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14 水の中をたゆたう

 
 水の中をたゆたっている。
 身体があたたかい液体に包まれて、浮かんでいる。
 柔らかい光に包まれた水中は、酷く居心地がよかった。
 心地よさの中、意識が浮かんでは沈み、沈みは浮かんでいく。
 水の中では、どちらが上か下かも判らない。
 ただ浮かび、流れのまま彷徨うだけ。
 『あったかい』と囁こうとした唇から、小さな水泡がぽこぽこと零れて四方へと散っていく。
 無限のような世界で、永遠とも思える時を過ごす。
 そこは穏やかだった。
 不安も悲しみも怒りもなかった。
 町の連中も、親父もお袋も、兄貴もミツルも、姫子もいない。
 俺ひとりだけ。
 すこしさみしいな。
 そう思った瞬間、水面から二本の手が伸びてきて、俺の腕を掴んだ。
 
 
 
 
 
 強い力に、土の中から引き摺り出される。草むらに仰向けに転がると、空にぽっかりと月が浮かんでいるのが見えた。薄く開いた眼球に月光が満ちる。潤んだ眼球の中で光が乱反射して、クリスマスのライトでも飾ったかのように闇がキラキラと煌めいて見える。綺麗だ、と不意に思う。左手をゆっくりと天に翳すと、こびり付いた土がパラパラと指の間から落ちてきた。右手も同じように上げようとしたが、何故だか重くてあがらない。緩慢な動作で首を横へと傾けると、土まみれになった兄貴とミツルが俺の右腕をきつく掴んだまま、焦燥した表情で俺を見つめていた。二人とも息を切らしている。
 
 
「…二郎、大丈夫か?」
 
 
 答えようとするのに、声が出ない。ミツルが急いた手付きで、俺の口に詰め込まれていた布を取り出す。途端、酸素不足だった脳味噌に空気が潜り込んできて、意識が朦朧とするのを感じた。強烈な目眩に、目の前の光景がぐにゃりと歪む。乾いた咽喉が急激に入ってきた空気に耐え切れず、ひゅうひゅうと苦しげな音を漏らす。思わず指先で咽喉を掻き毟ると、その手を兄貴に取り押さえられた。
 
 
「一気に呼吸すんな。焦らんでええんや。ほら、ゆっくり吐いて、少しずつ吸え」
 
 
 耳元で呪文のように囁かれる。近付いた兄貴やミツルの身体からは、深い土の臭いがした。それとも、これは俺自身の臭いだろうか。土に埋まった。土になった。俺は、十二年前と同じように土に埋められて死んだんだろうか。それとも、十二年ぶりに土から掘り返されたんだろうか。検討も付かないまま、言われるがままに呼吸を繰り返す。胸元を撫でる手に宥められて、ようやく呼吸が安定してくる。落ち着いた呼吸に安心したのか、ミツルがほっとした表情で、俺の前髪を優しく掻き上げた。
 
 
「……なんで、アニキ、とミツル、おるん…?」
 
 
 しゃがれた声で問い掛けると、兄貴が俺の泥だらけのジーンズのポケットから携帯電話を引っ張り出した。パステルブルーの丸っこい形をした携帯だ。
 
 
「GPSは便利やな。やっぱり御前の携帯、子供携帯にしといてよかったわ」
 
 
 そう言って、兄貴は無理矢理頬に笑みを浮かべた。俺もつられるように頬をひくつかせる。
 高校生にもなって子供携帯はないだろうと、店頭で兄貴と言い争いになったのは何年前の話だろうか。結局あのときの誘拐事件のことを引き合いに出された上、ミツルも俺と同機種を使うという事で、無理矢理納得させられた事を思い出す。そういえば、子供携帯には居場所を探知する機能もあったな。
 
 
「おれ、高校生やのに…、子供ケー、タイ、とか、カッコわるいわ…」
「やけど、御前はそれで助かったんやで。犯人が携帯と一緒に御前埋めたのは不幸中の幸いやな。足下から携帯の着信音聞こえた時は、ほんま息が止まるか思うたで」
 
 
 兄貴がちらりと視線を、俺の足下へと向ける。緩く首をもたげると、そこにはぽっかりとした穴があいていた。中から見上げた時は、どんなに深く大きな穴だろうかと思っていたが、こうやって上から見るとその穴は然程大きくもなかった。人一人が中腰でかがめるぐらいの大きさだ。縦幅よりも横幅はもっと狭い。
 
 俺が埋まっていた穴だ。そこは俺の確かな居場所だった。それを思うと、肺の中から落胆や失望といった感情が不意に湧き上がってきた。俺は “そこ” に居たかった。ようやく町とイーブンになれたと思ったのに、これでまた均衡が崩れてしまったように感じたのだ。深く息を吐き出すと、俺の落胆を感じ取ったのか、ミツルがぴくりと眉根を動かした。
 
 
「御前、まさか埋まったままでおりたかったとか思っとらんやろうな」
 
 
 驚きに肩が跳ねる。見開いた目で凝視すると、ミツルの顔が怒りに歪んだ。いつもの猫が威嚇するような顔じゃない。憤怒に頬を引き攣らせた表情は、まさに鬼か羅刹だ。
 
 
「そんなん…」
「大人しく死んでやるつもりやったんやないやろうな?」
 
 
 ミツルの言葉が責め立てるように俺へと突き付けられる。俺は混乱した。自分が死にたかったのか生きたいのか、さっぱり解らなくなってしまったのだ。唇だけが何か言葉を発しようとパクパク上下するけれども、返す言葉は已然として思い浮かばない。
 
 
「何か言えや二郎。御前、ひとりで死ぬつもりやったんか?」
 
 
 ミツルが俺の胸倉を鷲掴んで、拳を小さく震わせる。鋭く尖った視線が俺に突き刺さる。兄貴が今にも俺に噛み付きそうなミツルを押し止めるように言う。
 
 
「ミツル、二郎を責めんな」
「ハジメは阿呆か! 甘やかすんも大概にせぇや! こんな、こんな救いようのない馬鹿、放っておいたら、こうやって勝手に死んでしまうんやで!」
「やけど、死んどらん。俺は二郎が生きとるだけでええ」
 
 
 兄貴の静かな声に、ミツルは奥歯を砕きそうなほど噛み締めた。ガギッと歯が軋む音がミツルの頬から響く。コメカミに稲光のような青い静脈が薄く浮かび上がった。
 
 
「俺らはいっつもそうや! こいつが埋められた時から、俺もハジメもずっと二郎が生きて傍におるだけでええと思ってきた! やけぇ、こいつがやること全部全部放ってきたんや! やけど、それが間違いやった! こいつは自分で自分を殺しとる! 他人殴って、自分殴っとる! 俺らは、二郎が傷付くのをずっと見て見ぬフリしてきただけやないか!」
 
 
 ミツルの激昂が刃になって俺に突き刺さってくる。俺は眼球が潤むのを感じた。違うと言いたかった。俺は、兄貴やミツルをそんな風に思ったことなんかない。放ってこられたなんて思ってない。無視されてるだなんて思ってない。
 
 兄貴は黙ったまま、ミツルの言葉を聞いていた。ミツルが自嘲的な笑みを口角に滲ませる。
 
 
「ほんまに責められんとあかんのは、俺とハジメやないか」
「そんなん、違う」
 
 
 乾いた笑い声を零すミツルの言葉を、咄嗟に遮る。自分で思っていた以上に涙声だった。咽喉がひくりと上下する。
 
 
「兄貴とミツルは、俺のこと、大事にしてくれただけや」
「御前のこと思っとるんやったら、ほんまは俺らは御前を止めてやらんとあかんかった。俺らはそれをせんかった。御前が町の連中傷付けるのを黙って見とった。御前が一緒に傷付いてるのも知っとったのに」
「違う、違う」
 
 
 まるで言い聞かせるようなミツルの声に、俺は駄々を捏ねる幼児のように首を左右に振った。まるで自分自身を自虐するかのように、ミツルは一息にこう吐き出した。
 
 
「俺もハジメも、二郎埋めた奴らと一緒や」
「ちがう!」
 
 
 脳味噌のメーターが一気に振り切れて、悲鳴にも似た叫び声が溢れ出した。咄嗟に上半身を起こして、叩き付けるように叫ぶ。
 
 
「兄貴とミツルは、俺を埋めた奴らとは違う! あんな奴らと一緒やない! 兄貴とミツルは、俺と一緒に泥を呑んでくれたんや! 凶暴三兄弟って阿呆みたいな呼び名で呼ばれて、町の連中からもいつも怖がられて、嫌な噂立てられて、喧嘩ばっか売られて、やけど、俺のこと一回も責めたりせんかった! 俺と一緒におってくれた! あんな奴らと違う!」
 
 
 激情が咽喉元からせり上がってきて、息が切れた。不整脈でも起こったかのように心臓がめちゃくちゃな鼓動を刻み始める。顔がくしゃくしゃに歪んで、なおもこみ上げて来る感情に唇が戦慄いた。ミツルが何とも言えない複雑そうな表情で俺を見つめている。俺の太腿辺りに置かれたミツルの手がふと視界に入る。その指の爪の間には、土が詰まっていた。爪から血を滲ませている指もある。手で地面を掘ったのか、そう思った途端、何かの感情が胸をせり上がって来た。不意に、気付く。兄貴とミツルは、今の今まで俺と一緒に土の中に埋まっていてくれたんだ。土の中から出られない俺のために、ずっと。
 
 
「――俺の兄弟や」
 
 
 言葉にした途端、十二年前から俺の脳味噌に巣食っていた悪夢がすっと消えて行くのを感じた。俺はずっと土の中に自分一人しかいないと思っていた。だけど、本当は兄貴やミツルがずっと傍にいた。そうして、二回も俺を土から引き摺り出してくれた。
 
 
「……やけど、俺らは御前のこと、ただの兄弟として見てやることができん」
 
 
 ミツルが微かに遣る瀬ない声音で呟く。
 
 
「何で、そんなこと言うんや…」
「俺らは――」
「もうええ、ミツル」
 
 
 酷く穏やかな兄貴の声が響いた。泥がこびり付いた俺の頬をそっと撫でると、もうええんや、と繰り返し囁く。目を伏せたその顔には、色濃い悲哀が滲んでいた。ミツルが皮肉げな口調で吐き捨てる。
 
 
「何が、もうええんや」
「二郎にもう酷なこと言うな」
「ハジメはまだ二郎を甘やかすんか」
「甘やかすんやない。俺は二郎を守ってやりたいだけや。俺が今までやってきたことは間違いやったかもしれん。こいつを復讐心の塊にして、余計に傷付けただけかもしれん。それは俺らも二郎も償わんとあかん。やけど、御前が今から二郎に言おうとしとることは、結局俺らの我侭でしかない」
 
 
 ミツルがぐっと言葉に詰まる。悔しそうに下唇を噛み締めて、まるで呪詛でも吐き出すかのように呟く。
 
 
「なら、また何年間も待つんか。俺らはずっとずっと二郎が気付くのを待たんにゃあかんのか」
「ほんま言うと、俺やって我慢の限界や。何年間も我慢してきたんや、ええ加減報われたい。報われんのんやったら、いっそ断ち切りたい。やけど、どっちにしてもそれは二郎にとって兄弟が兄弟でなくなることや。二郎は傷付く」
「傷付くのなんか初めっから解っとったやろうが。今更怖じ気づいたんか、ハジメ」
「そうや、俺は怖じ気づいた。姫子おらんくなって、いっそ好機や思たりもした。俺らを選ばせようとも思った。やけど、俺には無理や。俺は二度とこいつを土から掘り返したりしとうない。もう二度とや」
 
 
 そう言って、兄貴は深々と溜息を零した。俺の頬を撫でていた兄貴の手が力なく落ちる。土の上に置かれた掌が、固く土を握り締める。そうして、微かに疲れた眼差しで俺を見つめた。
 
 
「二郎、安心せえ。俺らは兄弟や」
 
 
 本当なら安堵するべき言葉なのに、何故だか胸の辺りがもやもやする。ミツルが苛立ったように、髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き回している。固く閉じられた唇の端から、獣のような唸り声が微かに零れていた。だけど、最後には諦めたかのように肩をガックリと落として、不貞腐れたような泣き笑うような顔で俺を見た。
 
 
「クソボケ二郎が。ひとりで死ぬようなことは絶対すんな。解ったか?」
 
 
 小さく頷くと、ミツルが唇をふっと緩めた。それから、唐突に真顔になると、低い声で訊ねた。
 
 
「御前埋めた奴は誰や」
 
 
 心臓が跳ねる。咄嗟に後頭部へと手をやると、乾いた血がざらりと指先に触れた。血は止まっているみたいだ。兄貴が後頭部を覗き込んで「嗚呼、割れとるな」と平坦に呟く。その口調は、いつも通りの冷徹無表情な兄貴のものだった。
 
 
「今から病院行くで。頭やられとるんならMRI取らにゃあかん」
 
 
 両脇に手を差し込まれて、ゆっくりと立ち上がらされた。近くに止められていたワゴン車の後部座席に詰め込まれて、「寝とけ」と命令口調で言い渡される。大人しく横になると、後からミツルが乗り込んで、俺の頭を無理矢理太腿の上に乗せた。肉付きの薄い太腿はゴツゴツとしていてお世辞にも寝心地が良いとは言えなかったが、妙に心地良かった。兄貴がシートベルトをしめて、直ぐさま車が発進する。丘が遠ざかって行くのが、どうしてだか無性に寂しくて、込み上げて来る虚しさを俺は必死で噛み締めた。
 
 

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Published in 凶暴三兄弟

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