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13 生ゴミ

 
 生ぬるい空気が全身を取り巻いていた。ポケットに両手を突っ込んで、七色のネオンが光る繁華街を大股で軽やかに進む。まるで悪い熱に浮かされたように、アスファルトを踏み締める足取りが軽い。まるで足裏が地面から数センチ上に浮かび上がっているかのようだ。天にも昇るような、というのは、きっとこういう事を言うのだろう。
 
 気付いたら、歌が流れていた。いつか観たミュージカル映画の『雨に唄えば』が何処からか小さく聞こえてくる。それが自分の鼻歌だと気付いたのは、擦れ違いざまにぼったくりバーの客引きに「お兄さん、随分と機嫌がいいねぇ」と声をかけられた時だ。いかにも陽気なリズムが自分の鼻から無意識に零れている。軽く肩越しに振り返って、客引きへとふわりと誘い込むように笑いかける。ベッドの中で客へ向けるのと同じ淫猥な笑みだ。途端、客引きはきゅっと口を閉ざして、頬を微かに赤らめた。それを見て、咽喉を震わせてくすくすと笑う。
 
 おそらく今の自分は一種の躁状態なんだろうと冷静に分析してみる。限界まで振り切れたベクトルが、喜一からまったく別の感情を引き出していた。極限まで怒り狂った人間は、怒鳴るのでもなく、顔を真っ赤に染め上げるのでもなく、いっそ奇妙なくらい陽気に笑うんだ。いや、こんな異常な反応を示すのは自分だけなのかもしれない。笑顔を浮かべているのに、店先のウィンドウに映る自分の顔は紙のように白かった。ポケットに入れた指先は、まるで氷のように冷たく凍えている。腹の底で静かに燃え滾っているのは、凝縮された憎悪だった。陽気な仮面を被って、臓物の内で暴れる獣の喉元を撫ぜて優しく飼い慣らす。今喜一に必要なのは激昂ではなく、憎悪を冷静に極限まで研ぎ澄ますことだ。
 
 
 にこにこと笑みを浮かべて歩き、明るく鼻歌を漏らす。数十分前に行った檸檬ちゃんのマンションに男はいなかった。ならば、おそらく行き着けであろう店、もしくはその界隈の飲み屋にいるだろうと喜一は予測をつけていた。以前、男を見かけたことのある飲み屋を覗く。だが、男の姿はそこにはなかった。若い女のバーテンダーが一杯飲んでいくように頻りに誘ってきたが、喜一はそれをやんわりと断った。念のために両隣の飲み屋も覗いたが結果は同じだった。
 
 そのまま飲み屋を片っ端から訊ね歩いていると、不意に背後からぽんと肩を叩かれた。
 
 
「きぃちゃん、何しとん?」
 
 
 地方のイントネーションが混じった声音。居酒屋で何度か顔を合わせたことのあるホステスだった。そろそろ夜は冷える季節になってきたというのに、太腿までスリットの入ったノースリーブのドレスという寒々しい格好をしている。緩めな顔立ちは愛らしい部類に入るが、少し眉が太いせいか田舎者が必死に背伸びしているようにも見える。確か、以前会った時に愛蘭と名乗っていたことを思い出す。それは本名ではなく、彼女がアイドルとしてデビューした時に使おうと決めていた芸名だったらしい。夢を追い掛けて田舎から出て来たはいいものの、夢に破れて帰るわけにもいかず水商売に走ったという、この街にはありふれた女の子の一人だ。
 
 
「ちょっと人探してるんだけど、なかなか見つからなくってさ」
「ふぅん、どんな人?」
 
 
 手短に林の特徴を伝える。聞き終わると、愛蘭は近くに立っていた客引きへと無造作に近付いた。気安く話しかけているところを見ると、仲の良い友人らしい。直ぐさま客引きが携帯電話を取り出して、何人もの相手に電話を掛け始める。どうやら心当たりがないか仲間の客引きに電話をしてくれているようだった。
 
 
「この辺にいるなら、たぶん三十分ぐらいで見つかると思うよぉ」
「ありがとう、すごく助かる」
 
 
 とびきりの笑顔を浮かべて、頭一つ分低い愛蘭の顔を覗き込む。途端、愛蘭の頬がみるみる紅潮していくのが見えた。
 
 
「ええんよ、きぃちゃんのためだから」
 
 
 何かを期待するように喜一を見詰めてくる愛蘭の眼差しに、喜一は曖昧な苦笑いを返した。愛蘭は知らない。喜一がどこで何をして働いているかを。知っていれば、甘えるような女の目を向けたりはしない。愛蘭は気性の良い女の子だが、それでも喜一が女の真似事をしているのを知れば、きっと今まで通りの態度は取ってくれなくなるだろう。微かな嫌悪と同情の眼差しが脳裏に思い浮かぶ。
 
 
 暫くの間、愛蘭と他愛もないお喋りを楽しんだ。楽しんでいるふりをした。愛蘭は、一度TVデビューしかけたけれどもその直前にプロデューサーが大麻所持で捕まってしまって話がご破算になった事や、今はホステス業の傍らネイルアーティストの勉強をしていて、将来は自分の店を持つことが夢だということを口早に語った。喜一はそれを柔らかく相槌を打ちながら、黙って聞いた。喜一が微笑むほど、愛蘭の顔は茹で蛸のように染まっていった。
 
 十分ほどしたところで携帯電話を耳に当てた客引きの男が近寄ってきた。林らしき男が高級クラブで豪遊しているらしい事を教えられる。
 
 そろそろ行くことを告げると、愛蘭は露骨にガッカリした表情を浮かべた。そうして、愛蘭はふと気付いたように喜一へと訊ねた。
 
 
「ねぇ、きぃちゃん。なんで懐中電灯なんか持っとるん?」
 
 
 喜一は意味深に微笑んで、ゆっくりと頭を左右に振った。
 
 
「懐中電灯じゃないよ」
 
 
 愛蘭はネオンの中に立ち尽くしたまま、不思議そうに首を傾げた。
 
 
 
 
 
 ようやく男を見付けたのは、午前二時を過ぎた頃だった。林は高級クラブのソファに座って、左右に大量のホステスを侍らして乱痴気騒ぎを起こしていた。よりにもよって高級クラブにいやがるなんて、よほど金を散財するのが好きらしい。他人の金をよくもまあ遠慮なく齧れるなといっそ感心してしまうほどだ。
 
 高級シャンパンをまるで水のように咽喉へと流し込んで、時折花咲爺さんでも気取るかのようにホステス達の頭に一万円札を降らせる。ホステス達がきゃあきゃあと歓声をあげて、落ちてくる一万円札へと両手を伸ばす。酷く浅ましく醜い光景だった。
 
 
 林が座るソファの周りには、大量の一万円札が散らばっていた。床に落ちた一万円札が男の靴底にぐしゃぐしゃに踏みつけられている。それは檸檬ちゃんの身体なんだと思った。檸檬ちゃんが自分の身体を切り売りして必死に作った金を、檸檬ちゃんの肉を、心を、この男はまるでゴミのようにバラ撒き、踏み躙っている。それが許せなかった。許すつもりもなかった。
 
 ホステスの胸へと頬を埋め出した林へとゆっくりと近付いていく。
 
 
「なぁ」
 
 
 テーブルの前で立ち止まって、朗らかな声をあげる。喜一は笑っていた。それが本物なのか偽物の笑みなのか、もう自分でも区別が付かなかった。ただ、呪いの仮面のように笑みが貼り付いて剥がれない
 
 喧しい笑い声を立てていたホステス達の声がピタリと止まって、不思議そうに喜一を見上げる。林はホステスの胸を掌に鷲掴んだまま、不機嫌そうに喜一を睨みつけた。
 
 
「あぁん、てめぇ何だよ?」
「れっちゃんの友達。あんたが盗んでいったれっちゃんの金、全部返してもらいに来たよ」
 
 
 優しげな声で、諭すように呟く。林は一瞬ギクリと身体を強張らせたが、直ぐに居直ったのかふっと鼻で笑った。
 
 
「あの売女の金ぇ? そりゃ、つまり俺の金だろうが」
 
 
 恥ずかしげもなく言い放って、馬鹿笑いを零す。周りのホステス達が訳も知らぬまま男に合わせるように笑い声を弾けさせる。喜一も短くふふと笑い声を零してから、小さく息を吐き出した。
 
 
「金は全部れっちゃんのものだ。れっちゃんが幸せになるために死に物狂いで稼いだ金だ。あんたみたいなクズが気安く毟っていいもんじゃねぇんだよ」
 
 
 喜一の口調は事務的だった。林のコメカミが細かく痙攣するのが見えた。まるで漫画のキャラクターのように薄らと血管まで浮かび上がっている。それを見た瞬間、思わず失笑が漏れた。まるで絵に描いたような悪役面だ。
 
 
「何様のつもりだテメェ。関係ねぇ奴がしゃしゃり出てんじゃねぇよ。テメェこそ金目当てか? それとも檸檬の身体目当てかぁ?」
 
 
 男の下衆丸出しの邪推に、思わず溜息が零れる。だが、そんな喜一の様子にも気付かず、林は勢いこんで言葉を続けた。酒のせいで舌が麻痺しているのか、舌ったらずで酷く聞き取り難い声だった。
 
 
「てめぇも檸檬とヤッたんだろうがよぉ。あの女、頭の方は鳥みてぇに阿呆だけど身体だけは抜群だからな」
「ヤッてないよ。れっちゃんは大事な友達だ」
「嘘つけよ。ヤッてるくせによぉ! てめぇだって、あの売女に突っ込んで愉しんでんだろうがよぉ!」
 
 
 まるで子供の駄々だった。林は酒を煽ると、ヒャッヒャッと気の狂った鳥みたいな声をあげて笑った。途端、クラブに焚かれているアロマの匂いが鼻腔の奥いっぱいに広がった。馨しいのに、鼻が曲がりそうに臭い。臭気が脳味噌をぢりと焦がしていく。
 
 
「五月蝿ェな。生ゴミが人の言葉喋ってんじゃねぇよ」
 
 
 喜一の声は、酷く穏やかだった。静かで、何処か神聖ですらあった。だから、初めは林も言われた言葉の意味が解らず、きょとんと不思議そうな表情を浮かべた。喜一はふわりと微笑んだまま、言葉を続けた。
 
 
「いい加減黙れよ生ゴミ。女殴って奪い取った金で遊んで、騒いで、随分良い気分なんだろうがな、今すぐれっちゃんの金返さねぇと手前の金玉引き千切って犬に喰わせるぞゴミクズ野郎が」
 
 
 柔らかい口調で、優しく暴言を吐き散らす。一瞬で、場の空気が凍り付いた。ホステス達が顔を強張らせて、微笑む喜一を凝視している。林は暫く呆然と喜一を見上げた後、憎々しげにギリギリと奥歯を噛みしめた。だが、不意に思い出したように目元をぐんにゃりと歪めた。
 
 
「あー…あぁ、思い出したよ。思い出しちゃったよ。おまえさぁ、ソープで働いてる男じゃねぇか。男なのに、男に身体売ってるオカマちゃんだろぉ?」
 
 
 まるで指先で小虫をいたぶるような、ねっとりとへばり着くような林の声音。林の嘲笑に、喜一は何も答えなかった。林はそれを喜一の弱味とでも思ったのか、畳み掛けるように喋り出した。
 
 
「そりゃあ檸檬ともヤッてねぇってわけだ。突っ込まれる同士じゃぁヤれねぇもんなぁ。それとも、檸檬にペニパンつけて掘ってもらってるのかぁ? あん、檸檬ちゃんもっと奥ぅって強請ってるわけかぁ? 男に尻穴掘られてアンアン言ってるオカマが偉そうなこと言いやがってよぉ」
 
 
 ぶはははと笑う男に、周りのホステス達が小さく笑い声をあげる。だが、その控えめな笑い声に反して、好奇をたっぷりと含んだ不躾な視線は、喜一へと真っ直ぐに突き刺さった。隣のホステス同士でこそこそと耳打ちをしては喜一をちらちらと眺めて、「やだぁ」と含み笑いを零す。そこには露骨な侮蔑があった。
 
 
 喜一は、ただ笑わせておいた。事実を否定する気はない。自分が他人からどう思われようが関係ない。ホモ野郎と罵られようが、気色悪いと唾を吐きかけられようが、そんな事はとっくの昔に覚悟している。
 
 林が机の上にばら撒いた一万円札を鷲掴む。そうして、喜一へと向かって数枚の一万円札を無造作に投げ付けた。
 
 
「てめぇは金で尻売ってる変態野郎だろ。金やるから脱げよ。脱いで、尻差し出してみろよぉ」
 
 
 林の喧しい笑い声が鼓膜の内側でガンガンと反響する。喜一はただ黙って、床へと落ちた一万円をゆっくりと拾い上げた。
 
 
 ――れっちゃん、もう大丈夫だ。もう踏み躙られなくてもいい。
 
 
 そう咥内で呟いて、笑みを浮かべる。
 
 ただ鷹揚に微笑むだけの喜一を見て、林が苛立ったように手元のグラスを掴む。中身が半分ほど入ったグラスを振り上げると、それを喜一の顔へと向かって投げ付けた。ガツンと音が鳴って、額の左端にグラスがぶち当たる。顔面に酒がしたたかにかかって、ぢんと痺れるような痛みが額に走った。目蓋の裏が一瞬真っ赤に染まる。柔らかい絨毯の上を空になったグラスがころころと転がって行くのが見えて、現実感が薄れて行くのを感じた。
 
 
「脱げっつってんだろうが! 客の言うことが聞けねぇのかテメェはよぉ!」
 
 
 林が喚き散らす。テーブルの上へと乱暴に立つと、そのまま喜一へと近付いて来る。斜め上から喜一の顔を見下ろして、林は早口で罵声を繰り返した。喜一は酒にまみれた顔を腕でぞんざいに拭って、それから蕩けるような笑みを浮かべた。
 
 
「これは、れっちゃんの肉だ」
「あぁ?」
「手前が踏み躙った分だけ、俺も手前を踏み躙ってやるよ。潰れるまでな」
 
 
 カシャンと軽い金属の音が響いた次の瞬間、怪訝そうな林の顔がスローモーションで歪んでいくのが視界に映った。林の左顔面に細い棒が深く食い込んで、赤い鼻血を噴き出す。ゴリッと関節が外れるような鈍い音が聞こえて、喜一は無意識に笑みを深めた。テーブルの上に立っていた林の身体がグラスや皿を巻き添えにして床へと勢いよく転がり落ちる。硝子が割れる甲高い音が響き渡って、まるで狂想曲のようだなと喜一は少し考えた。
 
 床へと突っ伏した林はアガアガと聞き取り難い呻き声をあげていた。それを眺めながら、喜一は乾いた笑い声を零した。
 
 
「ふぅん、生ゴミでも痛みは感じるんだ」
 
 
 人間じゃねぇのになぁ、と一人でぼやく。小鳥のように騒いでいたホステス達が目を見開いたまま凍り付いているのが見える。林はひぃひぃ唸りながら仰向けになると、喜一が手に持っているものを凝視した。
 
 
「あ、ぁ…?」
「これ? 特殊警棒」
 
 
 左掌に軽く警棒を打ち付けながら、親切に答えてやる。それは三段に伸縮可能な特殊警棒だった。手首のスナップだけで簡単に伸ばすことが出来、ロッドを収納している時は十五センチ程度まで短くなり懐中電灯のようにも見える。
 
 
「ぶっ…武器なんで、…卑怯じゃねえかっ…!」
 
 
 鼻血で顎まで汚しながら、まるで子供のような言い分を漏らす男が面白かった。林の左頬にはミミズ腫れじみた赤い線が浮かび上がっている。
 
 
「卑怯? 女殴ってる奴がなに卑怯とか言ってんだよ、くだんねぇ」
 
 
 溜息を吐きながら、もう一度林の顔面へと向かって警棒を振り下ろす。ガツッという鈍い音と共にグリップ越しに気色悪い感触が掌に広がった。今度はホステス達の悲鳴が聞こえた。キャーとこれみよがしな悲鳴に、喜一は苛立った。女達の悲鳴で、喜一の暴力はパフォーマンス化されていく。だが、喜一にとってこれはただの暴力だった。私怨にまみれた、ただの報復だ。
 
 
 床の上でのたうち回る林の髪の毛を鷲掴む。そのまま髪の毛が束ごと引き千切れるのも構わず、林の身体を店から引き摺り出した。シャンデリアの煌煌とした光から、闇と原色のネオンの世界へと戻る。鼻腔の奥に満ちていたアロマの臭いが薄まって、身体に馴染んだ乱雑な臭いが広がる。そのことに喜一は酷く安堵した。
 
 
 引き摺って来た林の身体を、アスファルトの上に雑に転がす。林は血を垂れ流す鼻を両手で抑えたまま、憎しみに満ちた眼差しで喜一を睨み上げた。
 
 
「ふざげんじゃねえよぉ! 俺が何しだって言うんだっ!」
「れっちゃんを殴った」
「ハァ!? あればなぁ、躾なんだよ! 身体売るじか能のねぇ女のぐせに、聞き分げねぇからわざわざ仕置きじて黙らせでやっだんだよ!」
 
 
 ぎゃんぎゃんと犬のように喚き散らす男を、喜一は冷めた眼差しで見下ろした。
 
 
「あんたの勝手な御託はどうだっていいんだ。あんたは女の子を殴った。金を奪って泣かせた。だから、俺はあんたを叩き潰す。それだけのことだよ」
 
 
 林の顔が青褪めて行く。喜一は警棒のグリップをきつく握り直しながら、頬を凄惨な笑みに歪めた。
 
 
「尻掘られてるからって、俺が女とでも思ってたか? 手前を殴れないとでも? 残念だったな、オカマ野郎でも手前みたいなクズを痛め付けることくらいできんだよバァカ」
 
 
 嘲りを漏らして、腕を振り上げる。地面を転がる男へと警棒を叩き下ろし、その腹を爪先で鋭く蹴り上げる。見る見るうちに林の全身がボロボロになっていく。異様な光景に、喜一と林の周りには人だかりができ始めた。野次馬が時折「兄ちゃん、もう止めなよ」だとか「警察呼ぶぞ」と声を張り上げるが、喜一はそれらをすべて無視した。この男が死のうが、自分が警察に捕まろうが、そんなのはどうでもいい。この憎しみを発散することしか考えられなかった。容赦のない暴力の行使に、罪悪感など欠片もなかった。
 
 男が生き物だということを半ば忘れかけた頃に、顔面を血と涙でぐしゃぐしゃに歪めた林が泣き声をあげた。
 
 
「も、もぉ…やめで…」
「やめて?」
「ゆるじて…」
「許して!」
 
 
 その言葉を、喜一は鼻で笑った。
 
 
「れっちゃんはあんたに何回やめてって言った? あんたはそれを無視して、れっちゃんを殴って、何もかもを奪い取ったんだろう? 女の子を傷付けて苦しめて、あんたはそれを当然だと思ってるんだ」
 
 
 口に出した瞬間、憎悪が腹の底から噴き上げてきた。女の子を苦しめる奴は許せない。どうしても、喜一には許せない。
 
 足元に転がるスチール缶を拾い上げる。泥で汚れたスチール缶を、地面に転がる林の眼前へと差し出す。
 
 
「起きて、銜えろ」
 
 
 林はまるで赤子のように身体を丸めて、啜り泣くばかりだ。催促するように鳩尾を蹴り飛ばすと、大袈裟な悲鳴をあげてようやくのろのろと上半身を起こした。
 
 
「ほら、男のチンコみたいに銜えんだよ」
 
 
 林の口元へと汚れた缶を押し付ける。林は抗うように唇を閉じていたが、何度か横面を殴り飛ばすと、泣きじゃくりながら缶を唇へと銜えた。缶をぐいぐいと咽喉へと向かって押し込む。半分ほど入ったところで、缶はそれ以上進まなくなった。林はまるで餌を強請る鯉のように口を丸く開いたまま、憐憫を乞うような哀れげな眼差しで喜一を見上げている。
 
 
「しっかり噛み締めてろよ」
 
 
 子供に言い聞かせるように言って、喜一は林へと向かってにっこりと微笑んだ。
 
 
 ヒュッと軽く右足を後方へと振る。それから、一気に爪先を振り上げた。爪先に固い缶の感触がして、カンッと小気味の良い金属音が高らかに響いた。林が銜えていた缶が空高く跳ね上がる。月明かりに照らされて、空中を舞う缶がチカリと煌めく。
 
 空中に跳び上がった缶が地面へと落ちてくる。転がる缶の側面には、白い突起物がいくつも生えていた。白い突起物の根元には、鮮やかなピンク色の肉片がこびり付いている。歪に凹んだスチール缶に、男の前歯が何本も突き刺さっていた。周りを取り囲む野次馬が息を呑む音が聞こえる。
 
 
 呆然とへたり込んだ林が、閉じていた唇を薄く開く。途端、まるで滝のように唾液と混じった血が唇から溢れ出す。アスファルトをしたたかに濡らす血の海を見て、喜一は肩を揺らして笑った。まるでB級ホラーのようだ。グロテスクなのに、堪らなく滑稽。
 
 
「あ、ぶ…べ……あぁ、ヴー…!」
 
 
 もう林が何を言っているのか判別がつかなかった。転がってきたスチール缶を両手で持って、その胴に深く食い込んだ歯を必死で抜こうとしている。何の意味もない、惨めで無様な姿。それは喜一の脳髄をちくちくと針のように刺激した。
 
 いつだったか、これと同じような光景を見たことがある。ただ呆然と地面を転がる男を、喜一は覚えている。目蓋の裏でチカチカと警告灯のように何かの映像がフラッシュバックされる。女の子の掠れた悲鳴と下卑た男達の笑い声。コップから溢れ出す幸せ――
 
 
 指先がピクリと戦慄いた。それを皮切りに、殺意が毛穴から一気に噴き出してきた。許し難い。女を殴る男も、無力に打ち震えるだけの男も、すべてが憎らしくて堪らない。徹底的に叩き潰してやる。
 
 警棒を高く振り上げた。林の頭部へと目指して、一気に振り下ろす。容赦のない一撃だった。スイカのようにパックリと割れる林の頭蓋が喜一の脳裏に浮かんだ。そうして、それは現実にものとなるはずだった。
 
 
 それなのに、振り下ろした腕が林の頭部直前の位置で動かなくなる。自分の意志ではない。震える手が喜一の腕を掴んでいた。
 
 

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