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19 真実は

 
「一緒に暮らしませんか?」
 
 
 風呂から出て、まるで母親のように橘のネクタイを締めている時にそう話を切り出された。喜一は、一瞬言われた意味が解らず、不思議そうに橘を見詰めた。橘の顔は、先ほどまでの和やかさを失って、緊張に強張っている。その顔を見て、喜一は少しだけ笑って、橘の頬を指先で摘んだ。
 
 
「顔、カチカチですよ」
「ほんき、にゃんでふよ」
 
 
 頬を摘まれたままのせいで変な言い方になっている。パッと頬から指先を離すと、橘は片手で頬を擦りながら真っ直ぐ喜一を見詰めた。
 
 
「僕はまだ新入社員で、それほど給料も高くないし、喜一さんに贅沢はさせられないかもしれません。でも、できるだけ不自由はさせないようにします。世界で一番、貴方を大切にします。だから、僕と一緒に暮らして欲しいんです」
 
 
 誠実に言葉を紡ぐ男を見ながら、喜一は口元が微かな薄笑いに捩じれていくのを感じた。顔が泣き笑いの形に歪んでいく。
 
 
「橘さん、俺を囲うの?」
 
 
 喜一の皮肉じみた言葉に、橘が悲しげに眉尻を下げる。
 
 
「囲う、なんてつもりじゃありません」
「じゃあ、何?」
「喜一さん、僕はただ…」
「もうお店に来ないでなんて言いませんよ。また、いつでも来て下さい」
「…僕のことが嫌いですか?」
「好きですよ?」
「なら、どうして」
 
 
 話は堂々巡りを繰り返す。喜一はへらへらと笑って、決定的な言葉から逃れようとしていた。焦れたように橘が喜一の両肩を掴む。その握力の強さに、喜一は一瞬身体を竦ませた。喜一の怯えに気付いたのか、橘が一瞬申し訳なさそうに目を細めた。それから、思い詰めたように俯く。
 
 
「もしかして、喜一さんは気付いているんですか?」
「何がですか?」
 
 
 不可解な問い掛けに、喜一は困惑を浮かべた。橘は暫く下唇を噛み締めた後、重々しい口調で語り始めた。
 
 
「初めてここに来た時、会社の先輩に連れて来て貰ったと言いましたけど、あれは嘘です」
「え?」
「僕は、貴方を探していたんです」
 
 
 声が出せなくなる。いきなりこの人は何を言い出してるんだ。喜一を探していただなんて、一体何のために。また喜一の肩を掴む掌が強くなる。
 
 
「貴方に話さないといけないことがあります」
 
 
 苦しげな橘の声。腹の底がざわりと震えるような感触が走って、喜一は皮膚を粟立てた。どうしてだろう。今直ぐ逃げ出したい。橘の言葉を聞いてはいけない気がする。聞いたら、喜一のすべてが崩れる気がした。今まで必死で信じてきたものが根底から覆されるような。
 
 
 そうして、橘が唇を開きかけた瞬間、唐突に廊下から悲鳴が聞こえてきた。女の子の金切り声と、それに続く男の怒号。どたどたと廊下を駆け抜ける足音と乱暴に開かれる扉の音からして、誰かが無差別に部屋に乱入しているらしいことを把握する。皮膚をざわつかせる、不穏な空気が廊下から漂ってくる。
 
 喜一は扉を凝視したまま、咄嗟に橘の身体を背後へと押しやった。次の瞬間、激しい音を立てて扉が蹴り破られた。そこに立っていたのは林だった。出刃包丁を片手に握り締めて、血走った目で一直線に喜一を睨み付けている。ハァハァと荒い息を吐き出す口からは上の前歯が綺麗さっぱり消えてしまっている。喜一が蹴り折った前歯、暴力の証。
 
 林は聞き取れないような罵詈雑言を叫んだ。それは殆ど泣き声のようにも聞こえた。土足で絨毯を踏み締めて、駆けて来る。突き出された包丁の切っ先は、真っ直ぐ喜一へと向かっている。仄暗い照明に、刃が鈍く煌めく。喜一は、それを唖然と眺めていた。そうして、終わりがやってきたのだと頭の片隅で思った。やっと、終わる。
 
 
 それなのに、切っ先が腹へと埋まる直前、身体を強く突き飛ばされた。転んだ拍子に左肩をしたたかに壁へとぶつけて、ぢんと骨が痺れる。仰ぎ見ると、橘と林が揉み合っているのが見えた。
 
 橘が何か叫んでいる。それなのに、何を言っているのか聞こえない。鼓膜がキンキンと金属音を放っている。酷い耳鳴りだ。両手で両耳を一瞬塞ぐ。その瞬間、聞こえた。耳を塞いだはずなのに聞こえた。
 
 
『喜一、逃げてッ!』
「喜一さん、逃げてッ!」
 
 
 二つの声が重なる。これは、一体誰の声だ。橘と、別の誰かの、一体誰の――
 
 
 開け放たれた扉から見知らぬスーツ姿の男達が三人入ってくる。その男達は、喚き散らし暴れる林を殴り跳ばし、慣れた手付きで床へと叩き伏せた。それは酷く事務的な動作に見えた。林はまるで捌かれる魚のように床の上でびたんびたんと跳ね回っている。その拍子に、林の足が部屋の隅に置かれていた橘の鞄を蹴り跳ばした。
 
 
「きぃ、無事か?」
 
 
 男達の背後から、真砂さんの姿が見えた。
 
 
「あれ、真砂さん」
 
 
 間の抜けた声が零れた。喜一は床へとへたり込んだまま、呆然と真砂さんを見上げた。真砂さんは一度足元に転がる林を見下ろした後、のんびりとした足取りで喜一へと近付いて来た。喜一の短い前髪をゆっくりと掻き上げて、顔を覗き込んでくる。
 
 
「怪我はないな」
「あ、はい。大丈夫です」
 
 
 上の空で答える。傍らで猿轡を噛まされた林がフーフーッと威嚇する猫のような唸り声を上げていた。林を横目で眺めて、真砂さんが面倒臭そうに呟く。
 
 
「うちで取引してたヤクを盗んで逃げやがった。もうまともの意識なんて残っちゃいない」
 
 
 後ろ手に縛られた林の腕には、青紫に染まった注射痕が縦横無尽についていた。林を取り押さえていた男達がすっと立ち上がる。真砂さんは、連れて行けとばかりに男達へと緩く掌を振った。数秒も経たずに、男達に引き摺られて林の姿が消える。その血走った目は、消える瞬間まで喜一を凝視し続けた。
 
 
「うちで“処分”する。構わないな?」
「何で、“そんなこと”俺に聞くんですか」
「余計なことを聞いたな」
 
 
 冷めた喜一の物言いに、真砂さんは一瞬満足げに目を細めた。この人は、他人の冷酷さを愉しむ性質がある。軽く喜一の背中を叩くと、緩く視線を逸らす。
 
 
「俺は檸檬と話を付けてくる。お前も、あいつを見てやれ」
 
 
 そう言って、真砂さんは呆気なく部屋から出て行ってしまった。真砂さんが先ほど視線を遣った場所には、呆然と橘が立ち尽くしていた。橘は左腕を押さえたまま、ぼんやりとした眼差しで喜一を見詰めている。左腕を押さえる掌は、血の色に染まっていた。その目が覚めるような色を見た瞬間、喜一はヒュッと息を呑んだ。
 
 
「橘さんッ…!」
 
 
 押し殺した悲鳴をあげて、橘へと駆け寄る。橘は、血相を変えた喜一を見て、ハッと意識を戻した。
 
 
「ち、血が、出て…怪我したんですかっ…!?」
「あの、大丈夫です。少し掠ったぐらいで…」
「びょういん、病院行かないと、きゅ、救急車…」
 
 
 目に見えて狼狽する喜一を押し止めるように、橘が喜一の腕を掴む。
 
 
「喜一さん、深呼吸して下さい」
 
 
 目を潤ませながらも、言われるままに深呼吸を繰り返す。そうしていると、温かい腕に頭を抱き締められた。耳元で溜息のような声が聞こえる。
 
 
「貴方が無事でよかった」
 
 
 こんな時まで優しい言葉をかけてくれる男が堪らなく愛しかった。込み上げてくる安堵を隠せなくて、橘の背中へとしがみ付く。震えたくもないのに、全身が小刻みに震える。良かった、橘が死ななくて良かった。無事で良かった。ただ、それだけで。
 
 
「ごめんなさい…俺のせいです…」
「僕は大丈夫ですよ」
「ごめんなさい…」
 
 
 慰める言葉に、何度も謝罪を繰り返す。よしよしと子供のように頭を撫でられて息が詰まる。甘えたかった。この男にすべてを委ねてしまいたかった。人生も、運命も、命さえも。
 
 それなのに、ふと視線を床へと落とした瞬間、喜一は硬直した。頭の中が真っ白になって、呼吸を忘れた。
 
 
「喜一さん?」
 
 
 全身を強張らせた喜一を感じて、橘が怪訝そうな声をあげる。喜一は顔をあげて、橘の顔を呆然と凝視した。
 
 
「なん、で?」
「え?」
「何で、橘さんがこれ持ってるの?」
 
 
 へなへなと床へと座り込んで、ゆっくりと“それ”を掌に掴む。途端、橘の顔が引き攣るのが見えた。
 
 
「ねぇ、何で?」
 
 
 無意識に声が震える。倒れた橘の鞄から零れ出したもの。それは、喜一が一年間ずっと彼女に送り続けていた封筒だ。床へとばら撒かれた何十通もの封筒を両手で握り締めて、喜一はぶるぶると唇を震わせた。何、何だこれは。一体どうして、みーちゃんへ送っていたものを橘が持っているのか。こんなのは有り得ない。
 
 しゃがみ込んだ橘が喜一の顔をそっと覗き込む。
 
 
「すいません…ずっと貴方に伝えようと思っていたんです」
「伝えるって何をさ。何を。一体、何なんだよこれ」
「落ち着いて下さい、喜一さん」
「落ち着けって、俺は落ち着いてるよ。ただ何だって聞いてるだけじゃないか!」
 
 
 不意に弾けた。まるでヒステリーでも起こしたかのように喚き散らす。叫んだ瞬間、歯の根が合わなくなった。カチカチと自分の歯が擦れ合う音が神経質に響く。皮膚がその音に戦慄く。封筒をくしゃくしゃに握り締めた指先には、もう感覚がない。現実が遠ざかって行く。違う、逃げ出した現実が迫ってきているんだ。それが恐ろしくて、怖くて堪らない。
 
 
 橘が苦々しい表情で唇を開く。やめて、言わないで。何も聞きたくないんだ。何も知りたくない。気付きたくない。俺が必死になって目を背けてきたものを、どうか突き付けないで――
 
 
「僕は、柏木美名の弟です」
 
 
 ヒュッと咽喉が鳴った。見開いた目で、橘を凝視する。橘の悲しげな顔。どうしても思い出せなかったみーちゃんの顔。真っ白だったみーちゃんの顔に重なる、よく似た、血の繋がった顔。
 
 
「みょ、名字が違う」
 
 
 それでも足掻くように言葉を漏らす。怯える喜一を眺めながら、橘は緩く首を左右に振った。
 
 
「父と母が離婚して、母に引き取られた姉と、父に引き取られた僕では姓が異なるんです」
「でも、でもっ…、だからって、何で、みーちゃんに送ったものを橘さんが持ってんだよっ! これは、みーちゃんに送ったものなのにっ! みーちゃんのなのにッ!」
 
 
 殆ど八つ当たりのように喚く。手に握り締めた封筒を橘へと向かって投げ付ける。中に入っていた札束が宙へと飛び散って、床へとパラパラと落ちて行く。喜一の身体を売った金。捨てた彼女への罪滅ぼしの金が。
 
 
「…一年前から、姉と喜一さんが同棲していたアパートから転送で母の元へこの封筒が届くようになったんです。僕は就職を機に、母の家の近くに越して、初めてこの封筒の存在を母から聞かされました。僕も母も初めは誰が送ってきているのか解らず戸惑っていましたが、でも、ふと思い出したんです。姉と付き合っていた貴方のことを」
「何、なに言ってんの…」
「貴方が突然姿を消したことも知りました。誰にも何も言わず、大学にも行かなくなって、まるで幽霊のように消えてしまったことを。だから、きっと貴方だって思ったんです。貴方が、ずっと姉にお金を送り続けていると」
 
 
 切々と語る橘の声が、勝手に耳に入ってくる。聞きたくないのに。聞きたくなんてないのに。喜一は両手で側頭部を押さえたまま、必死で橘から離れようとした。だが、後ずさる喜一を橘は決して逃がさない。壁へと追い詰められて両腕を掴まれる。
 
 脳味噌へと無遠慮に手を刺し込まれて掻き回されるような頭痛と吐き気が込み上げてくる。頭の中がぐちゃぐちゃと掻き乱される。泥の底へと深く深く沈めていた記憶が無理矢理引き摺り出される。
 
 目蓋の裏でチカチカと何かの映像が蘇る。フラッシュバックのような、その映像。女の悲鳴と男達の笑い声。地面に力なく倒れ伏す身体。写真に映された、暗い池に浮かぶ白く褪めた肌。
 
 
 狂う、狂ってしまう。思い出してしまえば、喜一の頭は壊れてしまう。
 
 
「貴方にずっと言いたかったんです。姉のことを気に病んでいるなら、もう解放されて下さいって。あの事件で、貴方も頭を殴られて死にかかったんです。喜一さんだけが責任を感じる必要はない。僕も母も、誰も喜一さんのことを恨んでなんかいません。きっと、姉も…」
 
 
 やめて、お願い、もうやめて、俺を、壊さないで――
 
 
「姉が死んだのは貴方のせいじゃない」
 
 
 パリンッ、と鼓膜の内側で幸せのコップが粉々に割れる音が聞こえた。粉々になった硝子の破片が脳味噌の中で飛び散る。
 
 
『幸せって溢れたらどうなると思う?』
 
 
 みーちゃんの寂しげな声。嗚呼、違う。コップから幸せが溢れたんじゃない。幸せのコップは粉々に砕けてしまったんだ。みーちゃんが死んだのと一緒に。
 
 

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