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長男のスキップ(4)

 
 オムライスを食べ切った頃には、腹も十分に膨れていた。この数ヶ月間の貧困な食事に胃袋が縮小していたのか、胃壁がぎゅうぎゅうと伸ばされているような微かな苦しささえある。
 
 食後はコーヒーだろうと言って、わざわざ自宅から持ってきたハジメのマグカップになみなみと黒い液体を注がれた。ハジメがコーヒーを飲んでいる間、二郎は仮眠室に取り付けられた小さな流し台でタッパーを洗っている。
 
 妙な話、粗暴で凶悪な性格のくせに、二郎は兄弟の中で一番家事が得意だ。たぶん家政婦をやっている瞳よりも、ずっとそのスキルは高いだろう。特に皿洗いが好きなのか、瞳が洗浄器を購入した時には、不貞腐れた二郎が次の日に粉々に壊してしまっていた。ボロボロになった洗浄器を庭の片隅に放り捨てながら、二郎が「人間様の仕事奪おうだなんて百年早いんやボケ」と悪態をついているのを見た覚えがある。ハジメにしてみれば、そこまでして皿洗いに拘る理由がさっぱり理解が出来ないが。
 
 今も嬉しそうにタッパーの四隅をスポンジで念入りに擦っている。鼻歌を漏らしているのか、『ひとりでできるもん』のメロディーが小さく聞こえてきた。洗剤の泡に覆われた二郎の手を、遠くからぼんやりと眺める。その指先を水滴がゆるゆると伝っていく様を見ていると、不意に腹の底から込み上げてくるものを感じた。二郎には女性的な部分は、何処にもない。体格も顔立ちも、男らしい部類に入るだろう。それなのに、どうしてだか無性にそそられる時がある。女以上にメスにしてやりたいと思う時がある。それが血の繋がった弟に対する感情ではないとは解ってはいるが、どうしようもない。モラルも罪悪も振り捨てて、自分の中で勝手にスイッチが切り替わっていくのだから。
 
 
「二郎」
 
 
 名前を呼べば、二郎が小首を傾げながらハジメへと視線を向ける。手招きをすれば、何も気付いていない弟は泡だらけの両手を流して素直にハジメへと寄って来た。
 
 
「何や兄貴」
「デザート食うとらん」
「病院の売店でプリンでも買って食えばええやろうが。兄貴が餓死しそうな時に、デザートまで用意して来たるほど俺は優しくないで」
「プリンは要らん」
「なら、何が食いたいんや」
 
 
 我侭とも取れるハジメの発言に、二郎が露骨に眉を顰める。その眉間に刻まれた皺を見て、はちきれるような情欲を覚えた。唇の隙間からぶつぶつと小声を漏らす。すると、二郎は「何やって?」と顔を寄せて来た。その頭を片腕で引き寄せて、思いっきり唇に噛み付いた。咄嗟のことに付いていけないのか、目を白黒させた二郎の表情が至近距離で見える。
 
 
「ん、グぅ!?」
 
 
 咥内に舌に突っ込まれて、ようやく状況を把握したのか、二郎の両腕がバタバタと暴れ始める。ハジメの肩を押し返そうとするその両手に、舌打ちを漏らしそうになる。一丁前に反抗しやがって、と自己中心的な感情が込み上げてきて、苛立ちのまま二郎の首に掛けていた片腕を自分側へと向かって一気に引き寄せた。短い叫びをあげて、二郎が顔面からベッドへと倒れ込む。身を捩って逃げようとする身体を逃さないように、その背にぐっと膝頭を押し当てる。圧迫されるのが苦しいのか、二郎が鈍く呻き声をあげた。
 
 
「あッ、にき…! 苦しッ…!」
 
 
 微かに鼻がかった声に、皮膚がぞくりと粟立つ。しかし、次の瞬間、目蓋の裏がどす黒い赤に染まった。二郎のうなじに、真っ赤な歯型が刻まれている。随分深く噛み付かれたのか、まだ薄く血を滲ませているその痕を見て、ハジメは身体から体温がすぅっと抜けていくのを感じた。
 
 
 ミツル。
 
 
 自分を睨み付ける三男の眼差しを思い出す。独占欲を剥き出しにした、縄張りに入ってきた敵を威嚇するような表情。ハジメと同じように近親の背徳を背負ってまで、実の兄を愛し、異常なまでに固執する弟。
 
 紛れもなく、この痕はミツルからの挑発だった。マーキングのつもりか、それともハジメが家にいない間に、自分が二郎の身体を貪ったという主張のつもりか。どちらにしても、二郎の身体に自分以外の痕が残っているのは許し難かった。二郎をミツルと共有すると理性では解っていても、本能が憎悪を覚える。これでミツルが弟でなかったら、本気で殴り殺してやるところだ。
 
 うなじに残った噛み痕をなぞるように、人差し指を滑らす。隠微な感触に、二郎の身体がビクリと跳ねた。
 
 
「…兄貴?」
 
 
 顔を捩ってこちらを見ようとする二郎の顔面を、咄嗟にシーツへと押し付ける。突然呼吸を塞がれた事に驚いたのか、膝の下で二郎の身体が藻掻く。その背に更に膝頭を食い込ませながら、ハジメは二郎の耳元に囁いた。
 
 
「随分綺麗に痕残されとるやないか。ミツルに可愛がってもらったんか?」
 
 
 粘着いた声が咽喉から溢れる。二郎の身体がギクリと強張って、その皮膚が微かに戦慄くのを感じる。頭から手を放してやると、二郎が噎せながらひゅうひゅうと掠れた呼吸音を漏らした。
 
 
「な、にっ、言っとるんや、兄貴」
 
 
 白を切ろうとする二郎を、冷めた眼差しで見遣る。再び後頭部へと手を伸ばすと、二郎が怯えたように身を竦ませた。髪の毛を鷲掴んで、きつく引っ張り上げる。咽喉が反り返った状態になるのが苦しいのか、二郎がグぅと鈍い声をあげた。
 
 
「何回や」
「何、が」
「俺がおらん間に、ミツルと何回ヤッたんや」
 
 
 嫉妬に塗れた醜い台詞が口をついて出る。肩越しに振り向いた二郎がぽかんと口を開いて、それから噴火するような勢いで顔面を赤く染めた。その羞恥の色に、とめどもなく憤怒が込み上げてくる。うなじの歯型の上から噛み付く。歯が肉に食い込むほど強く噛んでやると、二郎がヒッと掠れた悲鳴をあげた。
 
 
「イ゛ッ、たァ゛…兄貴、痛ぃ…!」
 
 
 完全な涙声だった。それでも許せず、血の味がするまで噛み締める。歯の下で張り詰めた皮膚がビリリと破けて、舌先に錆びた味が広がった。暫くすると、ぐずぐずと鼻を啜る音が聞こえてきた。シーツに顔を押し付けたまま、二郎が子供のようにしゃくり上げていた。シーツを鷲掴んでいる指先が小刻みに震えている。それを見て、理性が戻って来た。同時に微かな焦りを覚える。二郎を、一方的な暴力で泣かせたのは久しぶりだった。
 
 
「…二郎、悪い」
 
 
 頭を緩く撫でると、二郎が涙に濡れた瞳で恐る恐るハジメを見遣った。まるで肉食獣を前にした草食動物のように、弱々しい眼差しをしている。
 
 
「……ミ、ツルとは、一回しか、しとらん…」
 
 
 震えた声で漏らされる言葉に、ハジメは驚いた。ハジメが家にいなかった二ヶ月間、ミツルは一度しか二郎を抱かなかったのか。ミツルの独占欲の強さなら、毎日だって二郎を自分のものにするだろうと思っていたのに。
 
 
「ミツルが…俺は兄貴のもんでもある、から、自分だけ好き勝手できん、って…」
 
 
 言い難そうに二郎がもごもごと呟く。それを聞いて、ハジメは心臓に温かいものが触れるのを感じた。ミツルは、ハジメに気を使っていたのだ。二郎を独りじめにするチャンスを逃してまで、ハジメへの義理を通したのか。それを思うと、一番下の弟への愛を感じずにはいられなかった。兄弟での三角関係というのはややこしい。憎み切れないし、相手を出し抜こうとしても良心が咎める。だが、兄弟だからこそ、この危うい均衡を保っていけるのも事実だった。
 
 うつ伏せに押し付けていた二郎を、仰向けにさせる。顔を覗き込むと、二郎は怯えたように視線を伏せた。
 
 
「ミツルと一回したんか?」
「…した。でも、兄貴がミツルとすんな言うなら、もうやらん」
「ミツルが俺ともすんな言うたら、どうするんや?」
「兄貴ともやらん」
 
 
 単純明快な二郎の答えに、少しだけ笑いが零れる。ハジメの笑顔を見て安心したのか、二郎が強張っていた身体からゆっくりと力を抜く。その素直な反応が無性に可愛くて、額や目蓋に唇をやわく落とした。
 
 
「悪かったな、二郎。もう怒っとらん」
「…せん方がええんか?」
「ほんまは誰にも触らせとうないがミツルならしゃあない。やけど、御前が俺のもんでもあるって事だけは忘れたらあかんで」
 
 
 言っている意味がよく解らなかったのか、二郎は一瞬腑に落ちない顔をして、それからこくんと子供のような仕草で頷いた。幼稚な姿に欲を煽られるのと同時に、右も左も判らない子供をかどわかしているような罪悪感が胸に湧き上がる。二郎は、ハジメを信じ切っている。生まれたての雛のように、ハジメが崖へと向かって歩いていけば、二郎もその後ろを落ちるまで着いてくるだろう。その盲目的な信頼を愛しいと思いこそすれ、重たいとは思ったことはない。だが、時々思う。自分は二郎の信頼を逆手にとって、好き勝手に身体を奪っているだけなのではないかと。
 
 二郎の瞳をじっと覗き込む。
 
 
「俺に抱かれるのは嫌やないか?」
 
 
 情けなく小賢しい問い掛けに、自分自身に嫌悪を覚えた。例え嫌と言われたところでどうする。二郎を今更手放すつもりもないくせに。二郎は不思議そうにハジメを見上げて、それから首を左右に振った。
 
 
「イヤやない。俺、兄貴にされるのイヤやないで」
 
 
 繰り返される言葉がまるでハジメに対する慰めのように聞こえた。口元に薄く苦笑いが滲むのを感じながら、ほうか、と短く返す。
 
 上着の裾に緩く手を滑り込ませると、二郎の肌がざわりと微かに隆起した。
 
 
「兄貴、ここでするんか…?」
「あかんか?」
「…病院やで」
「それなら、ナースとヤッた方がええか?」
 
 
 意地悪く問い掛けると、二郎の顔が悔しそうに歪んだ。恨みがましそうにハジメをねめつけると、乱暴にハジメの首を掻き抱いてきた。
 
 
「兄貴は俺のもんやろうが。他の奴とヤッたら、チンコ噛み千切ってミンチにしたる」
 
 
 憎憎しげに発せられた脅しに、咄嗟に顔が緩みそうになる。仕返しとばかりに肩口に噛み付いてくる弟の背骨に指先を這わせながら、ハジメは深く息を吸い込んだ。
 
 

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Published in 凶暴三兄弟

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