない。ミツルとはしょっちゅう喧嘩するが、一度だって話し合いで解決した事はない。酷いときには、御互いの肋骨を合わせて四本ほど折った事がある。俺に至っては、折れた肋骨が右肺を突き破って死に掛けた程だ。兄貴の応急手当がなかったら、俺は確実に三途の川を渡っていたし、ミツルは殺人犯になっていただろう。その時ほど、兄貴が医者だったことを感謝した事はない。
 
 そうして、今目の前に兄貴はいるし、喧嘩の準備や動機は整っている。だが、俺は今怒るよりも泣きたい気分なのだ。姫子の死を嘆いて嘆いて、いっそ嘆き死んでしまいたい気分なのだ。ミツルと喧嘩をしている場合じゃない。だから、拳の代わりに噛み付くように叫ぶ。
 
 
「違うわアホ! この人でなしの冷血漢のアホ垂れが!」
「アホ言うなやアホ!」
 
 
 血が昇ったミツルが勢いよく立ち上がって、拳を振り上げてくる。結局殴り合いタイムに突入か。いや、今日は俺もミツルも気が立っているから、もしかしたら殺戮タイムになるかもしれない。その場合、俺かミツルどっちが死ぬか。そりゃあ確実にミツルだ。二歳の差はでかいって覚えておけ畜生馬鹿弟め、ぶち殺してやる。と、ミツルに向かって上段蹴りをかまそうとした瞬間、兄貴が瞬間移動のような速さで、俺とミツル、それぞれ一発ずつ顔面に拳を叩き込んだ。肉と骨が殴られる音が闇に響いて、俺とミツルは二人仲良くゴロゴロと庭の芝生の上を転がった。芝生に仰向けになったまま、暫く呆然と星空を見上げる。田舎の空は星が綺麗に見えるから良い。なんて、下らないことを考えていたら、不意に頬肉が尋常じゃない熱を発して痛み始めた。
 
 
「いでぇえ!」
「何で俺も殴るんやクソハジメ! 殴るなら二郎だけやろうが!」
 
 
 芝生の上で悶絶したまま、二人して不平不満憤りを不協和音に奏でる。そんな俺らを見下ろして、兄貴は腰に片手を当てて、呆れたような溜息を付いた。
 
 

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Published in 凶暴三兄弟

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