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15 煙草

 
 夏が終わって、静かに初秋が訪れていた。昼は暖かいが、朝夕がやけに肌寒い。仕事帰りの寒さに耐え切れなくなって、喜一は千九百八十円の地味なコートを一着購入した。夜眠る時は新聞紙を三紙重ねるようにもした。
 
 ミルフィーユのように何層にも重ねた新聞紙の間に挟まって、朝日の中で浅い眠りに落ちる。目が覚めれば、再び仕事へ向かう。見知らぬ男に抱かれて、喘ぎ声を咽喉を嗄らして張り上げる。痣の消えた檸檬ちゃんと時々ホルモン汁を食べにいく。田中さんからアイスを貰う。真砂さんに首を絞められる。専属の話を、苦笑いを浮かべて受け流す。決められた毎日を、へらへらと何も気にしていないふりをして漫然と生きていく。
 
 
 橘とは会っていない。気付けば、最後に顔を見てから一ヶ月が過ぎていた。もう二度と会うこともないだろうと、喜一は安堵とも落胆ともつかない感情を無闇に持て余した。寂しいと微かに思ったが、寂しいと感じる権利すらもう自分にはないということも解っていた。
 
 
 
 
 
 客から指定があるまでの間の時間は、休憩室で過ごすことになっている。指名がなければ、ひたすら何時間も待機し続けることも稀にある。その間の時間を、女の子達は携帯をいじったり、お菓子を食べながらお喋りをしたり、床に放り出された雑誌を読んだりして過ごしている。喜一は、女の子がいれば喋って時間を潰すが、誰もいなければ休憩室の隅に置かれた仮眠用のマットで眠るようにしている。マットからは女の子達の汗の臭いがほのかに感じられた。
 
 
 その日も三人目の客の相手が終わって次の客がつくまでの間、マットで仮眠を取っていた。どれぐらい眠っていたのか判らない。脱力し切っていた身体にどすんと衝撃を受けた。誰かが喜一の肩先を蹴り飛ばしている。それでも、目蓋を開かずにいると、額を爪先でこつんと叩かれた。
 
 
「邪魔」
 
 
 霧がかった意識に、誰かの不機嫌そうな声が鈍く響く。薄っすらと目を開くと、盛大に顰められた眉根が見えた。マリーさんはその厚ぼったい唇の端に煙草を咥えて、酷く汚らしいものでも見るかのように喜一を見下ろしていた。
 
 
「…あ…何ですか…」
「アンタ、邪魔」
 
 
 寝ぼけ声で問い返せば、先ほどと同じ威圧的な言葉が投げつけられる。もう一度肩先を蹴り飛ばされて、マットの上を否応なく転がされる。すると、マリーさんは腰を屈めて喜一が下敷きにしていた一冊の雑誌を拾い上げた。半年も前に出版された十代向けファッション雑誌だ。
 
 屈んだ瞬間、真っ赤なブラジャーとパンツしか身につけていないマリーさんの身体の肉がぶよんと隠微に蠢くのが見えた。柔らかくて、どこか自堕落な肉付きだ。だけど、決して嫌ではない。むしろ、その揺れる肉からは奇妙な安心感すら感じられた。
 
 
 マリーさんはパラパラと雑誌のページをめくって、それからどすんと音を立てて足の低い机の前に腰を落とした。片手でせわしなく煙草を吸いながら、怒ったような表情で雑誌を眺めている。視線は雑誌へ落ちているが、その眼球は殆ど動いていなかった。喜一を起こしてまで雑誌を取っておきながら、実際は大して読みたいわけでもなかったのだろう。
 
 
 喜一は大きく欠伸を零してから、マットから身を起こした。途端、眠っている間に身体に染み付いた女の子達の臭いがふわりと立ち昇った。甘いような、酸っぱいような、複雑な香りだ。
 
 時計を見ると、仮眠を取り初めてから三十分ほど経っていた。呼び出しの電話が鳴る気配はない。
 
 マットからずるりと這いずるように下りて、テーブルを挟んだマリーさんの向かい側に座り込む。マリーさんはちらりと視線をあげたが、何も言わずに再び雑誌へと視線を落とした。時々、大量の紫煙を鼻や口から吐き出す。その姿がまるで機関車のようにも見えて、喜一は微かに頬を緩めた。
 
 
「何笑ってんのさ」
 
 
 驚きのあまり肩がビクンと跳ねてしまった。マリーさんは下を向いているのに、どうして喜一が笑っていることが解ったのか。
 
 
「マリーさんって、目玉もうひとつあるんですか?」
「何言ってんのアンタ。馬鹿じゃない」
 
 
 軽く漏らした冗談を、すげなく叩き落とされる。この店で働き初めて一年。一年も一緒にいれば、大抵の人間は慣れ親しんで態度か軟化してくるものだが、マリーさんだけは喜一に対して拒絶の一点張りだ。嫌悪感を一切隠そうともしない姿は、ある意味清々しいまでの潔さがある。だから、どれだけ憎まれても、喜一はマリーさんのことを嫌いにはなれない。自分のように上辺だけへらへらしている人間よりも、よっぽど信頼できる強い人だと思う。
 
 
「マリーさんって、俺のこと嫌いですよね」
「当たり前じゃない。嫌いよ」
「何で嫌いなのか聞いてもいいですか?」
「駄目」
 
 
 紫煙を吐き出しながら、マリーさんは一息に会話を断ち切った。雑誌のページを捲りながら、視線を向けることもなく吐き捨てる。
 
 
「自分で考えな」
「自分が嫌われてる理由を考えるのって、結構しんどいですよ」
「しんどくなきゃ成長にならない」
「成長」
 
 
 物珍しい単語でも聞いたかのように、喜一は目を見開いた。まさか人生の辛酸を舐め尽くしたような風俗嬢が『成長』なんてポジティブな単語を口にするとは思いもしていなかった。
 
 
「成長、ですか」
「そうよ、成長しない人間はいないでしょう」
 
 
 当たり前のように答えて、マリーさんは短くなった煙草をクリスタルの灰皿へと放り投げた。灰皿の底には、ニコチンを目一杯吸い込んだ茶褐色の水が溜まっている。水へと落ちた煙草は一瞬ジュッと短い悲鳴をあげて、他の吸い殻と同じように水の底へと沈んでいく。
 
 吸い殻の行く末を見ることもなく、マリーさんは二本目の煙草を取り出した。手垢で光る古びたジッポで火を付けて、ふぅと真新しい白い息を吐き出す。その慣れた仕草が様になっていて格好良かった。
 
 
 喜一も一年前までは煙草を吸っていた。煙草嫌いなみーちゃんのために何度も禁煙を試みたけれども、結局一週間も経たずに挫折するのが常だった。それなのに、みーちゃんと別れてからは一本も吸っていない。煙草を吸いたいという欲求がそれこそ煙のように一瞬で消えてしまったのだ。別れてから禁煙出来るなんて、随分皮肉なものだ。
 
 
「マリーさん、俺にも一本くれませんか?」
 
 
 気まぐれに強請ってみる。マリーさんは不快げに眉根を寄せた。
 
 
「アンタのこと嫌いって言った人間に、随分図々しいこと言うもんだね」
「俺のこと嫌いな人だからお願いできるんです」
 
 
 淡々と答えると、マリーさんは嘲りじみた笑みを口角に滲ませた。
 
 
「馬鹿な奴」
 
 
 そう短く漏らしながらも、煙草の箱を喜一へと差し出してくれる。一本引き抜いて、机の上に置いてあった使い捨てライターで火をつける。舌の上に、一年ぶりの苦味が広がった。途端、懐かしさとも悔恨ともつかない感情が心臓の内に鈍く込み上げた。
 
 
 一年前は、部屋のベランダでよく煙草を吸っていた。部屋の中では、みーちゃんがベッドに寝転がって本を読んでいる。紫煙を吐き出しながら、パタパタと両足を交互に跳ねさせるみーちゃんを愛おしく眺めていた。喜一の視線に、みーちゃんが気付く。困ったような、窘めるような目付きで喜一を見つめ返す。少し躊躇った後、喜一と短く呼ぶ。煙草を消して、部屋へと戻ってみーちゃんをきつく抱き締める。それだけで息が止まりそうなくらい満たされる。
 
 
 惨めな懐古だ。もうあの日々には戻れない。
 
 目蓋の裏にみーちゃんの姿が思い浮かぶ。いつもと同じように顔はのっぺらぼうのままだ。たった一年しか経っていないのに、喜一はもうみーちゃんの顔が思い出せない。真っ白なみーちゃんの顔に、残像のようなものが淡く重なる。その残像は次第に誰かの顔へと変化していく。
 
 紫煙を吐き出して、一度ゆっくりと瞬く。
 
 嗚呼、これは橘だ。橘の微笑む顔が見えた。みーちゃんの姿と橘の姿が目蓋の裏で次第に融解して、一つに重なっていく。
 
 
 みーちゃんに会いたかった。
 橘に会いたかった。
 どちらに会いたいのか解らなかった。
 でも、もうどちらにも会えなかった。
 壊したのは自分自身だ。
 
 
 慣れた自己嫌悪に、胃の辺りがキリキリと締め付けられるように痛む。
 
 無性に寂しかった。寂しくて堪らなかった。頭の中から、あの二人の姿を消したかった。消えて、と願った。祈った。それでも、消えない。心臓の奥に染み付いて、離れない。
 
 
 マリーさんがまじまじと喜一を眺めている。苛立ったように舌打ちを零すと、マリーさんはティッシュ箱をぞんざいに喜一へと放り投げた。
 
 
「泣いてんじゃないよ馬鹿たれ」
 
 
 言われて、初めて自分が泣いていることに気付いた。頬の上を涙がゆっくりと伝っている。煙草のフィルターが涙で湿り始めている。慌てて煙草を離して、ティッシュをひっ掴んで鼻をかむ。涙がぽろぽろと溢れて止まらない。
 
 そんな喜一を見て、マリーさんはひくりと頬を引き攣らせた。
 
 
「アンタ、涙は他人に対する脅しだって解ってる?」
「すいません…」
「うっざ」
 
 
 そう吐き捨てて、マリーさんは半分しか吸っていない煙草を灰皿へと押しつけて休憩室から出ていった。
 
 がらんとした部屋の中、喜一は暫く呆然とマリーさんが出ていった扉の方を眺めていた。指先に挟んだままの煙草がどんどん灰になっていく。とうとう灰が重力に負けて、膝頭の上に落ちた。膝を汚す灰を見下ろして、喜一は小さく溜息を吐いた。涙は、まだ止まらない。
 
 

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