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14 帰りたい

 
「喜一さん、これ以上は駄目です」
 
 
 気弱そうな、だけど決然とした声。橘が喜一の腕をきつく握り締めている。喜一は、突然現れた顔を呆然と眺めた。
 
 
「邪魔、しないでよ」
 
 
 声が予期せず震えた。怖気が足元から這い上がってくる。
 
 
「駄目です。このままじゃ殺してしまう」
「殺したっていいんだよ、こんな奴!」
 
 
 まるで癇癪を起こした子供のように、喜一は喚いた。橘の手を振り払おうと、腕を滅茶苦茶に振り乱す。それなのに、橘の手は離れない。それ以上の力を持って、喜一の腕を取り押さえようとする。それが歯痒かった。むずがる赤子のように、言葉にならない唸り声を咽喉から漏らす。
 
 
「女の子を傷付ける奴はクズなんだ。こういう奴らは何回でも同じこと繰り返す。だから、今ここで殺した方がいいんだ! 俺はこんな奴らを殺してやりたいんだよ!」
 
 
 まるで女のヒステリーだ。キィキィと金切り声をあげる自分が惨めで堪らなくて、喜一は下唇をきつく噛み締めた。血走った目で、橘を射殺すように睨み付ける。橘は酷く悲しげな眼差しで、喜一を見詰めている。そうして、ゆっくりと唇を開いた。
 
 
「奴らって、それは誰のことを言ってるんですか?」
 
 
 奇妙な問い掛けに、一瞬息を呑んだ。橘の瞳を凝視する。
 
 
「誰って…」
 
 
 このヒモ男に決まっている。それ以外に誰がいるって言うんだ。そう答えてやりたかったのに、言葉が咽喉に詰まって出てこない。固まった喜一を見て、橘がそっと喜一の手から警棒を抜き取る。血まみれになったロッドを収めて、立ち尽くす喜一の手をそっと引いた。
 
 
「もう行きましょう」
 
 
 柔らかい声が耳朶をくすぐる。気遣うような声が苦しかった。縋り付くように橘を見詰める。この瞬間、喜一は橘に確かに依存していた。まるで幼児のように橘にしがみついて泣きたかった。だが、その甘えも一瞬で立ち消える。橘の斜め後ろに隠れるようにして、一人の女の子が立っていた。小柄な子で、肩で切り揃えられた黒髪や膝丈の紺色スカートが清楚な印象を与える。
 
 
「あの、橘くん…」
 
 
 青褪めた女の子が橘へと声をかける。怯えを色濃く滲ませたか細い声は、それだけで庇護欲をそそられる。だが、その声を聞いた瞬間、喜一は怒りの渦に呑まれた。一体自分で何が腹が立つのかも解らないぐらい、猛烈な憤怒が込み上げてきた。目の前の優しい男を殴りたかった。蹴り跳ばして、息が止まるぐらい散々なじってやりたかった。憎々しさに、腕を掴む橘の手を乱暴に振り払う。
 
 
「あんたに、関係ない」
 
 
 冷たく言い放つ。橘は一瞬傷付いたように目を見開いたが、何も言わなかった。俯く橘から目を逸らして、茫然自失になっている林へと近付く。
 
 
「れっちゃんの金、返せよ」
 
 
 虚ろな目で宙を見詰めたまま、林は微動だにしない。それに苛立って、林の服のポケットを乱暴に漁る。ジャケットの内ポケットに入ったコンビニ袋から、檸檬ちゃんの通帳や印鑑を見付けた。奪い取り、林の胸元をドンと突き飛ばす。林はものも言わず、まるで玩具のようにアスファルトの上に倒れ込んだ。
 
 
「二度とれっちゃんに近付くな。指一本でも触れたら、今度こそ手前の息の根を止めてやる」
 
 
 安っぽい脅し文句に、自分自身失笑しそうになる。頬が笑みを浮かべようと微かに痙攣をするが、結局唇は固く引き結ばれた。片手にくしゃくしゃになったコンビニ袋を握り締めたまま歩き出す。喜一が進むと、人集りがまるで波でも起きたかのように左右に割れた。
 
 人集りの中に、つい先ほど会った顔が見えた。愛蘭だ。愛蘭はどこか途方に暮れたような眼差しで、喜一を眺めている。その瞳に、喜一への好意は欠片も残されてはいなかった。凶暴な獣でも眺めているかのような怯えた眼差しを、喜一は虚ろに見詰め返した。
 
 
 
 
 
 人通りのない道まで歩いたところで、目蓋の上をねっとりと伝う液体を感じた。拳でぞんざいに目蓋を拭うと、赤い液体がこびり付いていた。林にグラスを投げ付けられた時に、額が割れていたらしい。ささくれた傷口を指先で弄くると、途端頭蓋骨を突き抜けるような痛みが走った。
 
 
「痛い」
 
 
 ぽつりと呟いてみる。だけど、直ぐ否定するように言い直す。
 
 
「痛くない」
 
 
 こんなの痛いうちに入るものか。檸檬ちゃんはきっともっと痛かった。もっと苦しかった。こんな痛みは、檸檬ちゃんの苦しみの何万分の一にも値しない。手の甲にこびり付いた血を舌先で軽く舐める。錆び付いた味が広がって、意味もなく生温い笑みが頬に浮かんだ。
 
 つまらないな、本当につまらない。自分は一体何を殴ったのか。それすらも曖昧になっている。あの男を通して、一体自分は何に報復したかったのか。何を粉砕しようとしたのか。自分の脳味噌に霧がかかったかのように、真実は薄ぼやけて見えなくなる。見えないのか。見たくないのか。それすらも、喜一は結論を出そうとはしない。
 
 
 背後から足音が近付いて来る。立ち止まり、緩慢に振り返ると、息を切らした橘がそこに立っていた。喜一は、その姿を冷めた眼差しで見遣った。
 
 
「喜一さん、待って下さい」
「何ですか」
「血が出てます。手当てしないと…」
「あんた、何様のつもりですか」
 
 
 気遣いの言葉を、一息に叩き潰す。口角を歪な笑みに引き攣らせて吐き捨てると、橘が身体を硬直させた。
 
 
「人の邪魔をしたあげくに、俺の保護者でも気取るつもりですか? たかが客のくせに、一、二回キスしたぐらいで、何を思い上がってるんですか。俺はあんたなんかいなくても大丈夫ですよ。女でもあるまいし、怪我の一つや二つでいちいち追い掛けて来ないで下さい。正直鬱陶しいです。俺のことなんか放っておいて、さっさとあの女の子のところに戻ったらどうですか?」
 
 
 皮肉げに漏らして、しっしっと犬を追い払うように掌を動かす。悲しげな橘の表情に、ざまあみろと胸の内で零す。だが、同時に酷い自己嫌悪に息が詰まった。こんな優しい男を傷付けて、優越感に浸る自分は何て醜いんだろうか。何てくだらないんだろうか。
 
 自己嫌悪に顔が歪む前に、喜一は踵を返した。橘へと背を向けて、大股でずんずんと道を歩いて行く。
 
 
 悲しかった。一人になりたかった。独りぼっちになりたかった。この世界から消えてしまいたかった。わぁわぁと子供のように声をあげて泣きたかった。だが、橘の前では絶対に泣きたくなかった。矛盾する感情に、胸が押し潰される。
 
 
 数メートル進んだところで、肩に圧力がかかった。橘が押し止めるように喜一の肩を掴んでいる。
 
 瞬間、衝動が噴き出した。肩を掴む手を叩き落として、男の胸倉を掴み上げる。そのまま、コンクリートの壁へと橘の背を叩き付けた。橘が鈍く呻き声を漏らすのを遠く聞いて、喜一は激情のまま叫んだ。
 
 
「放っておけって言ってるのが解んねぇのかッ!」
 
 
 まるでチンピラのような言い草だ。絞め付けるように胸倉をギリギリと両手で絞って、鼻先が触れ合いそうなほど至近距離で橘を睨み付ける。憎悪がバリバリと身体の内側を食い荒らす。橘は苦しげに目を細めたまま、喜一をじっと見上げている。複雑な色が絡み合った切ない瞳だ。その眼差しに、心が震える。震えたくもないのに、唇も、膝も、指先も、震えが止まらなくなる。
 
 
「…もう、放っておいてよ…」
 
 
 懇願するように喜一は小さく漏らした。涙が出そうだった。泣きたくない。橘に弱いところを見せたくない。同情されたくない。可哀想な人間だと思われたくない。
 
 ガックリと項垂れた頭に、そっと温かい掌が触れるのを感じた。喜一の頭を抱き締めて、橘が耳元で淡く囁く。
 
 
「…放っておけないです」
 
 
 放っておきたくない。そう続けられた声に、堪え切れず頬を熱いものが伝った。溢れ出して、止まらない。嗚咽を必死で噛み殺して、喜一は橘の胸元に必死でしがみついた。溺れながら必死で浮き輪を掴んでいるような感覚だった。
 
 
「ごめんなさい…」
 
 
 何に対して謝っているのかも定かではなかった。ただ、謝りたかった。優しい男の胸に額を押し付けて、喜一は何度も何度も繰り返した。ごめんなさい、ごめんなさい、何でもかんでも好きだと口に出すけど本当は何も好きじゃない。意味もなく笑ったりはしゃいだりするけど本当はこんな世界に大嫌いだ。本当は、ただ――
 
 
「帰りたい…」
 
 
 涙で掠れた声で呟く。
 
 
「みーちゃんのところに帰りたい…」
 
 
 みーちゃんに会いたい。きいちっと弾むような声で呼んで欲しい。あのヘタクソな料理が食べたい。彼女の柔らかい身体をきつく抱き締めたい。だけど、帰れない。行こうと思えば行ける距離なのに、恥や罪悪感を捨てれば彼女にだって会えるはずなのに、どうしても帰れない。この場所に留まったまま、喜一は一歩も動けないままだ。
 
 
 頭を抱き締める橘の腕の力が強くなる。まるで祈るように喜一の頭を抱いたまま、橘は短く何かを呟いた。だけど、それを聞き取ることは出来なかった。掠れた声は、懺悔のようにも聞こえた。
 
 沈黙が流れる。時折街灯がパチッ、パチッと弾けるように点滅する音と、橘と自分の微かな呼吸音だけが聞こえてくる。橘の左胸へと静かに額を押し当てた。微かな鼓動が伝わってきて、その柔らかな振動に酷く心が安らいだ。
 
 
 ようやく涙が止まった頃に、喜一はゆっくりと橘から離れた。泣き過ぎたせいか目の周辺が変に痺れて痛かった。心配そうな橘の視線に、微かな苦笑いを返す。
 
 
「変なとこ見せて、…酷いことを言って、すいませんでした。もう平気ですから」
「家まで送ります」
「大丈夫ですってば。それより、あの一緒にいた女の子はいいんですか?」
 
 
 無理をして笑う。それが癖として染み付いている。だが、胸は刺すように痛んだ。
 
 
「あの人は、坂下さんは会社の同僚です。会社の皆で飲んでいる時に気分が悪くなったというので送っていたんですけど、もうタクシーを呼んで帰ってもらいましたから大丈夫です」
「あの子、きっと橘さんのことが好きだよ」
 
 
 喜一の何気ない一言に、橘が目を大きく開く。喜一は無理矢理笑みを深めた。頬が微かに痙攣しそうになるのを必死で抑え込む。
 
 
「ちっちゃくて可愛いし、真面目そうだし、橘さんとお似合いだと思う。付き合っちゃえばいいのに」
 
 
 軽口を漏らして、へらへらと笑う。そんな喜一を見て、橘は暫く口を噤んでいた。だが、不意に表情を歪めると、似つかわしくないほど低い声を漏らした。
 
 
「貴方は、僕に好きでもない人と付き合えって言うんですか?」
 
 
 怒気を滲ませた口調に、喜一は肩をひくりと揺らした。橘の目付きは尖っている。
 
 
「僕は、あの人に興味がありません。もし喜一さんの言う通り、坂下さんが僕に好意を持っていてくれるのだとしても、きっと僕自身に興味があるわけじゃない。だって、あの人は少し前まで僕には見向きもしなかった。社内でも一度も話したこともなかったのに、つい最近になってやけに話しかけてくれるようになって…」
 
 
 苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。橘もそんな表情が出来るのだと、喜一は初めて知った。そうして、優しい男らしかぬ残酷な一言に驚いた。興味がない、と一人の女をバッサリと切り捨てた橘は酷く冷酷だった。橘は、下唇を薄く噛んだまま言葉を続けた。
 
 
「喜一さんに言われたとおりにしたら吃驚するぐらい営業成績も伸びました。新規のお客様もここ数週間で信じられないぐらい増えて、すごく仕事が楽しくなりました。お客様も同僚もみんな優しくなって、皆しきりに僕は変わったって言うんです。生まれ変わったみたいだって。見た目が少し変わっただけで、中身は何も変わっていないのに」
 
 
 淡々と言葉を漏らして、橘はふっと自嘲するように唇の端を歪めた。
 
 
「嬉しかったですけど、腹も立ちました。見た目が変わった程度で、こんなにも扱いが変わるんだって。なら、今まで僕の中身を見てくれていた人は誰もいなかったってことです」
 
 
 橘が悔しそうに片目を眇める。だが、ふっと視線をあげると、喜一を真っ直ぐと見詰めた。
 
 
「少し前の僕を、素敵だと、好きだと言ってくれたのは喜一さんだけです」
「そんなの…ただの……」
「それが嘘でも冗談でも、お客に対するリップサービスでも構わなかったんです。僕は、喜一さんの言葉が嬉しかった。ただ純粋に、嬉しかった。僕は、貴方の言葉に救われたんです」
 
 
 救いという言葉を軽々しく口にする。違う、橘の言葉を軽々しいと喜一は思い込みたいのだ。それが本気であればあるほど、喜一は追い詰められる。こんな自分が誰かを救えるはずがない。こんな薄汚い自分に。
 
 
「だから、僕を救ってくれた貴方が苦しんだり、泣いたりしているのが辛い。僕は、貴方に幸せになって欲しいんです」
 
 
 悲鳴をあげそうになった。やめてくれ、と喜一は頭の中で喚いた。だが、声に出ない。唇を薄く震わせたまま、喜一は呆然と立ち尽くした。橘は、鞄からハンカチを取り出すと、喜一の額へと柔らかく押し当てた。刺すような痛みが走って、眉間にぐっと皺が寄る。
 
 
「家まで、送らせて下さい」
 
 
 そう呟くと、橘はまるで迷子の手を引くように喜一の手を掴んで歩き出した。喜一は家の場所を短く伝えると、黙って橘に付き従った。酷くゆっくりとした歩調だった。大の男二人が深夜にちまちまと歩いていることが可笑しくて、いっそ今状況を笑い跳ばしてしまいたかった。だけど、笑えなかった。指先を掴む橘の掌が温かい。ただ、それだけで涙が滲んだ。
 
 
 
 
 
 アパートの近くまで辿り着いたところで、ふと街灯の下に小さな影が立っているのが見えた。その影はきょろきょろと落ち着きなく左右を見渡しては、疲れたようにその場にしゃがみ込む。再び立ち上がっては、同じことを繰り返す。橘と喜一の姿に気付くと、力なくしゃがみ込んでいた影は素早く立ち上がった。
 
 
「きぃちゃん!」
 
 
 目を真っ赤に腫らした檸檬ちゃんが勢いよく駆けてくる。その腕には、橘からプレゼントされた犬のぬいぐるみがしっかりと抱き締められていた。
 
 
「きぃちゃん、どこ行ってたんだよ! 起きたらいねぇから、すげぇ心配して…」
 
 
 息巻いた言葉がそこで途切れる。喜一の額の傷を見ると、檸檬ちゃんは途端顔を蒼くして、傍らに立つ橘を突き飛ばした。よろめいた橘はコンクリ—ト塀へと軽く背中を打ち付けて、「いてっ!」と短く叫んだ。
 
 
「手前、きぃちゃんに何したんだよ!」
 
 
 檸檬ちゃんは殆ど涙声だった。怒鳴りながらも鼻をぐずぐずと啜る様子は、まるで喧嘩した小学生のようだ。
 
 
「れっちゃん、違う。橘さんは何もしてない。俺を送ってきてくれたんだよ」
 
 
 そう優しく諭すと、檸檬ちゃんは一瞬ハッと息を呑んで、それから橘へと勢いよく頭を下げた。
 
 
「ごめんなさい、あたし、てっきり…」
「あの、僕は大丈夫ですから、気にしないで下さい」
 
 
 橘が弱々しく微笑む。檸檬ちゃんは暫く申し訳なさそうに橘を見詰めていたが、ふっと喜一へと目を戻すと眦を吊り上げた。
 
 
「どこ行ってたんだよ。あたしに黙って」
 
 
 よっぽど喜一を心配してくれたのだろう。檸檬ちゃんの目は、出掛ける前よりも赤く充血していた。犬のぬいぐるみを抱き締めていたのも、檸檬ちゃん自身が不安だったからなのかもしれない。
 
 喜一はポケットに入れていたコンビニ袋を、檸檬ちゃんへと差し出した。
 
 
「何だよ、お菓子でも買ってきたのかよ」
 
 
 訝しげな表情を浮かべて、檸檬ちゃんがコンビニ袋を受け取る。そうして、中身を見た瞬間、檸檬ちゃんの顔が一瞬にして強張った。林に奪われたはずの通帳や印鑑にクレジットカード、それを見ただけで檸檬ちゃんは何が起こったのか、喜一が何をしたのかを瞬間的に理解したのだろう。檸檬ちゃんの薄い唇がわなわなと震える。
 
 
「な、んでだよ…」
「何でって…だって、これはれっちゃんのものだ。だから、取り返してきた」
「こんなことしなくていいんだよ!」
 
 
 言葉が叩き付けられる。怒りに染まった檸檬ちゃんの瞳が喜一に突き刺さる。檸檬ちゃんの憤怒の形相に、喜一は息を止めて、一歩後ずさった。だが、檸檬ちゃんの怒りの発露はその一瞬だけだった。
 
 
「きぃちゃんは…こんなことしなくていいんだよ…。怪我までして…こんなんいらねぇよ……」
 
 
 掠れた声で呟いて、檸檬ちゃんはとうとう泣き出した。ぽろぽろと小粒の涙を零しながら、その細い指で通帳をぐしゃぐしゃに握り潰す。
 
 
「金なんか、また貯めれんだよ……きぃちゃんとは比べようもねぇんだよ…」
 
 
 そう呻くように零して、檸檬ちゃんが喜一の額へと手を伸ばす。傷口に触れないように、その周りをゆっくりと撫でて、檸檬ちゃんはまた顔をくちゃくちゃに歪めた。
 
 
「ごめんな、きぃちゃん…ごめん……あたしのせいだろ……あたしのせいで…」
「れっちゃん、泣かないで。全部俺が勝手にやったんだ」
 
 
 頬を伝う檸檬ちゃんの涙を指先で拭って行く。拭う端から溢れるから、喜一の指はすぐにびしゃびしゃに濡れそぼった。
 
 
「なんで…なんで、こんなことまでしてくれんだよ…」
 
 
 檸檬ちゃんの疑問に、喜一は迷いなく答えた。
 
 
「れっちゃんが大事だから。一番大好きな友達だから」
 
 
 檸檬ちゃんはきっと知らない。檸檬ちゃんの存在がどれだけ喜一を慰めてくれたのかを。身体を売り始めた時に、喜一に優しくしてくれたのは檸檬ちゃんだけだった。ただ一人、喜一を罵らず、嘲らず、ただ笑って傍に居てくれた。その無償の優しさを、喜一はきっと一生忘れない。
 
 
「きぃちゃん…」
「ほら、もう部屋に戻って寝よ? 怪我が直ったら、またホルモン汁食べに行こうよ」
 
 
 そう言うと、檸檬ちゃんは小さな子供のように何度も頷いた。嗚呼、檸檬ちゃんには幸せになって欲しいと、その瞬間喜一は強く思った。そうして、同時に別の感情も湧き上がった。
 
 喜一はゆっくりと橘へと視線を向けると、どこか諦めたような疲れたような笑顔を向けた。
 
 
「橘さん」
「はい」
「もう、お店に来ないで下さい」
 
 
 そう静かに告げる。どうして…とでも言いたげに唇を半開きにしたまま、橘が泣き出しそうに顔を歪める。
 
 
 橘に会うほどに、優しさや失われた幸福を思い出して喜一は苦しくなる。思い出が喜一をゆっくりと蝕んで行く。
 
 幸せがコップから溢れ出す瞬間を、喜一は二度と見たくはない。どうせ失うのなら、初めから何も手に入れたくなんかない。だから、橘がどれだけ喜一が幸せになることを願っても、それは無意味なのだ。喜一は幸せになんてなりたくないのだから。
 
 

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