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長男のスキップ(1)

 
 丼の中をゆらゆらと泳ぐ白い麺を眺めて、まるで寄生虫みたいだな、とふと思った。研修生時代に、患者の大腸から引き摺り出したサナダ虫に似ている。
 
 うどんをずるずると啜りながら、徹夜三日目の頭なんてこんなものだとハジメは独りごちた。もっと酷い奴は、サラダに乗ったコーンを眺めて「そういえば、コーンって人間の脂肪に似てるよな」なんてほざき始めたりもする。その言葉に、新卒で入ったばかりの看護婦は口元を押さえてサラダを視界から押し退けるが、流石に年季の入った医者や看護婦は何のそのという風采で、黙々とコーンを口へと運ぶ。いちいち食い物に吐き気を覚えるほどの感慨も抱かなくなる。
 
 此処にいる人間で共通しているのは、その目の下に色濃く浮かんだ隈だ。此処で働く職員の誰も彼もが寝不足の過労働で、意識は朦朧、全身はまるで錆びだらけのロボットのように強張っている。そろそろ重大な医療ミスが起こっても可笑しくはない。
 
 それは、ハジメが秋保十字病院へと研修生として入った頃から危惧していた事だ。こんな病院いつかは破綻するだろうとは思っていたが、今の今までずるずると文句も言わずに働き続けている辺り、こういう生活が何だかんだで染み付いてしまっているのだろう。
 
 この二ヶ月、家のベッドで眠った記憶は一度もない。殆どピストン輸送のように、一週間に一度、洗濯物を家へと運ぶだけで、睡眠と風呂は病院の仮眠室と浴場ですべて済ませている。毎日の食事も殆どこの食堂で取っており、最近は物を食う事にも気だるさを感じて、素うどんばかりを食っている。うどんであれば、噛まずに飲み込めるというのがその理由だ。
 
 だが、最近は咽喉にものを通すこと自体が億劫になり始めている。半分ほどうどんを食ったところで箸を止めて、ハジメは人差し指と親指で、目頭を強めに揉み込んだ。
 
 つい数時間前まで、右腕を粉砕骨折した少年の手術をしていた。右腕を切り開いた瞬間に、粉々になった骨の欠片がピンク色の筋肉のいたるところに突き刺さっているのが見えた。それを魚の骨を取り除くように、一本一本ピンセットで引き抜いて、骨の形になるように整えて金属で固定していくのは気が遠くなる作業だった。
 
 此処のところそういう心身をすり減らすような手術ばかりが回されてくる。腕を買われているのかもしれないが、連日の長時間手術のせいで、眼球疲労が極限まで高まっていた。最近では、慢性的に眼球の奥が痺れるように痛んで、瞬間的にブラックアウトすることさえある。いい加減そろそろ休まなくてはいけないと思う。
 
 数ヶ月前に取った有給がハジメの最後の休みの記憶だ。次男と三男と一緒に、犬殺しの犯人探しをしたことを思い出す。そういえば、最近は兄弟の顔すら見ていない。次男の肌に触れたのも、遠い記憶になりかけている。
 
 脳髄の奥から、その記憶を引きずり出そうとした途端、前の席に誰かが勢いよく座るのが見えた。ぴかっぴかに光るスキンヘッドに、二十代にして総入れ歯な男がにやっとハジメに笑いかける。
 
 
「ハジメさん、まぁた素うどんっすか?」
 
 
 ハジメの前に置かれた丼を覗き込んで、男が渋い声をあげる。秋保十字病院に看護士として勤める磯川は、弟達からアンパンマンと呼ばれて可愛がられている男だ。元々はハジメを目の敵にしていた不良一味の一員だったが、一度徹底的に叩きのめした後、何故だか金魚の糞のように付き纏うようになった。まさか職場にまで着いてくるとは思ってもいなかったが。
 
 磯川が厚切りな生姜焼きへと齧り付くのを眺めながら、ハジメは思わず零れそうになる溜息を呑み込んだ。
 
 
「御前は、ようもまあ毎日そんなしつこいもん食えるな」
「だって、この生姜焼きすっげうめぇんっすよ。ハジメさんも、うどんばっか食ってないで、たまには肉食いましょうよ肉」
 
 
 たれを纏っててらてらと光る肉の脂を見ているだけで、胸焼けがしてくる。これじゃ医者どころか完全に病人だ、と思う。どんな状況でも、食欲だけは貪欲でい続ける磯川の方がよっぽど健康だ。
 
 
「ハジメさん、最近ちゃんと寝てますかぁ? 顔色すっげ悪いっすよ」
 
 
 不安そうに磯川がハジメの顔色を窺う。
 
 
「三時間は寝とる」
 
 
 嘘を付いた。気遣わせたくないという事ではなく、心配されるのが鬱陶しいという思いの方が強かった。必要以上に気遣われるのは、ただただ不快だ。
 
 
「そんなん嘘って丸わかりですよぉ。ずっと働きづめって、俺知ってんすからね」
 
 
 三徹の脳味噌に、キンキンと磯川の声が響く。目頭を押さえたまま、磯川の存在を遮断するようにハジメは眼を閉じた。目蓋の裏で、ぐるぐると薄汚れたマーブル模様が踊っている。その中に、黄が強い肌がちらちらと浮かび上がった。二郎、二郎に会いたい。抱きたい。うどんでも肉でもなく、あの身体を喰いたい。生々しい欲求が込み上げてくる。それはもう欲望というよりも切願に近かった。
 
 暫く磯川は黙り込んでいたが、不意に性急な仕草でハジメの掌へと何かを押し込んだ。目蓋を開いて、掌の中のものを見下ろす。透明ピンクの正方形パッケージには、見覚えがある。幸せな家族計画というやつだ。
 
 何のつもりだという思いを込めて、磯川を睨み付ける。磯川は、ふふんと鼻を鳴らすと、得意げな仕草でハジメの肩をぽんと跳ねるように叩いた。
 
 
「疲労回復には、性欲発散がイチバンっす。一発ヤれば疲れもバチーッと取れるっすよ」
 
 
 論理の欠片もない言葉に、微かな眩暈すら覚える。コメカミの引き攣れを指先でほぐしながら、ハジメは人差し指と中指に挟んだパッケージを磯川の額へと向けて投げた。ぺちっと額に当たったそれに、磯川がイテェッとわざとらしい声をあげる。
 
 
「何するんっすか、ハジメさぁん」
「御前の膿んだ脳味噌の相手をさすな。余計に疲れるわ」
「そんなこと言わねぇで、すげぇ抜群のナース用意しますんで、騙されたと思って、まぁかるーく一発」
 
 
 人差し指をピンと立てながら、磯川が媚びるような笑顔を向けてくる。ここは一体何処の風俗店だと、いい加減ツッコミの一つでも入れたくなってくる。再度掌へと押し込まれるパッケージを突っ返すのも面倒臭くなって、ハジメはそれを惰性のように白衣のポケットへと滑らせた。磯川がにんまりと唇を緩める。
 
 
「誰がいいっすかねぇ。内科のアイドル亜理紗ちゃんがいいか、それとも産婦人科の美加っちがいいか。それともそれとも、泌尿器科の女王様典子様にしちゃいますかぁ? 典子様すっげぇんっすよ。尿道責めとか初っすよ、初・体・験」
 
 
 立てた人差し指をチッチッチッと左右に振ってから、磯川はにやぁと頬を崩した。快楽を脳味噌から探り当てるような卑しく溶けた表情だ。
 
 
「でも、ハジメさんは半端なくモテモテだから誰でもイけっと思いますよぉ。誰でも言ってください、俺交渉して来ますから」
 
 
 一人だけ勝手に盛り上がっていく磯川を尻目に、ハジメの脳味噌は冷めていった。
 
 十四歳の頃から、二郎以外の人間を欲しがったことなんか一度もない。おざなりな気持ちで女を抱いたことがあっても、心が満たされたことはなかった。だから、数ヶ月前に初めて二郎を抱いた時は、心からの安らぎを覚えた。母親の胎内に戻ったような安堵と、胸の内側があたたかいもので満たされる感覚。それを、この数ヶ月で既に忘れかけている。あの柔らかな肌の感触や、体内に押し入った瞬間の絡み付いてくる肉やその熱さ。代わりのように女を抱いたところで虚しくなるだけだ。欲しいのは、たった一人だけだ。
 
 溜息を鈍く吐き出して、もうぬるくなってしまったうどんの丼を見下ろす。ぶよぶよに膨張した麺を眺めてから、ハジメは呟いた。
 
 
「寝る」
「へぇ、誰と一緒にっすか?」
「阿呆が、一人でに決まっとるやろうが。今日は十八時まで手術ないやろ。それまで仮眠室で寝るけぇ、誰も寄越すな」
 
 
 磯川があんぐりと口を開く。その?マークが盛大に浮かび上がった顔を二度見る前に、ハジメは立ち上がった。トレーを持って、返却口へと歩く。
 
 
「いやっ、ちょっ、ハジメさぁん! いいんっすかぁ!? いい子ばっかなんっすよぉ!」
 
 
 未練がましい声で磯川が叫ぶ。その声に返事を返さず、ハジメはもう一度目蓋の裏に弟の姿を思い浮かべた。
 
 

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Published in 凶暴三兄弟

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