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龍は愚かな恋をする 8

 
 その後、女の子は何度も頭を下げた後、原付に乗って去っていった。鳴久先輩とボクは立ち尽くしたまま、微かに白んできた空をぼんやりと見上げている。
 
 
「…眠い、ですね…」
「眠いねー」
「帰って寝ますか…」
 
 
 ボクの提案に、鳴久先輩は縦とも横ともつかない方向に首を揺らした。
 
 
「うん…ううん…」
 
 
 その曖昧な返事に、どうしてだか首筋がぞわりと逆立つような感覚が走った。鳴久先輩をまじまじと眺める。鳴久先輩は、その手に持った鱗をじっと見つめている。
 
 
「先輩、何を考えてるんですか」
「別に」
「馬鹿なこと考えてるんじゃないですか?」
「馬鹿なことって?」
「自殺みたいなこと」
 
 
 漠然としたボクの言葉に、鳴久先輩が微かに頭を揺らして笑う。だけど、その悟ったような笑顔がボクは怖かった。もしかして、鳴久先輩は心を決めてしまったんじゃないだろうか。
 
 
「恋は、馬鹿なものだよ」
 
 
 ヒュッと咽喉が鳴る音が聞こえた。それが自分が出した音だと気付くのが遅れた。まじまじと鳴久先輩を見つめたまま、ボクは唇を震わせた。
 
 
「先輩、先輩、ボクは先輩の決断に口は出せません。でも、聞いて下さい。お願いですから、これだけは聞いて下さい」
 
 
 鳴久先輩が緩く首を傾げる。その金色の瞳を見つめながら、ボクは殆ど泣き出しそうな声で言った。
 
 
「ボクは、先輩に死んで欲しくない」
 
 
 鳴久先輩が目を見張る。その後、悲しいくらい優しい笑みを浮かべた。龍なのに、そんな綺麗な表情をするなんて卑怯だ。
 
 
「ありがとう、シロくん」
 
 
 たった一言言い残して、鳴久先輩が飛び立つ。朝日に鱗を煌めかせながら、長い身体がしなりながら空へと吸い込まれていった。
 
 
***
 
 
 鳴久先輩が飛び立った後、ボクは全速力で路地を駆けた。大通りへと出て、通りかかったタクシーを当て屋と勘違いされそうな勢いで止める。タクシーに乗り込むと、形振り構わず海沿いの病院の名前を叫んだ。
 
 タクシーの椅子に前屈みに座ったまま、体温のない指先を執拗に擦り合わせる。骨の芯から恐怖が込み上げてきて、全身がみっともなく震え出しそうだった。自分が情けなくて情けなくて、息が止まりそうだ。
 
 海沿いの道を走るタクシーの窓から外を見遣る。水平線の向こうから、白々とした朝日が浮かんできていた。カモメが海上を優雅に飛び回っている。だが、そこに鳴久先輩の姿はない。
 
 
 病院に着くなり、転がるようにタクシーから降りた。「お客さんお代は!」と叫ぶ運転手へと財布を放り投げて、病院へと駆け込む。「面会時間はまだですよ」と声を掛けてくる看護婦には「大至急の用なんですっ」と声を返して、次の言葉を待たずにエレベーターへと滑り込んだ。
 
 心臓が跳ねる音が聞こえる。荒い呼吸に背筋が波打つ。自分で自分の身体を制御出来ないのが苦しい。もしかしたらボクも『馬鹿』になっているのかもしれない、と思った。
 
 病室の前に辿り着いた時、中から啜り泣きの声が聞こえた。途端、扉を開けかけていた手がピタリと動かなくなる。啜り泣きの声が「せんせい、せんせぃ」と何度も繰り返していた。
 
 数センチほど開いた扉の中から、鳴久先輩の声が聞こえる。
 
 
「せんせい、おねがい、お願いだよ、龍玉をつかって…」
 
 
 哀れな懇願の声に、柔らかな声がそっと被さる。
 
 
「ごめんなさい、それは使えないんです」
「なんでだよ、なんで、…このままじゃ先生死んじゃうんだよ」
「そうですね、死んでしまいます」
「お願いだよ、せんせい、好きになってくれなんて言わないよ、おれのこと何とも思わなくていいんだ、おれは、ただ先生に生きてほしいんだよ。死んでほしくない…」
「解ってますよ」
「わかってないよ! 先生はっ、何にもわかってないっ!」
 
 
 唐突に鳴久先輩の声が弾ける。病室の中からガラスが割れる鋭い音が聞こえた。それは静寂の中、鼓膜が痺れるほど大きく響いた。だが、すぐにそれも消えて、またしゃくり上げる声が聞こえてくる。
 
 
「…せんせぃ、好きだよ。大好き。ずっとずっと何年も何十年も好きだったんだよ…」
 
 
 一途な告白に、不意に息が出来なくなる。片手で胸を押さえて、ボクは扉の前に蹲った。扉の隙間から病室の中が垣間見える。
 
 鳴久先輩は実徳先生の膝に額を押し当てるようにして泣いていた。その瞳から白く輝く宝石がぽろぽろと零れて、シーツの上を転がっている。シーツの上には、金色に輝く掌大の宝珠も転がっていた。龍玉だ。
 
 実徳先生は目を伏せたまま、鳴久先輩の額を皺だらけの掌でそっと撫でている。
 
 
「…きみの気持ちが嬉しい」
「それなら…」
「でも、それは受け取れない。どうしても、絶対に受け取れないんだ」
 
 
 頑なな声だった。鳴久先輩が顔を上げて、打ちひしがれた表情を浮かべる。
 
 
「せんせい、なんで」
「すまない。私は、きみがとても可愛いと思うよ」
「…それは、生徒として…? それとも物珍しい龍に懐かれたから…」
 
 
 鳴久先輩の問い掛けに、実徳先生は何も答えなかった。ただ寂しそうに微笑んで、鳴久先輩を見つめた。
 
 鳴久先輩の瞳から、また真珠が溢れ出す。鳴久先輩はわぁっと泣き声を上げると、そのまま開け放たれた窓から飛び去っていった。零れた真珠が床に落ちて、カランと音を立てる。
 
 暫く動けなかった。惨めったらしく蹲ったまま、ボクは必死で息を殺した。頭の奥がトンカチで殴られたかのようにズキズキと痛んでいた。
 
 
「士郎」
 
 
 声が聞こえた。実徳先生がボクを呼んでいる。
 
 ゆっくりと立ち上がって、扉を開く。ベッドの傍まで歩いていくと、実徳先生は何とも言えない表情でボクを見た。面映ゆそうな、寂しげにも見える表情だ。
 
 ベッドの傍に花瓶の破片が散らばっている。さっき聞こえたガラスが割れる音はこれだったのだろう。萎れかけた福寿草が床の上にくたりと横たわっていた。
 
 
「実徳先生」
「今は『じいちゃん』で良いですよ」
「じいちゃん」
 
 
 鸚鵡返しに呟くと、祖父は少しだけ笑った。ベッドの上を転がる真珠を両手で掬い上げて、実徳先生が独りごちるように言う。
 
 
「こんなにたくさんの想いを貰ったのは初めてです」
「じいちゃんは、鳴久先輩のことが好きなの?」
 
 
 実徳先生はまた目蓋を伏せた。それは遠い記憶に想いを馳せているようにも見えた。
 
 
「悲しいですね」
「悲しい?」
「応えられないのが悲しい。応えたいのに、応えられないのが悲しい」
 
 
 静かに目を開くと、実徳先生はそっと微笑んだ。何かを諦めたような、すべてを受け入れたような、そんな笑顔だった。
 
 
「じいちゃんは養子をもらっただけで結婚してる訳でもない。別に誰に義理立てする必要もないよ」
「そういう事ではないんです。私はね、とても卑怯なんですよ」
「卑怯って」
「応えれば、龍宮寺くんは私のことを『良い思い出』で終わらせてしまう。だけど、応えなければ、私の存在は彼にとって『永遠の片想い』になるんです。どちらの方が彼の心をより多く占めれるのか、考えなくても解る」
 
 
 一瞬、咽喉がひくりと引き攣った。顔面を強張らせたボクを見て、実徳先生が殊更優しげに笑う。
 
 
「彼は、後何百年も何千年も生き続けるんです。私のことを忘れられずに。胸に刺さった棘のように、私を想いながら」
「残酷だね」
「恋は残酷で、愚かなものですよ」
 
 
 そう呟いて、実徳先生は大きく息を吐いた。肺の空気をすべて吐き出すような、長い長い溜息だった。
 
 ボクは、床の上から萎れた福寿草を拾い上げた。それを実徳先生の膝へと置く。濡れた指先を感じながら、静かに病室を出て行く。
 
 出て行く直前、囁くような実徳先生の声が聞こえた。
 
 
「五十年以上も、ずっとずっと待っていたんです…」
 
 

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Published in 鳴久先輩の恋

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