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12 ひとりぼっち

 
 暫くの間、胸の中心に灯った奇妙な浮遊感は喜一を翻弄し続けた。それを消そうと躍起になればなるほど、頭の中であの日の出来事が延々とリピートされる。訳もなく嬉しくなって笑いたくなる。急に不安になって涙ぐみそうになる。まるで思春期の中学生のように、感情の波を制御できず心が溶かされていく。この感覚には、遠い昔に覚えがあった。
 
 
 仕事でも、少なからず悪影響が出始めた。部屋の扉が開かれる度に、橘が来てくれたのかと思って一瞬心臓が跳ねる。パッと顔をあげた瞬間、見知らぬ顔あるいは別の常連の顔が見えて、ガックリと肩を落としそうになる。下がりそうになる口角を吊り上げて、必死に笑顔を作る。見知らぬ男と肌を合わせて、その性器で身体を貫かれて、嫌悪に打ち震えながら甘えた喘ぎ声をあげる。今まで同じなのに、何かが違う。
 
 常連の一人から「きぃちゃん、何か疲れてないか」と問い掛けられた瞬間、サァッと全身から血の気が落ちた。浮かれていた脳天に冷水をぶち撒けられたかのようだった。今回は優しい常連だったから大丈夫だったが、このままでは他の客からクレームを付けられるのも時間の問題だ。気の入っていないサービスを受ければ、高い金を払ったぶん当然客は怒り狂う。出会い頭に少しでもガッカリした顔を見せれば、二度とその客は店にやって来なくなるだろう。男というだけでも異質なのに、クレームまで出始めたらこの仕事を下ろされる可能性もある。童貞男に惑わされて、一体自分は何をトチ狂っていたんだか。この場所を失うわけにはいかない。もう喜一には他に行く場所なんてありはしないのだから。
 
 毎夕気を引き締め直して、仕事場へと向かう。それでも、店へと向かう道すがら橘の姿を無意識に探してしまう。不器用な男がはにかみながら「喜一さん」と呼び掛けてくれるのを待ってる。浅ましい妄想に、頬が自嘲に歪む。そんな自分が一層惨めだった。
 
 
 
 
 
 気付けば、デートの日から二週間も経っていた。ようやく感情の波が収まって安定してきたことに、喜一は酷くほっとした。
 
 三人目の客の相手が終わって、少し休憩しようと店の裏にある自動販売機へと向かう。店の有線で流れている名前も知らないアイドルグループの曲を小さく口ずさむ。恋はめっちゃ楽しい、最高、とか歌っている曲だ。歌詞なんて殆ど覚えてないから、途中からそれは鼻歌に変わった。曖昧な鼻歌を漏らしながら、缶コーヒーを口に含む。
 
 
 錆び付いた音を立てて、店の裏口が開く。顔を覗かせたのは、最近店に入ったばかりのボーイだ。まだ二十歳になったばかりで少年じみた容貌をしており、何をしてもつまらなさそうな目をしている。女の子達からは「てじにゃん」などと気安く呼ばれているが、一度たりともニコリと笑った試しがない。そのくせ、べたべたと頭を撫でられても嫌がる素振りは見せない。たぶん、人嫌いというよりかは単に頑ななのだ。
 
 
「手嶋くん」
 
 
 呼び掛けると、手嶋はパチリと瞬きをしてから喜一へと視線を向けた。眠たげに半分目蓋が垂れた眼差しが向けられる。
 
 
「休憩?」
「違います。きぃさんを探しに来たんです」
「俺? 何か指名入った?」
「指名じゃないです。マネージャーが呼んでるんで事務所に来て下さい」
 
 
 ドキリと心臓が跳ねた。まさか、とうとうクレームが入ってしまったのだろうかと考える。仕事中に事務所に呼び出されるのなんて初めてだ。「あぁ、そう」と上の空で返事を返して、ゆっくりと立ち上がる。缶コーヒーの中身は半分以上残っているが、それ以上飲む気にはなれなかった。でも、中身が残ったままゴミ箱に捨てるわけにもいかないし、わざわざ持って行くわけにもいかないし…。
 
 缶コーヒー片手にもたもたする喜一を見て、手嶋が緩く目を細める。
 
 
「それ、もう飲まないです?」
「うん」
「残り貰ってもいいですか」
「あ、うん」
 
 
 咄嗟に缶コーヒーを差し出すと、手嶋は躊躇もなくそれを受け取った。一息に煽って、缶コーヒーを一気に飲み干す。それを見て、喜一は唖然とした。
 
 
「気持ち悪くねぇの?」
「何がですか」
 
 
 手嶋は相変わらずの無愛想さだ。たぶん普通の人間なら、ソープで身体を売る男が飲んだ缶コーヒーに口をつけることは躊躇うだろう。露骨に嫌悪されても可笑しくはないというのに、手嶋は気にする様子もない。空になった缶コーヒーをゴミ箱へと捨てると、手嶋は急かすように喜一の背中をぐいと押した。
 
 
 
 事務所に入った瞬間、喜一は呆然と立ち尽くした。事務所のソファに、田中さんと向かい合うようにして座っている女がいる。地味なTシャツと灰色のぶかぶかなスウェットを履いていて、ここまで歩いていたのか裸足の足裏からは薄く血を滲ませていた。髪の毛は山姥のようにボサボサに乱れていて、化粧が剥げた肌は酷く荒れているが見間違えようもない。
 
 
「れっちゃん」
 
 
 俯いていた檸檬ちゃんがゆっくりと顔を上げる。涙で頬がぐしゃぐしゃに濡れている。そうして、その右頬には赤黒い腫れが色鮮やかに浮かび上がっていた。その青紫が微かに溶け合った赤色が檸檬ちゃんの細面を陰惨に彩っている。
 
 
「きぃちゃん」
 
 
 喜一の顔を見て、檸檬ちゃんが唇に微かな笑みを浮かべる。無理矢理作ったようなぎこちない微笑み。だが、その表情がじわじわと崩れる。笑みを形作る唇が微かに震えて、目尻からぽつぽつと小さな涙が零れ落ち始める。檸檬ちゃんはまるで先生に叱られた子供のように、膝の上で拳をキツく握り締めたまま声も出さずに泣いた。
 
 
「何があったの」
 
 
 檸檬ちゃんの横に座りながら、苦々しく顔を歪めた田中さんへと問い掛ける。啜り泣く檸檬ちゃんの肩を軽く引き寄せて、ゆるゆると宥めるように背中を撫でる。
 
 
「男に殴られたらしい」
「男?」
「檸檬のヒモだ」
 
 
 一瞬目蓋の裏が真っ赤になるぐらいの憤怒が込み上げて、くらりと目眩がした。何度か見かけた男の顔が脳裏に浮かぶ。店まで檸檬ちゃんに金をせびりに来ていて、檸檬ちゃんから金を毟り取ると「これっぽちの端金しか稼げねぇのか、テメェの身体はよぉ」と鼻で嗤っていた。それから、男の行きつけらしい飲み屋でへべれけに酔っぱらっている姿を数回見かけたことがあった。カウンターの店員や無関係の客にしつこく絡んで、鬱陶しがられていた姿を覚えている。昔は美青年だったらしい面立ちは微かに残っていたが、それでも喜一にはその男はただのだらしのなく薄汚い中年男にしか見えなかった。あの男が、林が檸檬ちゃんから金を奪って、更に殴ったのか。こんなに華奢な女の子を、男の拳で打ち据えたのか。
 
 無意識に拳が戦慄く。吐き出す息が微かな熱を持って震える。全身を満たしたのは紛れもない殺意だ。殺してやりたい。檸檬ちゃんを傷付けた男を、この手で殴り殺してやりたい。衝動が泥のように全身を満たす。
 
 
 手嶋が氷をいっぱい入れたアイスペールとタオルを持ってくる。タオルに氷を数個包み込むと、喜一へと無言で差し出す。タオルを受け取って、檸檬ちゃんの頬へと押し当てる。檸檬ちゃんが痛みに細い肩を揺らして、喜一へと視線を向ける。付け睫毛もマスカラもしていない檸檬ちゃんの目は涙で蕩けていた。ゆらゆらと揺れる透明の液体に、黒目と白目が曖昧に融解している。
 
 
「…きぃちゃん、どうしよう…。どうしたらいいかわかんねぇよ…」
「落ち着いて、れっちゃん。何でこんなことになったの」
「あいつが、あたしの貯金全部持って行ったんだ…。貯金通帳も、クレジットも、印鑑も、あたしが必死になって積み上げたもん全部…。だから、もう限界だと思って、別れようって言ったんだ。金も返せって…そうしたら…」
 
 
 啜り泣きに言葉が途切れる。そこからは容易に想像がつく。逆上したヒモ男が檸檬ちゃんを殴り付けた。檸檬ちゃんは靴も履かず、着の身着のままマンションから逃げ出した。檸檬ちゃんは唇を震わせて、呻くように呟いた。
 
 
「あたしは馬鹿だ。畜生、何であんな奴と…あんな奴に…」
 
 
 畜生畜生と執拗に繰り返して、やがて疲れ果てたようにガックリと項垂れる。力が抜けて干物のようになった檸檬ちゃんの身体を引き寄せる。吃驚するぐらい軽い身体だった。茫然自失とした檸檬ちゃんの肩を抱いたまま、頭をゆっくりと何度も撫でる。
 
 田中さんが遣る瀬無さそうに溜息をつく。
 
 
「檸檬は、顔の腫れが引くまでは暫く休め。きぃも、今日は檸檬と一緒に帰ってやれ」
「家には帰れねぇよ…あいつがいるかもしれないし…」
「うちに来ればいいよ。何にもないけど、ずっと居ていいからさ」
 
 
 喜一の言葉に、檸檬ちゃんが顔を上げる。縋り付くような眼差しがまた涙で潤んでいく。
 
 
「ごめんな、きいちゃん…ごめん…」
「謝んなくていいよ。謝らないで」
 
 
 そう言っても、檸檬ちゃんは掠れた声で何度もごめんと繰り返した。送迎車のキーを持った手嶋が醒めた声で呟く。
 
 
「送っていきますんで、車乗って下さい」
 
 
 
 
 
「何だこりゃ…」
 
 
 これが喜一のアパートに来た檸檬ちゃんの第一声だ。お化け屋敷と言われても仕方ないほどうらぶれた外観と、新聞紙とぬいぐるみしか置かれていない部屋に、檸檬ちゃんは暫く玄関で唖然と立ち尽くしていた。格好良く「うちに来ればいい」などと口に出しておきながら、実際には風呂も蒲団すらもない酷い部屋に喜一は少しだけ肩を竦めた。
 
 
「れっちゃん、ごめん。明日蒲団買ってくるから今日はこれで我慢して」
 
 
 開いた新聞紙を両手で掲げると、呆然としていた檸檬ちゃんが不意に小さく噴き出した。
 
 
「あっ、いてっ、笑うとイテェ。いいよ、きぃちゃん気ぃ使わなくて」
「でも、れっちゃん寝れないでしょ」
「蒲団なんかなくたって寝れるって。それにこういうの昔思い出すみてぇで懐かしいよ」
 
 
 取れかけたドアノブを緩く触りながら、檸檬ちゃんは懐かしそうに目を細めた。先ほどまで泣いていたとは思えないほど、いつも通り乱暴で優しい檸檬ちゃんだった。
 
 
 濡らしたタオルで檸檬ちゃんの汚れた足を拭いて、皮膚が裂けた部分を消毒して絆創膏を丹念に貼り付けて行く。消毒液と絆創膏は手嶋が帰りしなにコンビニに寄って買ってきてくれたものだ。別れ際に無言でコンビニ袋を押し付けられて、お礼を言う間もなく手嶋はさっさと車を走らせて行ってしまった。本当に頑なな奴なんだと思う。
 
 絆創膏だらけになった小さな足を眺めて、檸檬ちゃんがぽつりと呟く。
 
 
「あのさ」
「うん?」
「あたしんち貧乏だったんだよね」
 
 
 唐突な切り出し方だった。湿布のセロハンを剥がしながら、喜一は「うん」と曖昧な相槌を返した。
 
 
「貧乏も貧乏、超極貧。そのくせ親父は飲んだくれで母親は病弱。絵に描いたような底辺一家でよ。飯も腹いっぱい食ったことねぇし、ろくに風呂も入れねぇし、学校では馬鹿にされっし、本当に最悪だった。だから、金食い虫の親が死んだ時はほっとしたんだ。心底ほっとしたよ。これで重荷がなくなったって、これで自由になれるって、安心して――そのツケがやっと回ってきたのかな」
 
 
 檸檬ちゃんが乾いた笑い声を零す。その空虚な笑い声が酷く痛々しかった。湿布をそっと檸檬ちゃんの頬へと貼り付ける。赤黒かった頬は、もう真っ青に染まっている。檸檬ちゃんは痛みに顔を顰めて、それからふぅと小さく溜息を吐き出した。
 
 
「この仕事始めた時は絶対に金持ちになってやるって思ってさ。絶対に、あたしは誰よりも幸せになってやるって」
「うん、解るよ」
 
 
 本当は何も解っちゃいなかった。だけど、解ると嘯いた。檸檬ちゃんは数回瞬くと、くしゃりと顔を歪めた。
 
 
「そっか、解ってくれるか」
 
 
 酷く苦しげにそう囁くと、檸檬ちゃんはそれ以上は何も言わずに新聞紙の上にころんと寝転がった。傾いた豆電球を消して、喜一もその隣に背を向けるようにして横たわった。背中同士が触れ合って、お互いの呼吸が波打つ背で解る。たったそれだけなのに、酷く安心する。
 
 カーテンのない窓から、月の光が淡く部屋の中へと注いでいる。暗闇に目が慣れ出した頃、檸檬ちゃんが小さく口を開いた。
 
 
「何か、あたしら尾崎みてぇ」
「尾崎?」
「二人はまるで捨て猫みたい」
「この部屋は落ち葉で埋もれた空き箱みたい?」
 
 
 それは九十年代に流行った歌じゃないだろうか。ふふ、と短く笑い声を零すと、檸檬ちゃんがくつくつと背筋を震わせて笑った。その感触が背中越しに伝わってきてくすぐったかった。
 
 
「ねぇ、れっちゃん」
「なに」
「なんで檸檬っていう源氏名にしたの?」
 
 
 そう問い掛けると、檸檬ちゃんは一瞬黙り込んだ後、あっけらかんとした声で言った。
 
 
「だって、笑えんじゃん」
「笑える?」
「客がイく時にさ、れもんれもーん! ってすっげぇ真剣に叫ぶのってさ」
 
 
 ぷふふ、と噴き出す声が聞こえる。暫く空気を震わせるような笑い声が続いて、それから唐突に止まる。数秒後に、背中のシャツをぎゅうと掴む掌を感じた。檸檬ちゃんは額を喜一の背に押し付けて、掠れた声をあげた。
 
 
「でも、全然笑えなかった」
 
 
 沈黙が落ちる。喜一は暗闇を見詰めて、それからくるりと身体を反転させた。檸檬ちゃんと向かい合うように体勢を変えて、華奢な肩をそっと抱き締める。コシのない細い髪の毛を指先で梳くように撫でていると、次第に腕の中の身体が小刻みに震え始めた。檸檬ちゃんは喜一の胸元に額を押し付けたまま、声を殺して泣いている。あれだけ泣いたのに、涙って涸れないんだな、と喜一はぼんやりと考えた。
 
 
「もう駄目だ。あたしは駄目だ。おしまいなんだ」
 
 
 しゃくり上げながら、檸檬ちゃんが繰り返す。
 
 
「おしまいじゃないよ」
「身体売って、馬鹿男に貢いで、全部失った。おしまいだ」
「生きてるよ。大丈夫、おしまいじゃない」
 
 
 大丈夫だから。そう耳元に祈るように囁いて、震える背中を何度も撫でる。檸檬ちゃんの身体は、見た目よりもずっと細くて頼りなかった。強く抱き締めると、それだけで簡単に折れてしまうんじゃないかと錯覚してしまうほど。何だか、寂しさの塊を抱き締めているようで酷く切なくなった。
 
 
 さみしいね、れっちゃん。二人なのにひとりぼっちみたいにさみしい。
 
 
 言葉は口には出されず、胸の内側でひっそりと消えていく。
 
 
 何度同じ言葉を繰り返しただろうか。気付いたら、胸元から檸檬ちゃんの寝息が微かに聞こえてきた。泣き疲れて、とうとう全身のエネルギーを使い果たしてしまったのだろう。赤くなった目尻を、指先で淡く撫でる。静かに起き上がって、ぬいぐるみを檸檬ちゃんの腕の中へと代わりのように添える。
 
 
 熟睡する檸檬ちゃんを起こさないように、押入からある物を取り出す。それをぞんざいにベルトへと差し込んで、喜一はひっそりと部屋を出た。自分がこれからどこへ行くかを、自分がこれからどうするべきかを、喜一はよく理解していた。
 
 

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