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10 悪い男

 
 三十分経っても橘は戻って来ず、喜一は仕方なく近くの喫茶店に入った。コーヒーを啜りながら、何度も時計に視線を走らせる。長針がみるみるうちに進み、とうとう一回転しても橘は戻って来なかった。外の風景がだんだんと薄暗くなっていくのを見ていると、胸の内側にもわっと不安が広がるのを感じた。
 
 もしかして、置いて帰られたのだろうか。いや、橘はそんな人間じゃない。幾ら機嫌を損ねたとしても、相手を置き去りにして帰るような非常識な真似はしないだろう。だったら、どうして戻って来ないのか。何か事故にでも巻き込まれたのだろうか。車に轢かれたとか――
 
 そう考えた瞬間、全身から血の気が落ちた。サァッと体内が凍えて行くのを感じる。コーヒーのカップがカチカチと音を立てるのが聞こえる。それが自分の手が震えているからだと気付いた瞬間、喜一は席を立っていた。喫茶店を飛び出して、無我夢中で駆け出す。
 
 
 空には、もう月が出ていた。商店街はもう殆どの店舗が店仕舞いの準備をしているようだった、人通りも随分と少なくなっている。
 
 商店街の道を全速力で駆ける。こんなに一生懸命走ったのはいつぶりだろうか。小学校の徒競走以来かもしれない。それとも、みーちゃんとの初デートの日だろうか。初デートが待ち切れずに、待ち合わせの場所まで馬鹿みたいに走って行った。一時間も早く着いたのに、みーちゃんはそれより三十分も前に待ち合わせの場所に到着していた。汗だくの喜一と、緊張して真っ赤になったみーちゃん。あんまりなお互いの様子に、二人して大笑いした。そんな他愛もない記憶が意味もなく脳裏を過る。
 
 嗚呼、俺は幸せだった。幸せだったんだ。あの頃に戻りたい。みーちゃんのいる世界に戻りたい。だけど、二度と戻れない。それだけは、どうしてだか決定的に解っていた。でも、せめて元に戻れないなりにも、橘は無事でいて欲しい。あの優しい男がこの世界から消えるなんて嫌だ。もう二度と会えなくても、ただ生きているだけでいいから。
 
 
 商店街の真ん中辺りまで来た時だろうか。向こう側からやって来る影が見えた。見覚えのない大きな袋を抱えた橘が息を切らしてこちらへと走ってくる。橘は喜一に気付くと、ゆっくりと立ち止まった。
 
 
「あれっ、喜一さんっ」
 
 
 焦燥した喜一に反して、暢気な声をあげる。喜一は荒い息に背筋を震わせながら、無言で橘を見詰めた。
 
 
「すいません、すごくお待たせしてしまって」
 
 
 本当だよ、と悪態を付いてやりたかったが、安堵のせいか上手く言葉が出てこない。事故にあってなくて良かった。橘が無事で良かった。もう二度と会わないと決心した相手なのに、どうしてこんなにも心配してしまうのか自分で不思議だった。
 
 
「あの…どうしたんですか…? すごく疲れてませんか?」
「橘さんのッ、せいだよ…」
 
 
 本当は怒鳴りつけてやりたかった。だけど、出てきた声は酷く掠れて弱々しかった。その事に酷い羞恥を覚えた。あまりの悔しさに、顔が赤く染まっていくのが解る。
 
 
「今まで、何してたんだよ…!」
 
 
 まるで嫉妬深い女のなじりのようで、それもまた悔しい。眦を尖らせた喜一を見て、橘がたじろぐ。
 
 
「ご、ごめんなさい…あの…これを…」
 
 
 橘が恐る恐るといった様子で、腕に抱えていた袋を差し出してくる。喜一はそれをわざと乱暴に奪い取った。中を覗き込んで、驚愕する。袋の中に入っていたのは、ゲームセンターで見た犬のぬいぐるみだ。橘に似ていると思って、可愛いと言った事を覚えている。
 
 
「あの、やっぱり欲しいんじゃないかと、思って…。でも、取るのに時間がかかってしまって…。すいません…」
 
 
 しょんぼりと肩を下げた男の姿に、怒りが込み上げてくる。カーッと全身が沸騰するような激情だ。
 
 
「馬鹿野郎ッ!」
 
 
 今度こそ叫んだ。喚き散らした。まるで頑是のいかない子供のようにドンッと地団駄を踏んだ。だけど、その数秒後にはまた恥ずかしさが込み上げてきて「ばかやろう…」と弱々しく呟いて、喜一は唇を噛み締めた。
 
 橘は、喜一の怒声にビクッと身体を震わせた後、殆ど泣き出しそうな声で言った。
 
 
「ごめんなさい、欲しくなかったですよね……ごめんなさい…」
「違う、そんなんじゃない……」
 
 
 呻くように喜一は呟いた。俯いたまま、袋の中のぬいぐるみを眺める。女子供じゃあるまいし、こんなの本気で欲しいわけがない。貰ったって困るだけだ。一体何を真剣に、一時間以上も人を待たせて、この人は馬鹿じゃないか。可愛いと気まぐれに口に出しただけで、こんなぬいぐるみを一生懸命喜一にプレゼントしようとして…。
 
 
「…心、配しました」
「心配?」
「ずっと、戻ってこないから……橘さんが…事故にあったかと、思って…」
 
 
 ぽつぽつと拙く言葉を吐き出す。途端、ハッとしたように橘が息を呑んだ。
 
 
「車に轢かれたとか、悪い奴らに喧嘩売られたりとか…悪いことばっかいろいろ考えて……息が止まりそうでした…」
 
 
 弱っちい言葉に、自分自身が惨めで堪らなくなる。吐き出す息が震えて、口元を掌で覆う。緊張のせいか、指先が凍えるように冷たかった。すると、その掌を柔らかく掴まれた。橘が両手で喜一の掌を包んでいる。
 
 
「…ごめんなさい」
 
 
 真っ直ぐ目を見詰められて謝られる。その誠実さにまた胸が苦しくなる。視線に耐え切れずに俯くと、指先をきつく握り締められた。
 
 
「本当に、ごめんなさい。心配させてしまって。貴方を不安にさせて」
 
 
 指先を包む橘の両手が熱い。冷え切った指先に暖かさが戻って、それと一緒に全身の体温が上昇していく。堪らなく恥ずかしかった。良い歳した大人が一時間程度待たされたぐらいで、馬鹿みたいに取り乱して。見っともない。情けない。自分でも制御不可能なほどの恥ずかしくて、今直ぐこの男の前から消えてしまいたかった。
 
 
「も…いいです、から……」
 
 
 顔を背けて、掠れた声でそう漏らす。それでも、指先を掴む手は離れない。掴まれた自分の掌が微かに汗ばんでいくのを感じて、喜一は顔をくしゃくしゃに歪めて懇願するように言った。
 
 
「手、離してください……」
 
 
 その一言に、橘が我に返ったようにパッと手を離す。途端、喜一は橘へと背を向けて、路地裏へと逃げ込んだ。背後から「喜一さんっ」と呼ぶ橘の声が聞こえる。だが、立ち止まるつもりはなかった。せめて顔の赤さが落ち着くまでは放って欲しかった。だが、腰の入っていないよろよろとした走りに、直ぐに追い付かれる。腕を掴まれて、無理矢理引き留められる。
 
 
「あの、怒っていますか? 本当にごめんなさい」
「怒って、ないです。ないですから、放して下さい」
「嫌です。放したら、また逃げちゃうじゃないですか」
 
 
 気が弱いくせに強情なことを言う。それが何とも憎らしくて、喜一は橘をキッと睨み付けた。それなのに、橘は怯む事もなく、喜一を至近距離でじっと見詰めてくる。
 
 
「喜一さん、顔、赤い…」
 
 
 放っておいてくれればいいのに、空気も読まずに指摘してくる。それに余計に居たたまれなくなる。腕で顔を隠そうとすると、橘が強引に腕を掴んで隠せなくする。殆ど壁に縫い付けられるようにして押さえ込まれた状態に、喜一は泣き出す直前だった。
 
 
「も、いい加減に…」
「喜一さん、かわいい…」
 
 
 どこか恍惚した声音が鼓膜を撫でる。その一言に、胸がざわついた。一体、男相手に何を言っているんだ。そう笑い飛ばしてやりたかった。可愛いなんて言葉は、こんな金髪坊主の男に言う言葉では絶対にない。人前で言えば、笑い者間違いなしナンバーワンの台詞だ。
 
 それなのに、橘の言葉が嘘じゃないと解る。解ってしまうから勝手に鼓動が激しくなる。心臓が飛び出しそうなくらいドクドクと音を立てている。橘に聞こえるんじゃないかと思って、喜一は酷く狼狽した。
 
 言わなくては。もう店には来ないで下さい、と。たった一言言うだけでいい。そうすれば、こんな風に心臓を乱されることもなくなる。元通り、見知らぬ男に抱かれて嫌悪と安堵を感じる平凡な日々に戻れる。橘とさえ会わなければ。
 
 
 意を決して、顔を上げる。途端、路地の表側からトラックの走行音が聞こえた。白く鋭いライトが一瞬雷光のように路地を明るく照らし出す。その眩しさに目を細めた瞬間、唇に柔らかいものが触れた。
 
 ドサリと何かが地面に落ちる音が聞こえた。持っていたぬいぐるみの袋が地面に転がっているのが視界の端に映る。そうして、正面には、橘の顔が信じられないほど近くに映っていた。
 
 
 橘とキスをしていると気付いたのは数秒後だ。まるで幼児のように、ただ唇と唇を合わせるだけの拙いキス。乾いた男の唇に、まるで女のように胸が震える。男なのに、ホモじゃないのに、何百人もの男と肌を合わせているはずなのに、キス一つで簡単に掻き乱されて、呼吸が止まりそうになる。
 
 
 どれだけ時間が過ぎたかも解らない頃に、ようやく唇が離れた。は、と短く吐息を吐き出した男は、喜一の頭へとコツンと額を押し付けて、甘えるような声をあげた。
 
 
「また、お店行ってもいいですか…?」
 
 
  駄目だと解っているのに、撥ね除けなくてはいけないのに――気付いたら、喜一はこくんと従順な女のように頷いていた。自覚のない悪い男は、ふふっと嬉しげな笑い声を零して、喜一の耳に頬を淡く擦り付けた。
 
 

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