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16 戻れ 進め

 
 そこは町の外れにある小さな修理場だった。質素なプレハブ小屋の一階部分を工場に当てて、二階は住宅にしているらしい。青いトタン屋根はところどころが錆び付いていて、嵐が来れば一瞬で吹き飛んでしまいそうに見えた。シャッターで閉ざされた一階工場の周りには、所狭しと車の部分が散らばっている。車のエンジン部分に歪んだ鉄の塊、割れたサイドミラー。その虫の目のようなミラーに映る、歪んだ自分の姿に鳥肌が立った。鏡に映った自分の顔は、酷く強張って青褪めていた。血の気が失せて紙のように真っ白になっている。まるでゾンビみたいだ。そう思うと、口角が出来損ないの笑みに引き攣った。
 
 二階を見上げると、慎ましやかな明かりが窓ガラス越しに透けて見える。あそこに俺を埋めた人間がいるんだろうか。姫子を殺した奴がいるんだろうか。ぼんやりと思いを馳せていると、ミツルが焦れたように俺の肩を揺さぶってきた。
 
 
「二郎、どうするんや」
 
 
 心配げな声に、空笑いを返す。自分でも無理に笑っているのが解っても、少しでもミツルの不安を減らしたかった。俺の事で、これ以上兄弟の手を煩わせたくない。自分らしかぬ感情に、酷く戸惑った。
 
 
「とりあえず、白のBMW探そうや」
 
 
 言い終わらない内に、兄貴が工場のシャッターを開いていた。無用心に鍵も掛けてなかったのかと俺は呆れたけれども、兄貴の足元に落ちている南京錠と切られた鎖らしきものを見て、今度は兄貴に対して呆れてしまった。兄貴の右手には、巨大なニッパーらしきものが握られている。
 
 
「用意周到すぎやろ。どこの阿呆がこんなゴツイニッパー、車に積んどるんや」
「御前の兄貴や阿呆」
 
 
 まったく悪気を感じさせない声で、兄貴は言い放った。開いたシャッターから真っ暗な工場内へと入る。途端、饐えた油の臭いが鼻についた。鼻腔の奥にツンとくる臭いに、微かに眉を顰める。ミツルが電燈を探し出して、スイッチを押した。眼球に蛍光灯の白々とした光が突き刺さる。眩しさに目の奥が痺れるように痛んだ。さすがにシャッターも開いて、電気までつければ、住人らも不法侵入に気付くかもしれない。それならそれで良いと思った。むしろ手間が省ける。
 
 工場の端には、くちゃくちゃに折り畳まれたような車が何台も積み重なっていた。修理中らしい車がボンネットを開いたまま、中央に置かれている。しかし、臭いほどは雑然とした印象を受けない場所だった。慎ましやかで誠実な印象を受ける工場だ。ぐるりと見渡して、それから工場の端に青いビニールシートを被った塊を見つける。近付いてビニールシートの端を捲ると、白い車体が覗き見えた。BMWのロゴマークが付いている。それを見て、胸に溢れたのは歓喜でもなく、単なる虚脱だ。俺は、悲しいぐらいに疲れていた。それとも疲れているから悲しいのだろうか。解らず、緩く肩を落とした時、男の引き攣った叫び声が聞こえてきた。
 
 
「お、前ら何をしてるんだ!」
 
 
 髪の毛を短く刈った男がシャッターの前に立っている。平凡で誠実そうな男だ。その膝は、遠目から見ても明らかなほど震えていた。ミツルが男を睨み付けて、苛立たしげに舌打ちを零す。その小さな音にすら男はビクリと肩を跳ねさせた。男の全身の毛穴から、恐怖が滲み出ているのが解る。きっと今すぐにでも逃げ出したいのだろう。だが、男は逃げない。おそらく守らなくてはいけないものが在ることを知っているからだ。愛情や責任に対して自覚的な男だと思う。自覚しているからこそ、俺を殺そうとしたんだろう。そう思うと、悲しみが言葉になって溢れ出した。
 
 
「姫子殺した奴どこにおるん?」
 
 
 悲しくなるぐらい惨めな声音だった。まるで雨の中に打ち捨てられた犬だ。へにゃりと崩れた視線を向けると、男が泣き出しそうに顔を歪めていた。唇がわなわなと震えている。知らないと叫びたいのに、罪悪感と恐怖から思うように口が動かないんだろう。俺なんかより、よっぽど傷付いている表情だ。
 
 
「この車で姫子運んだんか?」
「ひめ、こ?」
 
 
 鸚鵡返しのように呟かれる。男の眉が苦しげに寄った。
 
 
「そう、姫子や。俺の大事な犬」
 
 
 男の顔が苦渋に歪む。その表情に、悲しみが渦を巻いて咽喉元から込み上げてきた。ビニールシート越しに車の側面を撫でながら、そっと姫子を想う。姫子はこの車に乗った時には、もう死んでいたんだろうか。それとも虫の息ながらも生きて、呼吸をしていたんだろうか。そのとき姫子は、何を思っていたんだろう。
 
 
「この車、あんたのやないんやろう?」
「客の、だ」
「客の車で犬運んだんか。まぁ、自分の車や運べんもんな」
「あんた、何言ってるんだ」
 
 
 ようやく男は言い返してきた。男は挑みかかるような眼差しで、俺を見据えている。
 
 
「姫子殺した奴、ここにおるんやろ? 話したいことがあるんや」
「あんたの犬が殺されたのは知ってるけど、うちとは何の関係もない」
「なら、何で俺を埋めたんや」
 
 
 男の身体が目に見えて震えた。半開きになった唇が足掻くようにパクパクと上下している。
 
 
「俺を埋めたん、あんたともう一人、たぶん嫁さんやろ?」
「…俺は、何も知らない」
「あんたらは、姫子殺した奴を知っとる。姫子の死体をうちに放り込んだのは、あんたらや。それに、俺が姫子殺した奴を探して暴れ回っとるのを知ったけぇ、あんたらは犯人が見つかる前に俺を殺そうとしたんや。俺に見つかったら犯人が殺されるかもしれん思うたんやろう? あんたらは姫子殺した犯人を庇っとるんや」
 
 
 淡々とした俺の声に、男はじっと黙り込んでいた。ぐっと奥歯を噛み締めたまま、ただ射るような目つきで俺を睨み付けてくる。その眼球の奥に見えるのは、殺意だ。守るべきものを守り抜こうと決意している強い瞳だ。その目を見据えたまま、俺はゆっくりと首を振った。
 
 
「俺は復讐しに来たんやない。あんたらが俺埋めたんも、どうでもええ。ただ、話がしたいだけや」
「…そんなの信じられるか」
「信じられんか」
「当たり前だ。あんたは町中の人間を殴りつけなきゃ気が済まないんだろう? 女だって老人だって子供だって構わず殴って、俺達は毎日トラの檻の中で暮らしてるような最低な気分だよ。トラの前に子供差し出す親が何処にいる」
 
 
 『子供』と男は言った。怒りよりも、やっぱりという思いの方が強くて、咄嗟に言葉を失う。乾いた咽喉に唾液を流し込んで、掠れた声を吐き出す。
 
 
「ユウキ君やったっけ? あんたの息子」
 
 
 俺の一言に、男の目が見開かれる。恐怖に全身が引き攣っているのが見えた。そうして、男は唐突に背を向けて走り出した。脱兎という単語がピッタリ当て嵌まるような走り方だ。ガンガンと踏み抜くような勢いで鉄階段を上っている音が聞こえてくる。
 
 
「二郎、追うか?」
 
 
 潜めるような声音で、兄貴が訊ねて来る。その言葉に、微かな迷いを覚える。復讐なんて、もう考えていない。殴ることも詰ることもできないほど、俺は疲れ切っていた。今更真相を知ったところでどうなる。姫子が戻るわけじゃない。このまま放っておいた方がきっと自分は傷付かない。また元通りの生活に戻れる。浅はかな自己保身が足を地面に貼り付けて動かなくさせる。呼吸を止めたまま、じっと俯いていると、両隣からほぼ同時に声が響いた。
 
 
「戻れ」
「進め」
 
 
 まるで信号機の前にでも立っているかのような感覚だ。兄貴とミツルがそれぞれ真反対の言葉を告げた。そうして、お互いに顔を見合わせると、何処か気まずそうに顔を歪めた後、揃ったように深々と溜息を吐いた。その鏡合わせのような動きに、やっぱりこいつらも兄弟なんじゃねぇかと思って、妙に笑えた。ガチガチに強張っていた心が緩やかに解けて行くのを感じる。笑い声を漏らすと、ミツルがじとりと睨み付けてきた。兄貴は、もう一度溜息を吐いてから、酷く穏やかな声で言った。
 
 
「御前が思うことをすればええ」
 
 
 まるで見守るような声だった。続いて、ミツルが急かすような声で言い放つ。
 
 
「何のために俺らがおると思っとんや。御前が何万回ヘマこいたって、俺らがフォローしたる」
 
 
 こういうときのための兄弟やろうが。その力強い言葉に、胸が熱くなる。嗚呼、俺には最高の味方がいる。戻れと退路を確保してくれる兄がいる。進めと後押ししてくれる弟がいる。俺の最高の兄弟だ。
 
 
「うん、俺行くわ。駄目やったら、また二人で俺のこと掘り出してくれるんやろう?」
 
 
 ふっと兄貴とミツルの頬が綻ぶ。無言で肯定するようなその表情が好きだ。心から、好きで好きでたまらない。その瞬間、好きだという気持ちが胸いっぱいに溢れた。不意に、脳裏を瞳さんの言葉がよぎる。
 
 
 『人生に必要なのはね、快楽と愛のみなのよー。それさえあれば、あとはドントウォーリー、ビーハッピー』
 
 
 本当だな、瞳さん。何だ、すごく簡単なことだったんだ。溢れ出してくる感情に、口が勝手に動く。
 
 
「俺、兄貴とミツルが大好きや」
 
 
 言ってから、良い歳した男が大好きだとか気色悪いだろうかと自分で悩んだ。だけど、兄貴とミツルの顔の方が、俺の言葉以上に恥ずかしかった。らしくない、耳まで真っ赤にするなんて。その顔をぽかんと眺めてから、弾けるように笑った。
 
 
「くっそ、笑うなや二郎!」
「今すぐ笑うのやめんと、顎骨砕くで二郎」
 
 
 照れ隠しの脅し言葉にも、俺のはらわたから這いずり上がって来る笑いは止まりゃしない。何だこれ、何だこれ、笑いのスイッチがバッキンって音を立てて壊れたみたいだ。スイッチのオンとオフが馬鹿になってしまった。笑いの嵐が俺の心に今まで強固に作られていた塔を薙ぎ払って行く。凶暴三兄弟という名前の虚像の塔をぶち壊して、俺の心をまっさらな草野原に戻していく。心の要らない部分がぶち壊れて、視界がぱぁって開けた感じ。開けた視界の先には、兄貴とミツルがいた。俺をずっと待っていた。それだけで良かった。ずっとそれだけで良かったんだ。これまでも、たぶん、これからも。次第に剣呑になってくる二人の視線を宥めるみたいに、ふはぁーと大きく息を付いてから、きっぱりと言い切る。
 
 
「家帰ったら、ちゃんと言う。御前らのこと、ちゃんと答え出すけぇ、もうちょい待ってな」
 
 
 謎掛けみたいな俺の言葉の意味が通じたのか、兄貴とミツルの顔が少しだけ強張った。不安と期待が入り交じった表情を見据えて、小さく頷く。それから、消えた男の背を小走りで追い掛けた。
 
 

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Published in 凶暴三兄弟

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