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【サンプル1】三男の溜息

 
 何でこんな奴に惚れてしまったんだろう。
 
 その問いは、今までの人生の中で何万回と自分に投げ掛けたものだ。全世界の人口は六十四億人、その半分が女。選択範囲は無限大で、何もよりにもよってこんな奴を選ぶ必要はなかったはずだ。実の兄弟で、男で、こんな繊細さの欠片もない無神経な奴を。
 
 リビングのソファで、長い四肢を投げ出して眠る男を眺める。だらしなく開いた口からは、がさつさをそのまま音楽にしたようなイビキが聞こえてくる。イビキが溢れる唇の端からは涎がだらりと垂れていた。その上、上半身のタンクトップは胸のあたりまで捲り上がっている。その右胸すぐ下に小さな傷痕が見えた。それは、ミツルが数年前につけた傷痕だ。数年前、行き過ぎた兄弟喧嘩のあげく二郎の肋骨を折って、肺を貫き体内から飛び出させた痕。
 
 その無防備な姿に、こいつは兄弟に抱かれた事実を忘れてしまったのかと小一時間説教してやりたい気分になってくる。色気も可愛らしさもないその姿に、それでも欲情できた過去を持つ自分自身がいっそ気味が悪い。
 
 
「ジロー」
 
 
 声をあげて呼んでみる。聞こえたのか、二郎の眉がふにゃりと動く。その緩んだ表情に、こいつも随分と変わったものだと思う。暫く前までは、この世のすべてが敵だと言わんばかりに刺々しくどす黒いオーラを垂れ流していたのに。
 
 実際、その頃の二郎は毎日敵と戦っていた。二郎の手は他人の血に塗れ、その皮膚は常に血生臭く、拳の関節は平たく均されていた。高らかに笑いながら他人を殴り付け、その人生を無残に引き裂く二郎は、傍から見ても異常だった。その狂乱ぶりがミツルには疎ましく、その反面、酷く痛々しかった。
 
 二郎の口角から垂れた涎がソファへと零れそうになっているのが見えた。仕方なくティッシュを手にとって、のろのろと拭き取ってやる。一体どこの子守だよ、と咥内で小さく毒づく。知らず眉間に皺が寄っていた。こういう二郎の無神経と紙一重の無防備さを、おそらく一番上の兄ハジメなら容易く許容しまうのだろう。むしろ、いつまで経っても手のかかる弟だと微笑ましく思うかもしれないかもしれない。
 
 だが、ミツルは違う。二郎に対する自分の感情は複雑怪奇で、決して単純な好意ばかりが胸を占めているわけではない。時には嫌悪や憎悪の方がよっぽど強い時だってある。二郎の幼さや単純さが、ミツルは腹立たしくて堪らない。
 
 二郎が鼻をすんと鳴らして、乾いた唇を舌で舐める。その赤い肉がくにゃりと動く様を眺めながら、微かに情欲が刺激されるのを感じた。忌々しさを多量に含んだ情欲だ。
 
 一ヶ月半前に、初めて二郎とセックスした。あれから一度もその肌に触れていなかった。キスすらも掠める程度しかしていない。ミツルが触れようとすると、何かと理由をつけて二郎が逃げてしまうからだ。返却期限が今日のビデオがあっただとか、夜中の十一時に友達と会う約束があったのを思い出しただとか(そもそも二郎に友達なんかいるものか)、陳腐な嘘で拒絶される度に、血管が焼ききれそうな怒りを覚えた。それと同様に、酷く悲しかった。結局求めているのは自分ばかりなのだという卑屈さが胸を覆って、あまりにも情けなかった。
 
 人差し指を伸ばして、湿った下唇をおざなりに撫でる。それから無造作に口の中へと突っ込んだ。前歯の歯列を指の腹でゆるゆるとなぞると、二郎が獣のような唸り声を小さく上げた。閉じられていた目蓋が薄っすらと開いて、胡乱気な眼差しがミツルに向けられる。
 
 
「…あ゛ぁ、な…ぁにしと、ん…?」
 
 
 唇に指が挟まったまま、酷く聞き取りにくい寝惚け声を零す。喋った瞬間に、指先にぬめった舌が触れて、瞬間的に発火した。唇に噛み付いて、咽喉に溜まった唾液を舌先で滅茶苦茶に掻き回す。それと同時に、捲れたタンクトップに手を突っ込んで、右胸の傷痕に指先を這わせた。皮膚が微かに盛り上がった傷痕に、親指の爪を立てる。
 
 途端、半開きだった二郎の目がカッと開いた。その眼球の奥に驚愕とない交ぜになった怒りの炎が見えたと思った瞬間、息が詰まった。呼吸が止まって、下腹に重い衝撃が走る。二郎の踵がミツルの下腹に突き刺さっていた。下顎を乱暴に掴まれて、唇を無理矢理離される。その拍子に、重なっていた唇の隙間から唾液が零れて、ソファへと散った。嗚呼畜生、結局汚れた。
 
 唾液で濡れた唇を手の甲で拭いながら、二郎が起き上がる。その苛立った眼差しを見て、胸のうちで燻っていたもう一つの疑問が頭を擡げる。
 
 
――こいつは、本当に俺のことが好きなのか?
 
 
 姫子が殺された事件から、二郎は他人を殴らなくなった。いじいましいと思える程に、他人に対して今まで持っていなかった思い遣りや優しさを持とうとしているように見える。だが、未だにミツルにだけは変わらぬ殴打を返す。殴られれば、ミツルも同じように二郎を殴り飛ばす。後はお決まりの兄弟喧嘩だ。殴り蹴り、色気も素っ気もない暴言を吐き散らかす。
 
 
「寝とる奴を襲うなヴォケ」
 
 
 不快感もあらわな声に、きっとこれをやってきたのがミツルではなくハジメだったら、こいつはもっと別の声をあげるだろうと思った。甘ったるい息を漏らして、ハジメの首に両腕を絡めたかもしれない。それなのに、どうして自分だとこんな風に喧嘩じみた空気になるんだと毎回思う。
 
 告白した。セックスした。ハジメと分け合う形にはなってしまったが、確かに二郎とは兄弟ながらに恋人同士という関係になれた筈なのに。何故こんな風に、キスごときで強姦魔のような扱いをされなくてはならないのか。
 
 
「そんな格好で寝とる阿呆が悪いんやろうが」
「そんな格好?」
 
 
 二郎がちらりと自分の身体へと視線を落とす。まだ腹まで捲れたままのタンクトップを見ても、相変わらず訳がわかっていないように目を瞬かせている。
 
 
「どんな格好や? 意味わからんで御前」
 
 
 苛立ちが込み上げる。セックスまでした相手の情欲を悟れない二郎の鈍感さがたまらなく腹立たしかった。
 
 
「自覚ないんか。救いようのない阿呆やな」
「あ゛ぁ?」
「もうちょっと頭働かせろや低脳」
 
 
 いつもだったらもう少し取り繕えたはずなのに、感情剥き出しの暴言が口から溢れる。途端、二郎の周囲を取り囲む空気が一瞬で変わった。数ヶ月前と同じ、皮膚に突き刺さるような暴力衝動のオーラだ。二郎の筋肉が硬直して、今にも弾けそうなほど張り詰めているのが解る。
 
 二郎が腕を振り上げる。その腕が振り下ろされる前に、ミツルは独りごちるように呟いた。
 
 
「御前は俺を何だと思っとんや」
 
 
 自分でも思いがけないほど惨めったらしく、そのくせ恨みがましい声だった。二郎は一瞬唖然としたように口を開いて、それから振り上げていた腕を二三度戦慄かせてから、ゆっくりと下ろした。困ったような、途方に暮れた表情を浮かべている。そうして、二郎の口が何かを言いかけようとした瞬間に、玄関のチャイムが鳴る音が聞こえた。
 
 
 
 
 
 
 玄関に出たのは二郎だった。気まずい感じで左右を見渡したと思ったら、ソファから立ち上がって玄関へと走っていった。その逃げるような足取りを見て、結局のところ、と思った。結局のところ、ミツルには二郎の真意が見えないのだ。内臓に性器は挿れさせても、心の内にミツルを入れていない。身体は兄弟以上になったものの、心は兄弟より先に進めていない。それが、酷くもどかしい。これじゃ前と変わらないじゃないか。苦々しい気持ちが込み上げてくるのを必死で堪える。
 
 二郎は、中々戻ってこなかった。重い腰をあげて玄関まで様子を見に行って、ようやくその理由が解った。玄関の扉を開けたまま呆然と立ち竦む二郎の前に立っていたのは、数年ぶりに見た顔だ。でかいスーツケースを片手に、人好きのする面立ちの中年男がそこにいた。男がミツルに気付いて、ひらりと手を振る。
 
 
「みっつん、ただいまぁ」
 
 
 お気楽なその声に、眩暈を起こしそうになる。
 
 
「お前、何しとんや」
「いやん、お前なんて言わないでよぅ」
 
 
 ミツルの素っ気ない問い掛けに、男はその太めの身体をくねらせて、甘ったれるような気味の悪い声をあげた。
 
 
「パパンもしくはパピー、最高に譲歩してお父たまって呼んでぇ」
 
 
 麻原和男。麻原家が抱える幾多もの会社のオーナーで、愛人を二桁も抱える色狂い。ハジメと二郎とミツルの父親。二郎を見捨てた糞ジジイ。
 
 

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Published in 凶暴三兄弟

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