Skip to content →

10 残酷なのは子供

 
 朝食のスクランブルエッグは砂糖の入れ過ぎで、鼻の奥がつんと痛くなるぐらい甘かった。ミツルが瞳さんに愚図愚図と文句を垂れるのを聞きながら、卵と砂糖の塊を、お茶と一緒に咽喉の奥に流し込む。
 
 兄貴は、コーヒーを啜りながら、酷くつまらなそうな顔で新聞を眺めていた。目の下のクマは、昨日に比べれば、ぐんと薄くなった。もう服まで着替えている。水色のシャツに白のパンツが露骨に爽やかさを滲ませているようで、俺は少し気に食わない。爽やかサワデーかこんにゃろう。戯れに裏側から新聞を叩くと、兄貴が不機嫌そうな眼差しを覗かせた。
 
 
「何や二郎」
「兄貴、かまえや」
「御前は幼稚園児か」
「そうや。俺は幼稚園児なんや。兄貴がかまってくれんと、床転がり回って駄々捏ねるで」
 
 
 阿呆か、と呆れたように兄貴は呟いた。そのくせその手は新聞の向こう側から伸びて来て、俺の頭をくしゃくしゃと撫で回すのだ。俺は犬みたいに鼻を鳴らして、兄貴の手に擦り寄った。
 
 途端、ミツルの不機嫌そうな声が響く。
 
 
「御前ら何しとんや。ええ歳した兄弟が恥ずかしゅうないんか」
「うっさいわミツル、御前には関係ないやろうが」
「関係のうても、御前らがやっとる事が視覚への拷問なんじゃ。不・愉・快」
 
 
 嫌味ったらしく吐き捨てながら、ミツルが椅子の足を蹴り飛ばしてくる。ガタンと揺れた椅子に、俺は一気に暴力的な衝動が込み上げて来るのを感じた。俺の大好きな暴力、弟の肋骨を三本折ったことのある暴力、馴染み深い友である暴力!
 
 だけど、振り上げようとした拳は、結局兄貴に阻まれた。兄貴が俺の右手を掴んだまま、新聞から目を離さないで呟く。
 
 
「もう出るで二郎、服着替えて来いや」
 
 
 俺は噴出されなかった暴力を噛み締めながら、ミツルににっこりと笑いかけた。あとで覚えてろよ畜生。ミツルは、苛立ったように片目を細めたが、結局何も言わなかった。
 
 風呂場の掃除を終えた瞳さんが降りてくる。瞳さんは兄貴へと駆け寄ると、へらっと笑みを浮かべて厚紙のようなものを差し出した。
 
 
「洗濯機の上に置いてありましたよー。だいじなものですよね?」
 
 
 それは、昨日見つけた見合い写真だった。兄貴はそれを無言で受け取って、興味なさそうに食卓の上に置いた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 ウィンドウから甘い匂いが飛び込んで来た。窓から軽く身を乗り出してみると、民家のコンクリート塀の上から黄色い花が見えた。淡い日差しの下で、慎ましやかな小さな花が溢れそうなぐらい枝に咲き乱れている。
 
 
「キンモクセイが咲いとる」
 
 
 独り言みたいに小さく呟いてみた。そうしたら、口の中にもキンモクセイの匂いみたいな甘い味が広がったような気がした。兄貴はハンドルを握り締めたまま、窓の方ではなく、俺の方をちらりと見て「そうか」と答えた。
 
 周囲には柔らかいこもれ日が溢れていて、俺は和やかな気持ちになる。窓枠に肘をついて、緩く息を吐き出す。殆どドライブ気分と言ってもいい。
 
 兄貴と一緒にいると、俺は無条件で落ち着く。気持ちがリラックスして、身体から力が抜ける。普段俺の身体に満ち満ちている暴力や憎悪の衝動を一時忘れることが出来る。ミツルと一緒なのも悪くないが、五十パーセントの確率で喧嘩になるから、闘争心と遊び心が混ざり合って妙な躁状態になってしまう。ぎゃっぎゃっぎゃっと笑い合った直後に不穏な気配になってクロスカウンターなんて、もう日常茶飯事だ。俺はそういうエキサイティングな日常も大歓迎だが、時々は縁側で寝転ぶ猫のような休日にも憧れたりする。
 
 
 本当はこの探索には、ミツルも来るはずだった。それが出発直前に来客者があったため、急遽留守番に決定した。家にやって来たのは、ミツルのクラスメイトだという女子達だ。玄関の前でうろうろしているのを瞳さんが発見して招き入れていた。ミツルよりも背が高い子が二人、それから小学生かと思うぐらい小さい子が一人。小さい子が高い子二人の後ろに隠れるようにして、ミツルを恋しげに眺めていた。「可愛いやんか」とにやにやと笑った俺を、ミツルは憎憎しげに睨み付けて、それから複雑そうに呟いた。
 
 
 『二郎もあれぐらい可愛かったらなぁ』
 
 
 嫌味か畜生。
 
 微かなまどろみに支配されて、目蓋を半分ほど閉じた時、兄貴が諌めるように言った。
 
 
「御前、ちゃんと車探しとるんか」
 
 
 その言葉に、俺は慌てて目をかっ開く。口元に満面の笑みを浮かべて、当たり前やろうが、と事もなげに答える。兄貴は暫く疑わしそうに俺をねめつけていたが、結局諦めたように溜息を吐いた。
 
 気を取り直して、もう一度周囲に目を向け直す。民家の庭や車庫を見て、白い車がないかどうかを確認する。怪しい車があれば、ダッシュボードを叩いて、兄貴に車を止めさせる。それでも、なかなか白のBMWは見当たらなかった。
 
 
「見つからんなぁ」
 
 
 そもそも白のBMWなんていう高級車自体、この町の人間には不釣り合い過ぎる。もし誰かが所有しているのであれば、それだけで噂になっていても可笑しくない。窓枠に両腕を乗せて、突き抜けるような青空へと視線を向ける。もう九月だと言うのに、太陽は夏真っ盛りのように燦々と輝いていた。太陽光が目に突き刺さって痛いぐらいだ。眼球の奥がちりちりと焦げるように痛んで、俺は悲しいことを思い出す。
 
 
「兄貴、姫子は幸せやったんかなあ」
「何や今更」
 
 
 兄貴は今更と言うけれども、俺はずっと考えてた。姫子が死んでから、頭の中で『幸福』と『不幸』という言葉が制御不可能になったメリーゴーランドのようにぐるぐると回り続けている。その問い掛けは、俺を責め悩ませ、苦しませる。
 
 
「俺はたくさんのものが嫌いやけど、姫子は好きやった」
「そうやな」
「姫子は俺のこと好きやったやろうか。俺は姫子を幸せにしてやれたんやろうか」
 
 
 最後の問い掛けは、風に溶けて散らばった。そんなの今更わかるわけがない。馬鹿なことを言ってる自覚ぐらいある。だけど、それでも言わずにはいられないなんて、俺はこういう弱っちい自分が大嫌いだ。兄貴が俺の肩を緩く叩く。まるで慰めるみたいな仕草が今は少し辛い。
 
 それよりも俺は復讐のことを考えないといけない。姫子を殺した犯人をどう料理してやろうか、どう甚振ってやるか最大限シュミレーションしなくちゃいけない。爪を剥いで、裸でアスファルトの上を引き摺って大根おろし状態にしてやろうか。それとも身体中を切り裂いて、虫の群れの中に放り込んでやろうか。傷口に虫が潜り込んでくる感覚は発狂ものだろう。――何でだろうか、ちっとも楽しくない。人を傷付けることは俺の悦びのはずなのに、心が浮き立たない。むしろ寂しい。堪らなく。
 
 
 そんな事を考えていると、反対側の道を歩く人影がふと目に入った。
 
 
「兄貴、ストップ」
 
 
 胡乱げな眼差しで俺を眺めて、兄貴が路傍に車を止める。向こう側から歩いてくるのは、小学生ぐらいの女の子と手を繋いだ男だ。左顔面眉辺りから顎先まで縦一直線に切り裂かれたような傷痕がある。ぱっと見、厳ついヤクザのようにも見えるが、俺はそいつが学校一真面目な男だということを知っている。
 
 
「桃井、何処行くんや?」
 
 
 兄貴の膝に乗り上げて、運転席側の窓から声をあげる。俺のクラスメイトで、俺が唯一友達だと思える男。俺に気安く『馬鹿じゃねぇ麻原』と言える男。桃井は俺に気付くと口元をほんのりと緩めて、車に近付いてきた。女の子は、俺を見て露骨に顔を顰めている。
 
 
「今からバイト」
「今日は何のバイトなん」
「今からフラワーハートで、五時半から居酒屋やまと、十二時から交通整備。あ、おにーさん、こんにちは!」
 
 
 さらりと答えられるハードワークに、俺はおおーと歓声をあげてみた。桃井は俺が聞いただけでも、バイトを六個掛け持ちしている。何でそんなに働いているのかと聞くと、当たり前のように『親孝行したいから』と答える桃井は、バリバリマザコンな最高に良い子だ。親孝行という言葉を、簡単に言える人間が少ない事を俺は知ってる。
 
 元気よく放たれた桃井の挨拶に、兄貴は曖昧な礼を返して、すでに我関せずといった様子だ。
 
 
「乗せてったろうか?」
「サンキュー。でも、気持ちだけ貰っとく。今日はミチカもいるから、歩いてく」
 
 
 女の子と繋いでいる手を、見せつけるように緩く上げる。女の子は、不貞腐れたように桃井を見上げて、唇を尖らせた。
 
 
「ミチカお姉ちゃんって言いなさい」
 
 
 思いがけず大人びた口調だった。桃井は、口元を緩めて「はいはい」と鷹揚に答えている。
 
 
「はいはい、おねーちゃん」
「よろしい」
 
 
 満足げにミチカが答える。その不思議な会話に、俺は首を傾げた。ミチカを指差して、はてなマークを浮かべて問い掛ける。
 
 
「おねーちゃん?」
「そ、ミチカは俺が入る前から施設にいたから、俺のおねーちゃん。俺一番年上なのに、いっちゃん弟だから、何か変な感じする」
 
 
 桃井が子供っぽい口調で言う。小学生の女の子に本気で甘えているような安心しきった表情だった。
 
 桃井は、十三歳の頃から私設の養護施設で暮らしている。十二歳の時に家出をして、一年間放浪したあげく、養護施設に引き取られたらしい。顔の傷は、その放浪の間にできたらしい。ナイフで切られたような真っ直ぐな傷痕を、桃井は「事故にあった」と大抵の人にはそう答える。だけど、時々「罰があたった」とも言う。結局のところ、どちらが本当なのか解らない。どっちも本当かもしれないし、どっちも嘘かもしれない。
 
 何にしろ、桃井はその傷のせいで周りから嫌煙されている。まるで肉食獣でも観るかのように、遠巻きにされている。桃井は明るくて真面目な奴だし、誰に対しても公平に接しようとするが、そんなこと大抵の人は理解しようとしない。それを桃井は「仕方ない」の一言で済ましてしまう。「誰にでも優しくすることが正しいわけじゃないからな」と言う。桃井は生き物が大好きなくせに、時々人間に対して吃驚するぐらい冷めてる。
 
 ミチカが何処か居心地悪そうに身を捩らせる。しきりに桃井の手を引っ張って、早く行こうと示していた。俺はその様子を眺めて、窓から右手をぐいと突き出した。握手を強請るように上下に振る。
 
 
「ハロー、ミチカちゃん。名前かわええねぇ。俺と結婚しようや」
 
 
 戯れるような台詞に、ミチカはぎくりと身体を強張らせた。まるで変なものでも見るかのような視線に、俺は少し傷付く。だけど、この町の連中のように負の感情を隠そうとしていない分だけ、俺は好感を抱く。
 
 
「変なこと言わないで下さい」
「麻原ミチカ、かわえぇやん」
「貴方、誰にでもそんなこと言ってるんですか?」
 
 
 不信感を前面に押し出した質問に、俺は少しだけ首をひねる。
 
 
「俺、そんなほいほいプロポーズしたりせんで」
「変ですよ、会ったばかりなのに。ろくに知りもしないのに、失礼です」
 
 
 毅然とした返答に、俺は少し苦笑いする。まったくもって正当な意見だ。桃井がヒッヒッと気味の悪い笑い声をあげた。
 
 
「ふられてやんの、麻原」
「うっせえ、ぶん殴るぞテメェ」
 
 
 じゃれあいの遣り取りに、ミチカが驚いたように目を見開く。桃井の大きな身体を、自分の小さな身体の後ろに押し込めて、守るように立ちはだかる。
 
 
「私の弟をイジメないで! この子は、貴方とは違うんだから!」
 
 
 残酷な言葉だった。俺は、一瞬ひゅっと息を呑み込んで、ミチカを凝視した。俺と違うって、どういう意味だ。そう問い質したい衝動が身体の内側で暴れ狂う。桃井が酷く困った顔で、ミチカを宥めている。
 
 
「おねーちゃん、俺イジメられてない」
「今イジメられてなくたって解らないわ! だって、この人、いつも誰か殴ってるじゃない! あたし、この間、この人がユウキ君の三輪車壊してるの見たわ! 女の人蹴ってるのだって見たことある! この人、誰でも殴るのよ! 人の痛みが解らないなんて、この人、異常者よ!」
 
 
 俺の手より桃井の手の方が早かった。ミチカの髪の毛を鷲掴もうとした俺の手が空ぶる。桃井がミチカの身体を、胸に抱き寄せて、窺うような眼差しで俺を見ていた。
 
 
「二郎、俺のおねーちゃんだ」
「知っとる」
「すまん」
「御前に謝られても仕方ない」
「解ってる。けど、すまん」
「もうええ。兄貴、行こうや」
 
 
 兄貴がちらりとミチカを一瞥して、それからアクセルを踏み込む。後方から桃井の声が響いて来る。
 
 
「麻原、今度やきそばパンおごるー!」
 
 
 やきそばパンでつるな馬鹿。だけど、たったそれだけの一言で、俺の気持ちは少し立ち直る。助手席のシートに深く背を埋めながら、小さく溜息をつく。
 
 
「子供は残酷や」
 
 
 数十秒の沈黙の後、兄貴が呟いた。
 
 
「御前は残酷やないんか?」
 
 

backtopnext

Published in 凶暴三兄弟

Top