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16 崩れる

 
 涙を流してから数日後のことだった。喜一は、無言のまま扉の前で立ち尽くしていた。
 
 
「何で、来たんですか」
 
 
 言葉は問い掛けというよりも拒絶に近かった。扉の外側でこちらをじっと見ている男に、厳しく突き付ける。もう来るなとはっきり言ったのに、何故こうもこの男は人の言葉を裏切るんだ。歯痒さにも似た苛立ちに、喜一は立ち竦む橘をキツく睨み付けた。橘は数回瞬くと、ゆっくりとした声で答えた。
 
 
「来たかったんです」
「理由になってません。俺は、もう店には来ないで下さいと言ったはずです」
「はい、それは解っていたんですけど…」
 
 
 歯切れ悪く呟いて、橘が疲れたように俯く。一ヶ月ぶりに見た橘は、何処かやつれているように見えた。表情や立ち姿に覇気がない。以前の率直な喜怒哀楽はなりを潜めて、陰鬱な表情が顔面にべっとりと貼り付けている。
 
 
「帰って下さい」
「帰りたくない、です」
 
 
 つまらない押し問答だ。一瞬、刺々しい沈黙が流れる。いっそボーイでも呼んで、邪魔な客として引き摺り出してもらうべきか。だが、そこまでするのは流石に忍びなかった。片足で貧乏揺すりをする喜一を見て、橘は鈍く溜息を吐くと泣き笑うような表情を滲ませて言った。
 
 
「少し眠らせてくれませんか? ここ最近ずっと寝付きが悪くて…疲れが取れないんです…」
 
 
 そう弱々しく笑う橘の目の下には、確かに薄っすらと隈が浮かんでいた。顔も心なしか青白い。その姿を見れば、僅かに心が揺らいだ。邪険に追い返すには、今の橘の様子は不安だ。もう二度と会わないと決めたのに、自分とは無関係な人間のはずなのに、弱っている姿をみれば心配してしまう。
 
 喜一は数秒迷ったあげく、橘を部屋の中へと促した。
 
 
「解りました。でも、起きたらすぐに帰って下さい」
 
 
 冷たい言葉を口にするのは、自分の決心をこれ以上揺らがさないためだった。それに対して橘は、はいともいいえとも取れるように曖昧に首を動かした。
 
 睡眠とは違う目的を持つベッドに横たわると、橘はそのまま脱力して目を閉じた。呼吸音が酷く小さくて、本当に生きてるのか不安になるような様子だった。
 
 
 喜一は、仕方なくベッドを背にして床へと座り込んだ。そうして、意味もなくベッドサイドの時計をちらちらと身遣ったりする。今はまだお店が開いたばかりの時間で、喜一も橘が今日初めてのお客だった。誰と身体を絡み合わせたわけでもないのに、もう既に精神は疲労困憊している。優しい人を無碍に扱うのがこんなに疲れるだなんて、橘に会うまでは考えもしなかった。
 
 早く時間が過ぎればいい。できるだけ迅速に目の前から消えて欲しい。これ以上、人の心を掻き乱さないで欲しい。そう祈りながら、膝を両腕で頼りなく抱える。掌でゆるゆると剥き出しの膝頭を撫でて、それから膝の間に顔を埋めた。目を閉じて、ただただ時間が過ぎることだけを祈る。それなのに、こういう時に限って、じれったいぐらい時間が経つのが遅かった。意味もなく何度も時計を見て、その度に溜息を押し殺す。一分が一時間のようにも感じる。背後の浅い呼吸音に、こちらまで息が詰まりそうになる。
 
 
 時計を見続けるのが嫌になって、肩越しに背後のベッドを軽く見遣る。青白い顔をした男は、死んだように眠っている。よっぽど疲れていたのだろう。左右の部屋からは女の子達の嬌声が響いてくるのに、橘が起きる気配はない。
 
 仕事が随分としんどいのだろうか。それとも、見た目がよくなったせいで女の子達に奪い合いでもされて心労が溜まっているのだろうか。何にしても自分のせいな気がした。もしかしたら、橘は前のまま野暮ったい姿でいた方が幸せだったのかもしれない。仕事も恋愛もヘタクソで、ただ素直でとびきり優しいだけの男でいただけの方が。その方が見た目一つで露骨に態度が変わる他人の薄汚さを知らずに済んだだろう。喜一と会わなければ、橘の人生はもっと優しいものになっていた気がした。見違えるほど格好良くなった男を眺めて、そんな事を考える。
 
 不意に、堪えようもなく罪悪感が沸き上がった。面白半分に他人を玩具のように弄くって、改造計画だなんて馬鹿みたいに笑って、そうして無責任に放り出した。もう来るななんて、自分の方が何様のつもりだ。何ていい加減な、最低なことを――
 
 気付いたら、懺悔するように橘の掌を両手で握り締めていた。
 
 
「ごめんなさい」
 
 
 額をベッドマットに押し付けて、くぐもった声で囁く。ごめんなさい、ごめんなさい、何回言ってもきっと足らない。もう自分でも数が数えられなくなってきた時、不意に掴んでいた掌に力が篭もった。
 
 
「…どうして、謝るんですか?」
 
 
 寝ぼけ眼な男がぼんやりと喜一を見つめている。その眼差しを見つめ返して、喜一は呻くように言った。
 
 
「俺は、橘さんに酷いことをしました」
「何を…? 僕は喜一さんに酷いことなんかされてません」
 
 
 そう言いながら、気だるそうに起きあがる。ベッドの縁に腰を掛けると、橘はそっと喜一を見下ろした。疲れた顔なのに、その口元は優しげな微笑みを浮かべている。
 
 
「僕は、喜一さんに嬉しいことばかりして貰っています」
「嘘です」
「嘘じゃないです」
 
 
 首を左右に振りながら、柔らかく否定される。その声が温かくて、胸が酷く締め付けられる。胸の痛みが堪えきれなくなって、咄嗟に俯く。そうしていると、橘の掌がそっと喜一の耳元を擽った。
 
 
「喜一さんが僕を褒めてくれて、僕を認めてくれて、初めて僕は自分に自信が持てたんです。顔をあげて、人の目をみて喋ることが、はっきり気持ちを伝えることがどれだけ大事なのか解りました。今まで、つまらない、情けないと卑下してばかりな自分が馬鹿馬鹿しいと思えて、ようやく前を向けたんです。全部喜一さんのおかげです」
 
 
 拙いながらに真摯に言葉を紡ぐ男の姿に、涙腺が微かに潤む。黙って肩を小刻みに震わせると、宥めるように肩を柔らかくさすられた。淡く沈黙が流れ、橘が思い出したようにぽつりと呟いた。
 
 
「…この一ヶ月間、ずっと貴方のことを考えてました。何を食べてるんだろうかとか、もう泣いたりしてないのかなとか…」
 
 
 ふふ、と短く笑う声が聞こえる。それなのに、次の瞬間、その声が一気に尖り、喜一へと突き刺さった。
 
 
「それに、今頃誰か知らない人に抱かれてるのかって」
 
 
 穏やかだった声が不意に鈍く澱む。肩を優しく撫でていた掌が喜一の下顎を掴んで、ぐいと乱暴に引き上げた。俯いていた視線を無理矢理上げられる。途端、こちらを睨み付ける剣呑な眼差しと視線が合って、喜一は硬直した。
 
 
「想像するだけで、腸が煮え繰り返りました。貴方が誰かに触れられていると思うと、居ても立ってもいられなくて、貴方を抱いた男を全員殴り殺してやりたいと思いました」
 
 
 噛み付くような橘の口調に、ぞわりと背筋が粟立つ。普段の柔らかさなど欠片もなく、橘は獰猛な雄のオーラを放っていた。橘は腹立たしげに奥歯を噛み締めていたが、暫くすると遣る瀬なさそうに溜息をついた。
 
 
「こんな狂暴な感情を抱いたのは初めてです。今まで誰かを殺したいだなんて一度も思ったこともなかったのに…どうして、こんな…」
 
 
 戸惑ったように橘が呟く。掴んでいた喜一の下顎をそっと離すと、硬直する喜一の唇を親指の腹で淡く撫でる。その感触に、喜一はビクッと肩を揺らした。ヘたり込んだまま後ずさりしようとすると、押し止めるように左腕をきつく掴まれる。
 
 
「この気持ちは何ですか? 何て呼んだらいいんですか?」
 
 
 迷子になったように問い掛けてくる声に、喜一は息を呑んだ。喜一は、橘の口から“それ”を聞きたくなかった。一度耳にしてしまえば、今まで喜一が積み上げてきたものすべてが壊れてしまう。
 
 橘は、喜一を真っ直ぐ見つめている。懇願するような視線が苦しくて堪らなくなる。
 
 
「俺に、聞かないで下さい。自分で考えればいいじゃないですか」
「喜一さんに教えて欲しいんです」
 
 
 何を甘えたことを言っている。それとも、これも確信犯なのか。あえて喜一に答えさせることで、逃げ道を潰そうとしているのか。もう橘の本心が見えなかった。
 
 あまりの息苦しさに押し潰されそうになった時、デジタル時計の数字が視界の端に入った。
 
 
「もう、時間です。帰って下さい…」
 
 
 掠れた声でそう告げる。もう終わりだ。これで帰ってくれる。そう安堵しながら、腕を掴む掌を剥がそうと指先を伸ばす。だが、橘はちらりと時計を見ると、酷く醒めた声でこう言った。
 
 
「それじゃあ、延長します」
 
 
 喜一は目を剥いた。唇をぱくぱくと何度か開閉させて、それから泣き出しそうに顔を歪める。
 
 
「だ、めです」
「どうしてですか? このために貯金全部おろしてきました。一晩中でも延長します」
 
 
 頑なで執拗な男の言葉。まるで脅しのようだ。喜一は額を掌で押さえると、呻くように呟いた。
 
 
「一体、何がしたいんですか…。何て言ったら、橘さんは満足するんですか…」
 
 
 ここを何の店だと思ってるのか。ここは学校でもなければ、教会の告解室でもないのだ。ただ人形のように振る舞っていればいいだけの世界に、どうして感情を求めようとするのか。何で無遠慮に心を掻き乱す。喜一はただ静かに沈んでいきたいだけなのに。
 
 
「僕は、ただ貴方の気持ちを聞きたいだけです」
「俺には、気持ちなんかないです。俺なんてチンコ突っ込まれるだけの肉みたいなもんですよ。そんなものに一体橘さんは何を求めてるんですか」
 
 
 自嘲するように吐き捨てる。橘の顔が微かに歪む。その唇から「帰る」という言葉が出て来るのを待ってる。願ってる。それなのに、橘は喜一の腕を離そうとしない。。込み上げてきた悔しさとも憎らしさともつかぬ感情に、喜一は橘を睨み付けた。
 
 
「延長したって、俺を抱きもしないくせに」
 
 
 それはまるで恨み言のようにも聞こえた。自暴気味に苛立ちを叩き付ける。だが、橘は怒り出すわけでもなく、黙って喜一を見つめた。息を吐き出す微かな音の後、淡く震えるような声が聞こえた。
 
 
「もし、喜一さんが僕を嫌いでなければ、少しでも好きだと思ってくれているなら……触れたいです」
「は?」
「貴方を、抱きたいと思っています」
 
 
 甘さなど欠片もない、酷く思い詰めたような口調だった。橘は喜一から目を逸らさない。だが、喜一の腕を掴む掌は微かに震えていた。だから、喜一はそれが冗談ではないのだと悟った。悟った瞬間、あぁ、と声が漏れそうになった。一瞬、目の前が真っ暗になる。
 
 ひくりと口角を引き攣らせて、乾いた笑いを漏らす。
 
 
「橘さん、ダメだよ。初めては好きな人としないとさ」
 
 
 橘の言葉を冗談にしたかった。足掻くように笑って言うと、震える指先にきつく両手を握り締められた。
 
 
「はい。だから、貴方としたいんです。喜一さんと、したい」
 
 
 隠しようもなく情欲が滲んだ声音に、皮膚が戦慄く。熱を孕んだ眼差しが喜一に突き刺さる。その切実な瞳に息が止まった瞬間、一番恐れていた言葉が聞こえた。
 
 
「貴方が好きです。息が止まりなくらい、貴方が好きで堪らない」
 
 
 目蓋の裏に、幸せが溢れ出すコップの光景が蘇る。咄嗟に、やめろと叫びそうになった。やめて、やめて、やめてくれ、お願いだから、俺のコップに幸せを注ごうとしないで。
 
 橘の唇は震えていた。強気な態度が嘘のように、橘の目は怯えを色濃く滲ませている。
 
 
「一ヶ月間、ずっと考えていたんです。何をしてても喜一さんの顔が浮かんで、嬉しくなったり、寂しくて堪らなくなったり、それなのに会えないのが辛くて……。仕事中に何度も転ぶし、眠りたくても眠れないし、久々に会った家族からも、どうしたんだって心配されて…今まで生きてきて一番悩みました。でも、どれだけ足掻いても結論は同じでした。僕は喜一さんが好きなんです。本当に、心から」
 
 
 泣き出しそうに歪んだ顔を見つめて、喜一は微動だに出来なかった。橘は、掴んだ喜一の両手へと祈るように額を押し当てた。
 
 
「喜一さんは、僕のことが嫌いですか? 話すのも、一緒にいることすらも嫌ですか? もし、そうならもう二度とここには来ません。貴方を、諦められるように努力します。でも、もし貴方が少しでも僕のことを好きでいてくれるのなら…僕と同じ気持ちを欠片でも抱いてくれているのなら…触れさせて欲しいんです」
 
 
 切実な声音に、ぐらぐらと脳味噌が揺れる。どうして、金で身体を売る人間に、こんなにも誠実な言葉をかけることが出来るのだろう。
 
 
「…俺は、汚いです。橘さんには相応しくない、と思います」
 
 
 咽喉を振り絞ってやっと出した言葉がそれだった。急に噴き出してきた罪悪感ともつかない怖気に、掴まれた手を振り払う。ぶるぶると唇を震わせながら、言葉を続ける。一度口に出すと、もう止まらなかった。堰を切ったように溢れて来る。
 
 
「もし本気で俺のことが好きだって言うなら、橘さんは可哀想な人です。男が好きだなんて心底不毛ですよ。付き合ったところで家族にも友達にも紹介できないし、勿論結婚もできなければ子供なんて産まれるはずもない。どうせいつかお互いに嫌気が差す。よしんば愛情が一生続いたとしても、どっちかが先に死んだら残った方は孤独死です。ホモの孤独死なんて、そりゃ痛ましいもんですよ。そんな惨めな一生を送ってもいいって言うんですか」
 
 
 マイナスが口をついて溢れる。現実を突き付けるように吐き出して、橘を見据える。世の中はあんたが考えるほどロマンチックじゃない。
 
 そうだ、真っ当な人生を送れる橘がその人生をふいにしてまで自分のようなクズにすべてを捧げるなんて耐え切れない。他人からホモだと罵られ、親兄弟に永遠に秘密を抱えるだなんて絶対に嫌だ。そんな橘を見たくない。自分のせいで橘を貶めたくない。この優しい男を死んでも不幸にしたくない。橘がそれを許容したとしても、喜一には耐え切れない。
 
 橘は切なげに目を細めている。だが、ゆっくりと首を左右に振ると、静かに答えた。
 
 
「もし貴方に愛されるなら、僕は惨めじゃない。一生、惨めにはならない」
 
 
 自分の求める道を知る、迷いのない声だった。その言葉に、喜一は一瞬身体を硬直させて、それから一気に脱力させた。この男は、何処までも正しい。正しいからこそ喜一はただひたすら苦しい。橘はゆっくりと瞬いた。
 
 
「ねぇ、喜一さん、僕だって考えています。もし貴方と上手くいけば、きっと僕は一生自分の子供を見ることはないんでしょう。もし貴方が先に死ねば、僕を看取る人は誰もいないかもしれない。その逆だってあり得る。僕は、貴方を孤独にしてしまうかもしれない。解ってます。解ってるんです。…それでも、貴方が好きです。喜一さんが好きです。体面や将来のことを考えて、貴方への気持ちを見て見ぬふりをしたら僕は一生後悔する。あの時、貴方に思いを打ち明けていればと後悔しながら死んでいくんです。その方がずっと辛くて、惨めです」
 
 
 唐突に、橘がガックリと項垂れる。そうして、まるで子供のような声が聞こえた。
 
 
「どうか貴方を好きになるのを許して下さい。どうしようもない…どうしようもないんです…」
 
 
 苦しげな、切ない哀願だった。潤んだ瞳が縋り付くように喜一を見詰める。
 
 
「……僕のことをどう思っていますか?」
 
 
 悲しげな声に、心がぼろぼろと崩壊していくのが解った。喜一が頑健に作り上げた壁を、この男は優しい顔をして叩き壊して行く。何も欲しくない。何も好きじゃない。それなのに、どうして与えるのか。どうして……好きにさせるのか。ずっと考えないようにしてきた感情に、無理矢理答えが出される。
 
 
 好きだ。嗚呼、好きだ。橘が好きで堪らない。どれだけ否定しても、導き出される感情の意味はたった一つだった。優しくしたくなるのも、橘の姿が昔の彼女と重なって涙が出てくるのも、ただ橘が好きだからだ。そう自覚した瞬間、喜一は絶望した。もう誰も好きにならないと心に誓っていたのに、こんなにも脆く崩れて――
 
 
 それなのに、橘に愛されて嬉しくて、こんなにも満ち足りているのに、不安で堪らない。コップの中に幸せが注がれて行く。溢れ出してしまう。
 
 
「やめて…」
 
 
 唇から弱々しい拒絶の言葉が零れる。床に座り込んだまま、喜一は両手で頭を抱えた。
 
 
「教えて下さい、僕をどう思っているか」
 
 
 肩を掴まれて、執拗に問い掛けられる。頭を抱えたまま、首を左右に打ち振る。
 
 
「出て行って…出て行って下さい」
 
 
 足掻くように、そう懇願する。橘が息を呑む音が聞こえた。
 
 
「喜一さん」
「お願い、です。お願いします。もう来ないで下さい」
 
 
 橘の顔を見ないようにして、ただ阿呆の一つ覚えのように繰り返す。そうしていると、ふっと肩を掴む掌の感触が消えた。ベッドの軋む音が聞こえて、橘が立ち上がったのを把握する。足音がへたり込む喜一の横を通り過ぎて、背後から扉が閉まる音が響く。
 
 
 その音が聞こえた瞬間、喜一は蹲って嗚咽を零した。咽喉を震わせて、涙をぽろぽろと零す。橘が出て行ってしまった。もう二度と来ない。それが望みだったはずなのに、叶った瞬間、震えるような後悔が襲ってきた。好きなのに。こんなにも好きなのに。あんなに愛しい男には、もう二度と出会えない。
 
 床に額を押し付けたまま、心臓を引き絞るような未練を必死で堪える。今直ぐ出て行った男を追い掛けたい。さっきのは嘘だと、本当は好きなんだと縋り付いて叫びたい。抱き着いて、貴方に抱いて欲しいと強請りたい。好きな人に、たった一度でいいから抱かれたい。そう願っている。そんな自分が一番馬鹿だった。
 
 拭い切れない悔恨が滅茶苦茶に心を掻き乱す。優しくて甘いはずの恋心が自分を切り刻んで行く。
 
 
 不意に、扉が開く音が聞こえた。振り向くと、そこには出て行ったはずの男の姿があった。橘は、涙で顔をぐちゃぐちゃにした喜一を見ると、途端怒ったように顔を歪めた。足取り荒く喜一へと近付くと、腕を掴んでへたり込む身体を無理矢理引き摺り上げる。そのまま、ベッドへと押し倒されて、真上から怒鳴りつけられる。
 
 
「僕のことが好きなら、好きだと言えばいい!」
 
 
 両肩を掴まれて、噛み付くように叫ばれる。喜一は呆然としたまま、橘の顔を見詰めた。もう押さえ切れなかった。唇が勝手に動いた。
 
 
「好き、です…」
 
 
 囁いた瞬間、唇が奪われた。荒々しい口付けに、呼吸さえも呑み込まれる。すぐに咥内に舌が潜り込んで来て、喜一の舌を絡め取った。くちゃくちゃと舌と唾液が絡まり合う音が響く。喜一は夢中になって、口付けに応えた。粘膜を擦り合わせて、流れ込んでくる唾液を咽喉を鳴らして呑み込んだ。今キスをしているのが橘だと思うだけで、全身の皮膚が燃えるように熱くなった。
 
 唇が緩やかに離れて行く。涙に濡れた目許を、橘の指先がそっと撫でる。
 
 
「好きです。貴方以外、何も要らない」
 
 
 目尻に滲んだ涙を、唇で優しく吸われる。その瞬間、喜一は陥落した。目の前の優しい男に、心を奪われて行く。
 
 
「俺も、橘さんのことが好きです」
 
 
 そう囁いて、くしゃくしゃになった顔で泣きながら微笑む。
 
 
 終わる。崩れる。何もかも。だけど、こんなにも幸福で――
 
 
 不意に呻きそうになった。自分は同じ事を延々と繰り返している。誰かを好きになって、幸せになって、そうして最後には幸せが怖くなって逃げ出す。いつか、橘からも逃げ出すのだろうか。みーちゃんの時と同じように。
 
 愛しい男の背を抱き締めながら、喜一は溢れ出す涙を橘の肩へと押し付けた。
 
 

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