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長男のスキップ(3)

 
 甘ったるいケチャップの匂いがする。
 
 薄く目蓋を開くと、ぼやけた視界の先に、キューピー三分クッキングを口ずさむ男の姿があった。仮眠室の端に据え置かれた型番落ちのレンジの前で、リズムに合わせて小刻みに身体を左右に揺さぶっている。
 
 一瞬、まだ夢を見ているのかと思った。二郎、と咽喉の奥で小さく漏らすと、鼻歌を止めないまま男が振り向いた。ハジメと目を合わすと、にやーっと大きめの口を引き裂く。十八にもなって、丸っきりガキ大将のような笑い方だ。
 
 
「目ぇ覚めたんか、兄貴」
 
 
 幻覚が口をきく。枕元に置いた眼鏡を手探りに取って、上半身を起こして掛ける。やっぱり爪先から頭のてっぺんまで、その幻覚は二郎でしかなかった。
 
 
「幻覚見るなんざ相当やな」
 
 
 苦々しい気持ちで独りごちると、二郎の幻覚は「はぁ?」と怪訝そうに顔を顰めた。
 
 
「兄貴大丈夫か? むしろ生身を幻覚やと間違える方がそーとー脳味噌がキとると思うで」
「本物の二郎なら、何でここにおるかが解らん」
 
 
 投げ遣りにそう言うと、二郎はずかずかと大股で歩いてきて、ハジメの眼前に携帯の画面を突き付けた。携帯の画面には、差出人アンパンマンと書かれたメールが開かれている。そうして、本文には、素うどんという単語が羅列されていた。
 
 
「アンパンから、兄貴がここ三日素うどんしか食っとらんてメールが来たけぇ、救いのヒーロージロえもんが飯を持って来てやったんやろうが。それを幻覚って、脳味噌に栄養が行き届いとらん結果がコレや」
 
 
 ハジメの頭を人差し指でくるくると指しながら、二郎が渋い顔で言い放つ。
 
 
「磯川からメール?」
「そうや。ハジメさんが素うどんしか食っとらんし性欲も減退してるみたいなんで助けてくださぁい、ってメールが来たんや。アンパンにナース紹介したる言われたのに、要らん言うたんやって?」
 
 
 二郎が微か皮肉げな口調で言う。口調は何処か汚れた男のものだったが、その言葉の端々から覗き見えたのは紛れもない二郎の嫉妬だ。拗ねたように唇を尖らせた弟の姿が妙に愛らしくて、不意に胸をぎゅっと掴まれるのを感じた。
 
 
「ほんなら、要る言うとったら良かったんか?」
「そんなん言うとらん」
「じゃあ、どう言うたら良かったんや」
 
 
 意地の悪い質問をしている自覚はある。微か頬が笑みに緩むのを感じながら、まごつく弟の姿を眺める。二郎は二三度視線を宙へと巡らせて、それから悔しげに下唇を薄く噛んだ。寄せられた眉と微かに潤んだ目にそそられて、無意識に咽喉が上下する。それから、二郎はほんの小さな声で呟いた。
 
 
「兄貴は、俺の―――」
 
 
 そこまで言ったところで、レンジがヂンッと濁った音を立てるのが聞こえた。二郎が言葉を切って、慌てた様子でレンジへと走っていく。ハジメは、思わず舌打ちを零した。二郎の本音を聞けるチャンスだったのに台無しだ。
 
 レンジから密封式タッパーが取り出される。あちあちと小さく言いながら、二郎がハジメの元へと持ってくる。近付くと、よりケチャップの匂いが強くなった。蓋をあけて見えたのは、卵に包まれたオムライスだ。二郎は、プラスチックの箱から小学生が使うような小さなスプーンを取り出すと、タッパーと一緒にハジメへと差し出した。
 
 
「兄貴が栄養失調で死に掛けとる言うたら、瞳さんが作ってくれたんや。こないだお歳暮でもろうた惠屋の鴨肉が入っとるんやで。鴨肉オムライスとか世界初やろお」
 
 
 そう得意げに言い放つ姿は、運動会で一等賞になった小学生のように無邪気だ。こいつは何歳になってもという呆れが半分、このまま変わらないで欲しいという安堵にも似た思いがもう半分あった。差し出したタッパーを受け取らずにいるハジメを見て、二郎は緩く首を傾げた。
 
 
「はよ食えや。冷めるやろうが」
「腕動かすのもしんどいわ。御前が食わせろ」
 
 
 命令口調で言い放つと、二郎は一瞬ぽかんと口を開いた。それから、目元をカッと赤く染めた。唇を二三度戦慄かせてから、少しだけ俯く。
 
 
「ガキやないやけぇ…ええ歳した兄弟があーんとか引くやろ…」
 
 
 もごもごと聞き取りにくい声で呟かれる言葉に、ハジメは口元を綻ばせた。二郎は、少なくとも拒絶はしていない。なら、それは許諾と同じことだ。
 
 
「引くって誰が引くんや」
「どっかの…誰か…」
「ここに俺と御前以外の奴がおるか?」
「入ってくるかもしれんやん…」
 
 
 羞恥にまみれた二郎の声音は、哀れなぐらい弱々しかった。耳まで赤くなりつつある顔を眺めながら、ハジメは仮眠室の扉へと顎をしゃくった。
 
 
「気になるんなら鍵閉めとけ。そしたら他の誰も入ってこれんやろ?」
 
 
 わざとらしいぐらい甘ったるく囁いてやる。途端、普段は強気な弟の顔がくしゃりと泣き出しそうに歪んだ。手ずから飯を食わせるぐらいで、処女以上の恥じらいだった。もう一度催促するように扉を示すと、二郎はのろのろと鈍い動きで立ち上がり、躊躇いがちな手でゆっくりと鍵を閉めた。その姿に、口元が勝手に笑みを滲ませる。
 
 二郎が戻って来たところで口を開く。
 
 
「食わせろ二郎」
 
 
 二郎が困ったように一度眉を寄せて、それから諦めたようにスプーンで掬ったオムライスを口元へと差し出してくる。
 
 
「兄貴、ほんまはスゲーしょうがない奴やろ…」
 
 
 溜息混じりに言われる言葉に、返事を返さないままオムライスを噛み締める。数日間味付けの薄いものばかりを食べていた舌に、ガツンとケチャップの味がきた。久々に脳味噌が美味いという言葉を思い出す。
 
 自分がしょうがない奴だなんてことは昔から解っている。十四歳の頃から、異常なまでに二郎に固執しているのだ。優しくするのも、甘えるのも、この弟にしかしたくない。庇護欲と罪悪感が入り混じった結果、奇妙に歪んだ愛情へと変質してしまったようにも思える。
 
 二郎が眉尻を下げたまま、オムライスをゆっくりと運ぶ。だが、二郎の口元は緩い笑みに綻んでいる。その眼差しに、胃袋以上に心が満たされる。ここ数ヶ月擦り切れ、尖っていた魂が柔らかく丸まっていくような感覚だった。
 
 そうして、オムライスが半分ほど消えたところで、二郎が思い出したように呟く。
 
 
「兄貴、瞳さんに後でオムライスありがとーって言うとけよ」
 
 
 その言葉に、ハジメは眉尻をピクリと動かした。唇の端で、あぁ、と大してやる気もない相槌を返す。すると、二郎が少し詰め寄るようにハジメの顔を覗き込んできた。
 
 
「兄貴もいい加減に瞳さんと口きいたれや。瞳さんやって意外と気にしとるんやで」
「そうやな」
「ほんまにそう思っとるんかいな」
 
 
 ハジメの適当な返事に、二郎が不貞腐れたように顔を歪める。その非難の眼差しに、目蓋を伏せて、手首の付け根でおざなりにコメカミを揉んだ。
 
 
 麻原家の家政婦をしている瞳という女を、二郎もミツルも気に入っているようだった。物事をあっけらかんと受け容れたり、辛い出来事をポジティブに考える様は、なかなか気性が良い女だとは思う。実際、単なる女ならハジメもそれ相応の好意を持っただろう。
 
 だが、ハジメは瞳が憎い。嫌いという言葉だけでは収まらない。憎らしくて憎らしくて堪らないのだ。正直、二郎とミツルが好いていなければ、一息に縊り殺してやりたいぐらいだ。泣き喚く女の骨を砕いて、爪先からヤスリで肉を削いでやりたい。凶暴な衝動を抑えているだけでも精一杯なのに、口をきくことなど不可能に近かった。目を合わせるだけで、その頬を殴り飛ばしてやりたくなる。
 
 
「何で兄貴、そんなに瞳さんのこと嫌うんや」
「あの人のこと嫌いやないんやけど、許せんのんや」
「許せんって何がや」
 
 
 しょぼくれた二郎の声音に、答えを返すことは出来なかった。二郎に、その理由を言うことは出来ない。二郎は、何も知らない。
 
 あの女は、御前が埋められていた時、親父と一緒に海外旅行に行った。御前の身代金一億円が要求されていた時、あの女は親父に一億円のマンションを買って貰った。天秤にかけられて、御前の命は、あの女の娯楽にいとも簡単に負けたのだ。
 
 勿論、瞳は二郎が誘拐されているなんて知らなかった。ただ無邪気に、豪華絢爛な愛人生活を楽しんでいただけだ。瞳に悪気はなかったのだと知っている。きっと二郎が誘拐されているのを知っていれば、親父に子供の身代金を払ってと言ってくれていただろう。だが、瞳は無知だった。その無知は罪だ。二郎が町を許せた今も、ハジメは瞳を許そうとは思えない。
 
 ハジメもまた、十四歳の頃から一歩も進めずにいる。
 
 

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Published in 凶暴三兄弟

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