Skip to content →

17 押入れの中に同じ目

 
 鉄階段を駆け上がって、隙間から淡く光を零すドアを大きく開け放つ。ドアの内側では、男が包丁を両手で握り締めてガタガタと震えていた。女は何かを守るように、押入れの前で大きく両手を広げたままへたりこんでいる。恐怖に青褪めた顔が蛍光灯に照らされて、白々と浮かび上がっている。まるでB級ホラー映画のような光景だ。それなのに、どうしてだろう。そんな凄惨な光景なのに、心は酷く穏やかだった。男が震えた声で叫ぶ。
 
 
「そ、それ以上入ってきたら刺すからな! 嘘じゃない! 本気で刺すからなッ!」
 
 
 切っ先がよく研がれた包丁だった。チカチカと蛍光灯の光を乱反射する刃先に目を細めながら、男を刺激しないようにゆっくりとした口調で話す。
 
 
「俺はあんたらを殴りに来たんやない。蹴らんし、刺さんし、叩き潰したりもせん。ただ話したいだけや」
「嘘だ! 御前は、俺たちを殺しに来たんだ!」
 
 
 男は殆ど恐慌状態だった。極限まで高まった恐怖が男の思考を停止させている。女が押し入れの襖に背を押し当てたまま啜り泣き始める。丸っきり追い詰められた小動物のようだ。だけど、それは俺のせいなんだろう。俺がここまで追い詰めてきた。だから、信じて貰えなくても仕方ない。拳をぎゅっと握り締めて、それでも諦め切れずに声を掛ける。
 
 
「ほんまや。確かに、初めは姫子殺した奴捕まえてぶっ殺したろう思うとった。やけど、今は違う。俺は、まだ足りんとは思うけど、自分が、あんたらに何してきたか解ってきたんや。あんたらが俺を埋めたんも、姫子が殺されたんも、つきつめたら全部俺がやったことに辿り着くんや。俺が一番の根っこなんや。悪の腫瘍みたいなもんなんや」
 
 
 言いながら、じくりと胃が痛んだ。事実とはいえ、自分をコケ下ろすのは辛い。男は疑心暗鬼の塊のような眼差しで、俺を凝視している。脇腹を掌でぎゅっと押さえたまま、掠れた声をあげる。
 
 
「やけぇ、あんたらのこと恨んどらんのんや。埋められたけど、怒ってない。信じてもらえんかもしれんけど」
「…今更、今更信じてもらえるとでも本気で思ってるのか? あんたは、子供の前で母親を殴ったんだ。子供が泣き喚いて母親を呼んでも、何度も何度も殴って……妻はそのせいでアバラを二本も折ったんだ。警察に言っても、あんたが麻原の息子だからって取り合ってももらえなかった。俺達は、すごすごと泣き寝入りさ」
 
 
 男がハッと鼻で嗤う。それから、唇を震わせながら咽喉を嗄すように言葉を紡いだ。
 
 
「あんたにとっちゃ、この町の人間は玩具みたいなもんだろうがな、玩具にだって感情はあるんだ。生活があるんだ。家族がいるんだ。あんたには解らない。あんたが折り曲げた三輪車は、ユウキの六歳の誕生日プレゼントだったんだ。馬鹿みたいに思うかもしれないが、あの三輪車を買うために俺達がどれだけ、どれだけ、頑張ったか…。三輪車をプレゼントしたときのあの子の顔が、どんなに嬉しそうだったか…。あんたには一生伝わらない―――伝えたくもない」
 
 
 気付いたら、男の目からは涙がぽろぽろと零れ落ちていた。その涙に、言うべき言葉がすべて呑み込まれて消えていく。俺は、こんなとき言うべき言葉を知らない。今まで言ったことがないから。今まで考えたこともないから。足が震える。俺が今感じているのは何だ。恐怖か後悔か罪悪感か、それらすべて引っ括めた懺悔か。解らない。ただ、怖い。目の前に罪が突き付けられる。剥き出しになった罪悪が俺を追い詰めようと襲いかかって来る。
 
 押入れの前では、相変わらず女が泣きじゃくっている。その顔に、確かに見覚えがある。俺が何日か前に殴り跳ばした主婦の一人だ。背後で『凶暴三兄弟』とひそひそ話をされて、俺は容易く怒り狂った。主婦二人を叩いて叩いて叩きのめして、「おがぁさーん!」と泣き喚く子供の三輪車をへし曲げた。両親が子供のために必死で買った三輪車を、俺はいとも簡単に叩き潰した。俺には他人の痛みが解らなかったから。解ろうともしなかったから。姫子殺しは、そこから始まった。俺の罪から。
 
 くらりと足下が揺らいだ時、不意に押入れの中からか細い声が漏れてきた。怯えてはいるが、聡明そうな幼な声だった。
 
 
「姫ちゃん言うの、あのわんちゃん?」
 
 
 女が可哀想なぐらい顔を引き攣らせて、押入れに向かって「静かに…!」と押し殺した声で叫ぶ。だけど、押入れからの声はとまらない。
 
 
「ねぇ、姫ちゃん言うんでしょ?」
「あぁ、そうや。姫子言うんや。可愛え犬やったやろう?」
 
 
 襖越しに「うん」と幼い相槌の声が聞こえてくる。その声音に物悲しいような、切ないような気持ちに支配される。酸っぱいものを胸いっぱいに食べた時のように、きゅーっと心臓が縮み上がる感覚だ。それを振り払うように、無理矢理空笑いを唇に浮かべる。
 
 
「なぁ、聞きたいことあるんや」
「なに?」
「三輪車の代わりに、姫子を殺したん? 姫子を、三輪車の代わりにするつもりやったん?」
 
 
 あの夜の姫子の姿を思い出す。切られた右前足、三本しか残ってなかった足。頭に水平に刺された二本の枝は、ハンドルのつもりだったんだろうか。姫子は、俺がへし曲げた三輪車の代わりにさせられたんだ。それが、きっと紛れもない真実だ。
 
 男と女がヒッと息を呑むのが聞こえた。二人の目に浮かんでいるのは憔悴と絶望だ。
 
 
「ち、違う! 俺が、俺があんたの犬を殺したんだ! ユウキは関係ない!」
「そうよ、私達が殺したの! ごめんなさい、ごめんなさいッ! この子は何もしてない!」
 
 
 喚き散らされる言葉に、悲しみが胸に重石みたいに詰まって行く。ぐ、と息を噛んで、自分の胸倉を握り締める。子供を守ろうとする親は必死で切実で、その姿に不意に自分の父親と母親が頭をよぎった。自分達の快楽を最優先する馬鹿親だった。だけど、子供に愛情がなかったとは思いたくなかった。それなのに、どうしてお父さんとお母さんは、こんな風に俺を庇ってくれなかったんだろう。爪が掌にギリギリと食い込む。今更悲しいなんて思ったりしない。ただ、胸の中に重苦しく鎮座する感情があるだけだ。
 
 
「あんたらみたいに守ってくれとったら、少しは違ったんやろうか」
 
 
 俺の人生や、他人の人生も、変えることが出来ていたんだろうか。問い掛けても無駄だと解り切ってる。恨み言を言うには、遅過ぎる。だけど、言わずにはいられない。男と女が意味を把握しかねた表情で、俺を見つめている。その涙で濡れた四つの目玉を眺めながら、俺は震える声をあげた。
 
 
「誰も、誰ももう殴らん。子供殴りに来たんやない。ただ、聞きたいんや。俺は姫子のことが好きやったんや。大事やった。やから、死んだ理由を聞かんにゃ納得できんのや。曖昧に誤摩化して、暴力で解決したってええけど、もう俺は、そんな俺にうんざりしとる。俺はこれ以上自分にうんざりしとうない。人殴って、穴に埋められて、頭の上から涙が落ちてくるのも嫌や。そんなん、あんたらの方がずっと悲しくなってくる」
 
 
 拙い俺の言葉に、男と女はぽかんと唇を開いている。まるで宇宙人の言葉でも聞いたかのような表情だ。きっと理解されるには難しい。もしかしたら、一生理解されることはないかもしれない。だけど、理解して欲しいと願うことは出来る。暫く沈黙が続いて、それから襖の中から掠れた声が聞こえてきた。
 
 
「殺すつもりなんか、なかった」
 
 
 微かに鼻を啜る音が聞こえる。襖越しに膝を抱えてしゃくり上げる子供の姿が見えるようだった。
 
 
「三輪車が壊れて、みんなと遊べなくなっちゃって、だから、ぼく、町を歩いてたんだ。そしたら、おっきい家の門のところにわんちゃんがいて、頭撫でても、噛んだりしなくて、だから、連れ出しちゃったんだ。ただ、いっしょに遊ぼうと思っただけだよ。河原で棒なげたり、水ぱしゃぱしゃ跳ねて遊んだり、すごく楽しかったのに、わんちゃんが帰りたそうにしてるから、帰したくなくって」
 
 
 子供の声に嗚咽が混じっていく。男と女が身体を強張らせたまま、呆然と話を聞いていた。
 
 
「せ、なかに乗ろうと思ったんだ。三輪車なくなったから、代わりに乗ろうと思って。だけど、背中に乗ったら、いきなりグラッてなって、河原の坂をごろごろ転がって、気づいたら、僕の下でわんちゃんがぐったりしてた。わんちゃんが死んじゃってた」
 
 
 身体から何かが抜けていく。膝から力が抜けそうになったのを、兄貴とミツルが両脇から支えてくれる。襖から視線が外せない。ぐらぐらと脳味噌が揺れる。
 
 
「ぼく、どうしよう、って思って、どうやったら生き返るのか、わかんなくて、わんちゃんは足が四本あるから、三輪車みたいに三本じゃないから、ぐらってなったんだって思って、だから、三本にすればいいと思ったんだ。落ちてた尖ってた石で足をなんかいも叩いて、いっぱい叩いて、足ぶちって切って、それから、持つとこがないから棒刺して、でも、わんちゃん生き返んなかった。ぼく、わんちゃん殺しちゃったんだね」
 
 
 しゃくり上げる子供の声に、皮膚の感覚が遠のいていく。頭の芯がぢんぢんと痺れて、もう動かない犬が寂しげに鳴く声が聞こえてきた。涙は出てこない。ただ絶望的な悔恨だけが心臓の内側にべったりと貼り付いてとれない。心臓が膿を出して腐っていく。
 
 
「違う。俺が姫子殺したんや」
 
 
 呟いた声は、自分でも吃驚するぐらい平坦だった。抑揚がなく、丸っきり機械みたいな冷たい声。言った途端、心がひび割れて壊死していくのを感じた。
 
 艶やかな毛並みをした可愛い犬だった。七歳の時にプレゼントされた、俺だけの犬。何処に行くにも俺と一緒にいてくれた。寂しいときは頬を舐めてくれた。穴だらけの俺の心を埋めてくれた。だけど、もういない。姫子はいない。俺が殺した。世界で一番可愛いあの子を、俺は殺したんだ。
 
 出口のない悲しみが行き場を失って、体内で奔流していた。目蓋をきつく閉じて、溢れ出してしまいそうな嗚咽を噛み殺す。気付かず、奥歯を食い縛っていた。擦れ合った歯がガギッと鈍い音を立てるのが聞こえる。
 
 
「お兄ちゃん、怒ってる?」
 
 
 襖の中から悲しみに濡れた声が聞こえた。大きく息を吐き出して、ぎこちなく答える。
 
 
「怒ってない」
「じゃあ、どうしてそんな怖い顔してるの?」
 
 
 はっとした。視線を上げると、襖の隙間から大きな瞳が俺をじっと見つめていた。零れそうに涙をたたえた瞳は、まるで雨上がりの水たまりのように透明に澄んでいた。
 
 
「たぶん、悲しい、から」
「悲しいのに泣かないの?」
「泣く権利がない。やって、俺が姫子殺したのに、泣くのは卑怯だ」
「ぼく、わかんないよ。泣くのに卑怯だとか、そういうの関係あるの?」
 
 
 単純な台詞だからこそ胸に突き刺さった。泣くのも泣かないのも、結局は自己満足でしかないなら、どちらだって卑怯じゃないか。もしかしたら卑怯だと思うこと自体すら、自己満足なのかもしれない。自身の胸倉を鷲掴んだまま、くしゃりと顔を歪める。
 
 
「俺も、わかんない。ただ、上手く泣けない」
「ここにくる? 真っ暗だから、泣いても誰にも見えないよ」
 
 
 襖の隙間からそっと小さな手が差し伸べられるのが見えた。まるで蜘蛛の糸のようだと思う。それとも地獄への誘いか。どちらにしても、自分よりも十歳以上も年下の子供に心配されているという事実は変わりない。その事実が俺をより一層辛くさせた。
 
 
「俺のこと怖くないんか?」
 
 
 問い掛けると、子供は戸惑ったように差し伸べた指先を揺らした。
 
 
「――だって、ぼくより泣きそうな顔してる」
 
 
 その同情の入り交じった声音に、自分自身への情けなさがこみ上げて来て、俺は下唇をそっと噛み締めた。
 
 
「まだ、そこには入らん。何て言ったらええんか解らん」
「なんて言ったらいいか?」
「何か言いたいし、言わんにゃあかんのんやけど、その言葉が思いつかん」
 
 
 言うべき言葉が思いつかないというのは、酷く不安だ。腹の底に不発弾を抱えているような気分にさせられる。爆発させてしまいたいのか、そのままそっとさせておきたいのか、自分でも上手く区別出来ない。無意識に腹の辺りに掌を置いて、じっと俯く。暫くの湿っぽい沈黙の後、襖の中から小さな声が聞こえた。
 
 
「ぼくも、そうだよ。その言葉が思いついたら、ぼくにも教えてくれる?」
 
 
 うん、と稚拙な相槌を返して、くるりと踵を返す。玄関の近くに、じっと俺を見守る四つの目がいる。兄貴とミツルの肩を軽く叩いて、部屋から出ることを促す。扉を出る間際、肩越しに振り返ると、男と女が唖然としたように立ち尽くしていた。そして、襖の隙間からは俺を見つめる邪気のない目がある。もう目は潤んでいない。何かを捜し求めているような眼差しだと思った。玄関の脇に吊るされていた小さな鏡を覗き込むと、押入れの中と同じ目がそこには映っていた。
 
 

backtopnext

Published in 凶暴三兄弟

Top