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22 ハロー!

 
 鮮やかな夢から目覚めると、四本の腕で雁字搦めになっていた。いい加減こいつらはいつか俺を絞め殺すと思う。絶対そうだと思う。身体に絡み付いた腕を解きながら、ゆっくりと起き上がる。関節部分、主に太腿の付け根が異常に痛い。過度な疲労で、全身の筋肉が引き攣っている。あと迂闊に口に出せない場所がひりひりと痺れるように腫れていた。
 
 ギシギシと軋んだ音を立てそうな身体に、恨みがましい気持ちで左右の男共を睨み付ける。すやすやと満足そうな顔で眠っている男共の尻に大根でも突っ込んでやろうかとも思うが、丁寧に着せられているパジャマに気付くと、その気も失せた。昨日までバックバージンだった男に対して、好き放題ヤりまくったのは何とも許しがたいが、でも、それを許したのは俺自身だし、俺の兄弟だし。はぁ、仕方ない。緩く溜息を付いて、よろよろと立ち上がる。服を着替えて、部屋から出ても、兄貴とミツルは起きなかった。
 
 
 庭の隅に作った姫子の墓の前に立つ。両手を合わせて、何か言おうとする。だけど、何も言うことを思い付かなかった。謝罪も、お礼も、愛の言葉も。すべて伝わっていたんだと思った。それだけで、何故だか満足だった。俺は、姫子で満たされていた。
 
 家の玄関の方に、人影が見えた。近付いて行くと、厳つい顔をした男が「おっす」と軽く手を掲げた。
 
 
「はよー、麻原」
「朝っぱらから何しとんや桃井」
「焼きそばパンおごるって言っただろ」
 
 
 そう言って、桃井はリュックから軽く潰れかけた焼きそばパンを取り出した。はい、と俺へと差し出してくる。
 
 
「別に学校で渡したらええのに」
「御前、そう言って、いっつもサボってんじゃん。いつ渡せるかも解んないしさぁ、つぅか、俺学校辞めちゃったから」
 
 
 さらりと口に出された爆弾発言に、俺は目を剥いた。まじまじと桃井を眺める。桃井は相変わらず緊張感の欠片もないへらへらとした笑みを浮かべている。
 
 
「いつ辞めたんや」
「今日。退学届も出してきた」
「何でや」
「昨日さ、おかーさんが倒れて入院しちゃってさ。入院費用っつーのが必要なわけ。養護施設の維持費用もかかるしさ。俺には、おにーちゃんとおねーちゃんいっぱいおるけど、ランドセル背負ったまま働けとは言えないでしょ。だから、俺が働こうって思って。一応働くツテはあんだけど、ここから結構遠くてさ。俺、もうこの町に戻って来れないかもしんない」
 
 
 あっけらかんと語られる事実に、悲痛さや無念さは感じられない。まるで来るべき時が来ただけとでも言わんばかりの桃井の様子に、俺は微かに苛立つ。何でそんな当たり前みたいに受け容れて、簡単に諦めちゃうんだ。
 
 
「何で俺に言わんかったんや」
「今言ってんじゃん」
「ちゃうわ。何で、辞める前に俺に言わんのんや。言っとったら――」
「でも、麻原は俺の家族じゃない」
「でも、友達やろうが!」
 
 
 まるで切り捨てるかのような言葉に、怒鳴りあげる。桃井は、一瞬きょとんとした後、少し泣き笑うような表情を滲ませた。
 
 
「そうだね。でも、言っても結果は変わんないなって思っちゃったんだよ。だって、俺が決めたことだもん。自分で選んで、自分で決めたんだ」
「なぁ、桃井…」
「麻原、いろいろあんだよ人生」
 
 
 たったその一言で、桃井は人生を容易く許容してしまうのだ。辛いことも悲しいことも丸ごと飲み込んで、腹の中にすべて収めてしまう。それは、諦めと紙一重の許しだ。桃井が頬をそっと緩めて微笑む。差し出した焼きそばパンを、俺の手に無理矢理握らせると、肩をぽんと叩いた。
 
 
「俺は大丈夫だよ。麻原も大丈夫だ。御前は、本当はやさしくなれる奴なんだよ」
「何やそれ…」
「やさしくなるのは簡単だ。いま目の前にいる人を、ただ愛すればいい」
 
 
 酷く難解で苦痛に満ち溢れたことを、桃井は簡単に口にする。それを知りながら、それをどうしても出来ずに藻掻き苦しんでいる人間がどれほどいるんだろう。だけど、きっと桃井はその苦しみを知って、それでもそう言うんだろう。桃井は、いま目の前にいる人を愛そうとして生きているから。
 
 
「桃井、何で傷のこと気にせんで生きていけるんや」
 
 
 不意な問い掛けに、桃井が目を瞬かせる。左目の義眼、左顔面の大きな傷、桃井の顔を見た瞬間は、誰もが気味が悪いものを見たかのように顔を引き攣らせる。そうして、目を逸らす。それでも、桃井はそんな人間ですら愛そうとするのだろうか。桃井は、一度悩むように視線を宙へと浮かべてから、こう答えた。
 
 
「気にしてないわけじゃない。俺の顔初めて見た人が息を呑むときは、いつだって傷付く。電車の中で、教室の中で、ひそひそ話をされてる時はいつだって逃げ出したくなる。だから、前は傷のこと気にして、誰とも視線あわせなかった。馬鹿にする奴がいたら殴ってきた。酷いこともいっぱいした。許せなかった。だけど、殴れば殴るほど、隠れれば隠れるほど、俺の顔の傷は深くなっていくんだ。俺が、俺のことを許せなくなっていく。だから、人の目見て喋るようにした。馬鹿にされても笑うようにした。傷なんてないみたいに振る舞った。そしたら、本当に、傷がなくなったみたいに感じるんだ」
 
 
 そう言って、桃井は笑いに肩を緩く揺らした。その満ち足りた表情に、俺は何も言えなくなる。口を噤んだままでいると、桃井が照れたように頬を掻いた。
 
 
「別に何てことないんだよ、本当は。俺が思ってるより、御前が思ってるより、もっと単純で、やさしい」
「やさしいって、何がや?」
「世界とか、人とか、自分とか」
 
 
 ひらりと手を振って、「じゃあな」と桃井が踵を返す。アスファルトを踏み締めて、桃井が去っていく。その背を眺めながら、俺は頭の中で繰り返す。
 
 
 もっと単純で優しい。
 人とか、世界とか、自分とか。
 
 
 俺が傷付けてきたから、俺が汚いもののように思っていたから、世界も人も自分も濁ってみえていたのだろうか。だけど、本当は? 本当の、世界や人や自分の姿は? そっと想像しながら、俺は歩き出す。自分が最初に行く場所はわかってた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 一日ぶりに来た場所で、これほどまで印象が違うのかと驚きを覚えながらプレハブの修理工場を眺める。太陽に照らされた場所は、昨日の陰鬱な印象がガラリと消えて、長閑で温かい場所へと変貌している。プレハブ一階のシャッターの中では、昨夜見た男が油にまみれながら車を修理している。
 
 プレハブ小屋の周囲を囲むコンクリート壁に背を押し当てて、目当ての人物が現れるのをじっと待つ。二十分後、小さな足音が聞こえてきた。鉄階段を降りる軽やかな音、そうして短い足を動かして駆けてくる。横を擦り抜けて行く小さな影に、短く声をあげる。
 
 
「おい」
 
 
 子供が肩越しに振り返る。そうして、俺を見た瞬間、全身を恐怖に強張らせた。見開かれた目に、見る見るうちに涙が溜まっていく。
 
 
「何で、まだ何も言っとらんのに泣くんや」
 
 
 呆れ半分焦り半分で言うと、子供が瞼を手の甲で擦りながらぐずぐずと鼻を啜った。
 
 
「だ、だって、…ぼくのこと、怒りにきたんでしょう…?」
「わざわざ一日置いて怒りに来たりせんわ。昨日、御前に言っとったやろう? 言わにゃあかんことがあるけど、それが思い付かんって」
「うん」
「それが思い付いたから、言いに来たんや」
 
 
 子供の瞳が俺を見上げる。その真っ直ぐな眼差しを見下ろしながら、俺はすぅっと大きく息を吸い込んだ。何でだか、同時にたくさんの想いが胸に込み上げてきて、息苦しさに目が潤んだ。何年間も胸の底にしまい込んでいた言葉を、吐き出すのが苦しい。だけど、言いたい。言わなくちゃいけない。心から、叫びたい。
 
 
「三輪車はっ、返さない! 御前も、姫子返せないから! だけど、俺が先に悪いことしたんやから、謝る!」
 
 
 まるでがなり上げるような声だと思った。驚いたような子供の目に、羞恥を感じて頬が熱くなった。胸が震える。心臓の弁が開いて、ずっと昔から言ってこなかった言葉が唇から零れる。
 
 
「ごめん、なさいっ……!」
 
 
 吐き出した瞬間、滂沱のごとく涙が溢れた。どうして涙が出るのか解らなかった。溢れて、止まらない。これは何の涙だろう。
 
 子供がぱちぱちと瞬く。そうして、その瞬く瞳からぽろりと涙が一粒零れた。一粒、二粒、三粒、それからは数えなかった。まるで飴玉のような丸い涙が頬を伝って、ぽたぽたとアスファルトの上へと染みを作っていく。子供が両手で瞼を押さえて、ひっくひっくと泣きじゃくる。
 
 
「ぼくっ、も、ごめん、ねっ…ごめんなさ、い、…」
 
 
 子供の口から零れ出す言葉は、俺のものだ。同じように俺の口から零れ出す言葉も、子供のものだ。どうして、たったこれだけの言葉が今まで言えなかったんだろう。たった六文字の言葉がずっと腹の底で凍り付いて、俺の心まで氷のように尖らせていた。それらすべてが溶けて、涙になって流れて行く。今まで胸の奥に詰まっていた、たくさんのごめんなさいが溢れ出す。
 
 
 向かい合うように立ち竦んだまま、二人、大声をあげて泣いた。嗚咽が咽喉から漏れて、あたたかい陽の下に響き渡る。溢れ出すこの感情は、この涙は、この声は、悲しみじゃない。これは産声なんだと思った。今、この瞬間、俺はようやく生まれたんだ。土の底から這い出して、陽の光を浴びて、ようやくこの世界に出てきたんだ。
 
 
 ハロー、世界!
 ハロー、人類!
 ハロー、俺の兄弟達!
 そして、ハロー、二郎!
 
 
 嗚呼、何だか泣きながら、大声で笑い出したい気分なんだ!
 
 

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Published in 凶暴三兄弟

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