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11 悶絶

 
 情緒不安定、という単語がふっと脳裏を過ぎる。
 
 意味もなくそわそわする。落ち着かず、四畳しかない和室を檻に閉じこめられた動物のようにぐるぐると歩き回る。時々ハッと我に返って、その場にぺたんと座り込む。だけど、直ぐに足がむずむずして来て、立ち上がって同じことを繰り返す。
 
 お腹がすいてるからかもしれないと自分で原因を予測して、コンビニで買った弁当を胃に掻き込む。胃が重たくなって暫くは大人しくなるが、また直ぐにそわそわが再発する。
 
 ひとまず文字でも読んで落ち着こうと、何ヶ月も前の新聞紙を広げる。気がそぞろで文字が頭に入って来ず、気付いたら新聞紙を逆さまに持っていて自分で唖然とした。新聞紙をいい加減に投げ出して、再び意味のない周回に戻る。
 
 
 ぐるぐると回りながら、喜一がこうなった元凶をちらりと見遣る。新聞紙ぐらいしか置かれていない殺風景な部屋に不釣り合いな大きな犬のぬいぐるみ。橘が喜一のために取ってくれたプレゼント。部屋の中央に置かれた犬のぬいぐるみを眺めていると、途端、胸がざわざわして苦しくなった。頭がカーッと熱くなって、わぁ、ぎゃあっ、と叫びたい衝動に駆られる。
 
 込み上げる羞恥が全身の骨をぐずぐずに溶かしていく。その場にへたり込んで、犬のぬいぐるみを眺める。自分でも弱りきった眼差しをしているのが何とも情けなかった。
 
 
「何だよこれ…」
 
 
 小さく呟いて、途方に暮れる。橘と別れて、家に帰ってからずっとこの情緒不安定が止まらない。明日も仕事で、もう眠らなくてはいけないのに眠れない。落ち着け落ち着けと頭の中で繰り返して深呼吸をしても、呼吸が咽喉に詰まる。まるで思春期の中学生にでも戻ったかのようだ。制御不能な感情が心臓を掻き乱して、勝手に戦慄かせる。
 
 犬のぬいぐるみへと手を伸ばして、その前足を恐る恐る掴む。ふわふわな手触りが指先に広がって、それにすら馬鹿みたいに頬が熱くなる。
 
 男がぬいぐるみなんて貰っても困るだけだと思っていたのに。橘に対しても仕方なく貰うような素振りを見せたくせに、今の自分は尋常じゃないくらい喜んでいる。客から十万円貰った時だってこんな気持ちにはならなかったのに、こんなゲームセンターの景品ごときにたまらなく浮かれている。
 
 
「浮かれ調子…」
 
 
 自分の状態を分析したくて、そうぽつりと呟いて見る。途端、全身が沸騰するように熱くなって「うわぁ!」という叫び声が勝手に迸った。すぐさま隣の部屋から「五月蠅ぇぞ!」と怒鳴り声が返ってくる。ついでに壁がドンッと蹴られて、古びた内壁がぱらぱらと屑を零した。反射的に口元を片手で押さえて、背中を丸めてうずくまる。
 
 そうだ、今の自分は浮かれている。はしゃいでいる。客の一人と遊んで、別れ際にキスされたぐらいで、身体が床から飛び上がりそうなぐらい満たされている。橘はただの客なのに。特別な相手なはずがないのに。特別にしたくもないのに、頭の中を橘が埋め尽くす。
 
 
「…可愛いって…」
 
 
 自分の独り言に、頭を抱えて呻き声を押し殺す。改めて思い出しても、やっぱり可笑しい。橘の目は腐ってる。眼科に行って、眼球ごと入れ替えた方がいいレベルだ。金髪坊主に向かって可愛いだなんて、正直気が狂ってるとしか思えない。
 
 キスもされた。喜一からではなく、今度は橘から。偶然ではなく、紛れもない意志を持って。唇に触れた感触を思い出して、まだ畳の上で悶絶する。処女じゃあるまいし、初キスでもないのに、一体何がこんなに恥ずかしくて堪らないのか。
 
 可笑しい。今の自分は可笑しい。何処かのネジが引っこ抜けてしまっている。ネジの名前は、理性か抑制だ。感情の波が抑えられない。走り出したい。跳ね回りたい。大声で叫び出したい。深夜に、持て余された衝動が体内で暴れ狂う。
 
 壁に頭を打ちつけたい衝動を堪えて、犬のぬいぐるみを両腕でぎゅうと抱き締める。途端、心臓が音を立てて跳ね回った。ファンファーレにも似た音楽が心臓から溢れ出す。まるで身体の中でパレードが起こっているみたいだ。
 
 畳の上に寝転がったまま、下顎をぬいぐるみに埋めて天井を見上げる。少し傾いた電球が白っぽい光を注いでいる。その眩しさに目を細めながら、掌を光に翳す。そうして、指を一本一本折り畳んでいく。
 
 
「また、来る…」
 
 
 今日は独り言のオンパレードだ。つい数時間前に別れたばかりなのに、もう次のことを考えている。またお店に行ってもいいかと橘は聞いた。なら、また会えるはずだ。土日が休みなら、週末ぐらいに来てくれるだろうか。今はようやく日曜日が終わるというところだ。週末まで後一週間近くある。そう考えて、喜一は酷く落胆した。ぬいぐるみに顔を埋めて、小さく溜息を零す。そうして、自分の溜息を聞いた瞬間、ハッとした。
 
 
「乙女かよ!」
 
 
 怒濤のように噴き上げてきた恥ずかしさに堪え切れず、大声で叫ぶ。鈍い叫び声が深夜にアパートに響き渡る。「五月蠅ぇ、ぶっ殺すぞ!」という罵声と共に、壁が大きな音を立てて揺れた。
 
 

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Published in 再生

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