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20 砕けたコップ

 
 足元がガラガラと崩れるような喪失感と同時に、緞帳でも下ろされたかのように唐突に目の前に漆黒が広がった。全身の感覚はなく、虚無も絶望もない、ただ何もないだけの暗闇。暗闇から、酷く暢気なアナウンスが聞こえる。
 
 
『さぁ、これにて現実逃避の時間は終わりです』
 
 
 アナウンスに呼応するように、暗闇の奥から絶叫が聞こえた。泣き声ともつかぬ狂乱の咆哮だった。赤子とも獣ともつかぬ悲鳴が自分のものだと気付くのには時間がかかった。咽喉を破る勢いで、絶望が迸る。
 
 気付いたら、両耳を塞いだまま、全速力で廊下を駆けていた。まるで駄々を捏ねる子供のように「いやだいやだ」と拒絶の言葉を喚きながら、喜一は逃走していた。
 
 
「喜一さん、待って! 待って下さい!」
 
 
 背後から現実が追い掛けてくる。橘の姿をした現実が喜一を捕らえようとする。
 
 
「来るなっ! 来るな来るな来るなッ!」
 
 
 恐怖に足が縺れそうになる。震える膝を前へ前へと無理矢理押し出して、喜一は駆け続けた。現実から逃れるために。真実を拒絶し続けるために。
 
 
 ――いや、いや、いやだ、みーちゃん、死んだなんてウソだ。
 
 
 頭の中で何度も否定の言葉が繰り返される。それなのに、涙が勝手に溢れて来る。嘘だと信じたいのに、身体が思考を裏切る。本当は解っている。きっと、ずっと頭の片隅で解っていた。
 
 
 どうして、あんなに幸せだったのにすべてを捨ててしまったのか。
 あんなに好きだったみーちゃんを置いていってしまったのか。
 帰りたいのに、どうして喜一はみーちゃんのもとに帰れないと頑なに思い込んでいたのか。
 
 
 疑問を突き詰めれば、その答えは簡単に出てきた。喜一は心の何処かで、もうみーちゃんがこの世界にいないことを知っていたのだ。願っても、祈っても、永遠に会えない事を知っていたからだ。幸せが溢れるのが怖いだなんて単なる詭弁だ。喜一が勝手に思い込もうとした馬鹿馬鹿しい妄想でしかない。喜一の幸せはとっくの昔に粉々に砕けていたのだから。
 
 
「いやっ、いやだ、いやだいやだいやだッ!!」
 
 
 まるで赤ん坊のような泣き声が溢れ出す。喜一の悲鳴を聞いて、廊下の左右に規則正しく並んだ扉から女の子達が不安そうに顔を覗かせる。きぃちゃん?と驚いた声をあげる女の子達に返事を返すこともできない。ただ、喜一は無我夢中で逃げた。
 
 
 逃走、逃亡、逃避、だけど現実からは逃げられない。真実は、もう目の前に突き付けられてしまった。
 
 
 視線の先に、地上へと上がる階段が見える。喜一は半狂乱のまま店から飛び出そうとした。だが、入口受付の横を走り抜けようとした時、不意に二の腕を掴まれた。走っていた身体が勢いを殺し切れず、大きくつんのめる。涙に濡れた目で、腕を掴む人物を見遣る。そこには相変わらず無愛想な表情をした手嶋が立っていた。手嶋は無言のまま、喜一の腕を掴んで事務所へと引っ張っていく。有無を言わせぬその様子に抗うことも出来なかった。
 
 事務所へと入ると、パソコンの前に座っていた田中さんがくるりと振り返った。泣きじゃくる喜一を見ると、口に咥えていたパピコをぽろりと落とす。
 
 
「あぁ? どうしたんだ、きぃ?」
 
 
 田中さんの驚いた声に、喜一はただ首を左右に振った。溢れてくる嗚咽を堪えるように唇を掌で覆う。
 
 
「あの人、どうしますか?」
 
 
 手嶋が冷静な声で問い掛けて来る。橘のことを言ってるのだと直ぐに気付いた。閉じられた事務所の扉の前から、喜一の名前を呼ぶ橘の声が聞こえる。その切迫した声に、もう喜びを感じることが出来ない。喜一は怯えた。両腕で頭を抱えて、「もうやめて…」と掠れた声で呟く。
 
 
「帰ってもらいます」
 
 
 喜一の様子を暫く眺めて、手嶋はぽつりと言った。扉の向こうへと消えて行って、直ぐに言い争いの声が聞こえてきた。会わせて下さいと叫ぶ橘の声に、お帰り下さいと事務的に答える手嶋の声。その遣り取りを聞くことすらも今は苦痛で、喜一は部屋の片隅に力なく蹲った。寒くもないのに身体がぶるぶると震える。そうしていると、頭から毛布が被せられた。田中さんが戸惑ったように喜一を見下ろしている。
 
 
「何があった」
 
 
 つっけんどんな田中さんらしくない気遣いの声に、再び涙が滝のように溢れてくる。喜一は呆然と自分の爪先を見詰めたまま、ぽつりと呟いた。
 
 
「みーちゃんが殺された」
 
 
 口に出した瞬間、真実が心臓を押し潰した。ぐっと息が詰まって、くぐもった嗚咽が溢れ出す。
 
 
「レイプされて、殺された」
 
 
 その言葉を皮切りに、今まで胸の奥深くに閉じ込めていた記憶が次々と蘇って来る。脳味噌をパンクさせそうなほど満ち溢れて、喜一を壊していく。真実はいつだって残酷だ。当たり前のように生きていくことが耐え切れなくなるぐらい。
 
 ゴワゴワとした手触りの毛布に顔を埋めて、喜一は止めどもなく泣き続けた。拭い切れない後悔が全身を満たして、心臓が張り裂けてしまいそうだ。
 
 みーちゃん、みーちゃん、頭の中で何度も繰り返す。もう彼女は戻って来ない。喜一の目の前で嬲られ、殺されたのだ。あんなに優しく、明るく生きてきた女の子が一瞬で地獄の底へと叩き落とされたのだ。たった一瞬の出来事がみーちゃんの人生を、喜一の人生を大きく歪めてしまった。
 
 
 
 
 
 その日も、いつもと変わらない幸せな日のはずだった。付き合って五年目の記念日を祝おうと、おそろいのルビーのピアスをわいわいとはしゃぎながら買って、いつもよりも贅沢なご飯を食べて、ワインの酔いを覚ますために夜の散歩をほんの少し楽しみながら帰宅するはずだった。
 
 酔っぱらったみーちゃんが喜一の腕にしがみついて、意味もなく、ふふ、と笑い声を漏らす。喜一もみーちゃんに釣られるように笑い声を零す。夜の公園を千鳥足で歩く。目の前の光景がぐらぐらと蕩けるように揺れて、それがやけに面白かった。
 
 
「きいちっ」
「何?」
 
 
 普段よりも甘えたみーちゃんの声に、喜一はご機嫌で返事を返した。
 
 
「私、幸せだなぁって思うの。溢れちゃいそう」
「溢れちゃう? 本当に?」
「うそ。もっと幸せになりたい。私達、きっと世界一幸せになれるよ」
 
 
 幸福に満ち溢れた台詞。根拠なんてないのに、何故だか喜一は無条件でその未来が信じられた。みーちゃんが一際強く喜一の腕にしがみ付く。
 
 
「大好きだよ、きいち。ずっと一緒にいようね」
 
 
 その瞬間、きっとこの子と結婚するんだと喜一は思った。みーちゃんと結婚して、子供ができて、幸せな家庭を築くんだと根拠もなくそう思い込んだ。それは喜一の妄想だったが、いつか現実のものになるのだとその瞬間は疑いもしなかった。世界一幸せになれる、というみーちゃんの言葉を、喜一は確かに信じていたのだ。
 
 
 だから、突然後頭部に衝撃が走った瞬間も、喜一は何処か夢見心地なままだった。アルコールでぼやけた脳味噌は、痛覚も事態の異常さも上手く認識することが出来なかった。脳味噌がぐらりと大きくシェイクされて、次の瞬間には喜一は地面に俯せに倒れていた。アスファルトにじわりと広がっていく赤い液体が何なのかも解らなかった。気付いた時には、指一本も思うようには動かせなかった。
 
 混濁していく意識の中、喜一はみーちゃんの悲鳴を聞いた。そうして、みーちゃんの悲鳴に呼応するような男達の下卑た笑い声。みーちゃんは頻りに何かを叫んでいた。
 
 
「喜一、逃げてッ!」
 
 
 みーちゃんの声に応えたかった。だけど、唇は戦慄くばかりで声を発することすら出来ない。赤く染まっていく視界の中、男達に羽交い締めにされて藻掻くみーちゃんの姿がぼんやりと見えた。男達の手によって無造作に破られていくみーちゃんの洋服、たくしあげられたスカートの裾から覗く白い太股。
 
 
 ――触るな、みーちゃんに触るな、俺の彼女だ、俺の世界で一番大事な女の子に、触るな、
 
 
 薄れていく意識の中で、ただ思考ばかりが空回りする。アスファルトを染める血は、とどまることを知らず溢れるばかりで。血の海に浸ったまま、喜一は自分の皮膚からすぅっと体温が抜けていくのを感じた。同時に脳味噌の細胞がバラバラに千切れるような感覚が訪れる。
 
 
 ――みーちゃん、みーちゃん、俺たち幸せになるんだよな、一緒に幸せになれるって、
 
 
 みーちゃんの悲鳴が途切れる。代わりのように男達の切迫した息遣いが聞こえてきた。男達に圧し掛かられたみーちゃんの両脚が空中で大きく跳ねている。それは、まるで解剖されたカエルの断末魔の動きのようにも見えた。
 
 
 ――やめてくれ、お願いだから、みーちゃんに酷いことをしないで、みーちゃんを離して…
 
 
 次第に思考が懇願へと変わる。目の前が霞んで、意識がゆっくりと暗闇へと呑み込まれていく。
 
 みーちゃんを嬲っていた男達の一人が近付いてくる。足掻くように指先を痙攣させる喜一を見ると、男は口角に薄っすらと笑みを滲ませた。酷薄かつ残虐な笑みだった。男はベルトに差していた懐中電灯のようなものを抜き出すと、カシャンと音を立ててロッドを伸ばした。あれは何ていう物だったのだろうか。嗚呼、確か“特殊警棒”だ。そう思い出した次の瞬間、再び頭蓋骨に衝撃が走った。まるで頭上高くからコンクリートの塊を落とされたような衝撃だった。頭がガクンと跳ねて、地面へと音を立てて落ちる。そうして、喜一の意識は完全に消えた。
 
 
 
 結果から言えば、喜一は生き残った。三日間の昏睡状態の間、喜一は二度ほど心臓を止めたが、その度にしぶとく心臓マッサージで蘇った。脳に障害が残るかもしれないと喜一の両親は何度も医師から念を押されたが、結局脳に障害は残らず、植物状態に陥ることもなかった。
 
 但し、今考えると、一切の後遺症を残さなかったことは喜一を結果的により苦しめることとなった。病院のベッドで目が覚めた喜一は、正気のままみーちゃんの死を聞くこととなったのだから。
 
 
 あの夜、みーちゃんが辿った運命は、喜一よりもより凄惨なものとなった。みーちゃんは複数の男に散々嬲られ、辱められた後、顔面が二倍近く腫れ上がるまで殴打され、最終的に首を絞められて殺されていた。遺体は、全裸のまま公園の小さな池へと投げ込まれていた。
 
 色鮮やかな鯉に混じって水面をぷかぷかと浮かぶみーちゃんの死体を見つけたのは、早朝ランニングをしていた壮年の男だった。TVのインタビューに、第一発見者の男はこうコメントしていた。
 
 
『いんやぁ、見つけた時はどこの阿呆が池にマネキンを捨てたんじゃ思うてなぁ』
 
 
 まるで自分がヒーローにでもなったかのように誇らしげに話す男の顔。唇から突き出した黄ばんだ乱杭歯を喜一は覚えている。
 
 残虐で猟期的なその事件を、マスコミはこぞってセンセーショナルに取り上げた。極平凡な女性がイタズラに殺された事件に、誰もが怒りを示した。そのおかげかは解らないが、犯人達はすぐに捕まった。犯人は以前も婦女暴行の罪で刑務所に入っていた男達だった。出所して一年も経たない内の再犯だった。男達には、当然のように無期懲役が下された。
 
 だが、喜一にはそんな事はどうでも良かった。喜一にとって肝心なのは、みーちゃんがこの世界にいないという一点だけだった。世界で一番愛していた女の子は死んでしまった。殺されてしまった。喜一の目の前で。
 
 
 ただ、無為に病院のベッドで過ごす日々が続いた。生きている感覚はなかった。みーちゃんが死んだ実感もなかった。今にも扉からひょっこりと顔を覗かせて「きいちっ」と明るい声で呼び掛けてくれる気がしていた。両親も友人も、喜一を心配して何度も病院に見舞いに来てくれた。だが、喜一は貝のように押し黙ったまま誰とも口をきかなかった。一度でも誰かと喋ってしまえば、みーちゃんの死を受け容れなくてはならなくなる。それだけは絶対に嫌だった。
 
 それから一ヶ月後に、喜一は完全に壊れた。喜一を壊したのは、三流雑誌のルポライターだ。お涙頂戴なシーンを期待してか、病室に忍び込んだルポライターは、生きた屍と化した喜一へと数枚の写真を見せた。
 
 それは、みーちゃんの死体の写真だった。暗い池に俯せで浮かんだ白い肢体。何処が目鼻かも判らないほど腫れ上がった顔面。それはまるでお化け屋敷に出て来るグロテスクな特殊メイクを施された化物のように見えた。喜一は、初めはそれが何なのか解らなかった。ただ、虚ろな眼差しでおぞましい写真を眺めていただけだ。
 
 だが、気付いた。気付いてしまった。唯一形が残っていた耳朶につけられた真っ赤なピアスに。あの日、二人で一緒に選んだおそろいのルビーのピアス。写真に写る崩れた死体がみーちゃんだと判った瞬間、喜一の心は粉々に砕け散った。幸せのコップが地面へと叩きつけられて、無惨にも割れていく。その瞬間に、喜一は完全に狂ったのだ。
 
 結果的に、そのルポライターが望み通りの記事を書くことはなかった。それどころか、豹変した喜一によってカメラは叩き壊れた上、三本ほど肋骨を折られる羽目になった。ルポライターは訴えてやるとしきりに病院のベッドの上で喚いたが、勿論誰からも同情されることはなかった。
 
 
 翌日から、喜一はよく笑うようになった。両親や友人も、元通り明るくなった喜一に安心しているようだった。だが、すぐにその異常さに気付いた。喜一は、みーちゃんの死を口に出さないどころか、みーちゃんが生きているかのように振る舞い始めたからだ。
 
 退院すると、二人で同棲していたアパートへと戻り、毎日帰ってこないみーちゃんを待ち続ける。大学に行けば、友人に最近みーちゃんに会えないと愚痴る。誰もが痛ましげに喜一を見ていた。だが、そんな眼差しに喜一は気付かないフリをし続けた。必死になってみーちゃんが生きていると思い込もうとしていた。
 
 
 それでも、いつかは限界がやって来る。何ヶ月も帰ってこないみーちゃんを待って待って待って、ある日、みーちゃんの好物の餃子を作っていた時、不意に気付いた。もうこの餃子を美味しそうに頬張ってくれる女の子がいないことを。この世界から消えてしまったことを。玉葱を切っているときに、ようやくそれが解った。その瞬間、涙が止まらなくなった。咽び泣いて、泣きじゃくって、喜一はアパートを飛び出した。
 
 
 壊れた幸せを直視するのが辛くて、苦しくて、喜一はみーちゃんが死んだことを記憶から消して、逃げ出した。みーちゃんと一緒に暮らしたアパートも、一緒に通った大学も、みーちゃんが居ない事を喜一に気付かせる。みーちゃんの死を認めさせようとする。だから、みーちゃんが死んだ事に気付かない場所に行きたかった。例え二度と会えなくても、みーちゃんが生きていると思えるのならそれで良かった。
 
 
 そうして、喜一は今の場所へと堕ちて行ったのだ。知り合いも誰もいない、ただ毎晩訪れる客に身体を貪られる場所へと。
 
 誰かに身体を貪られている間は何も考えずに済んだ。現実から目を逸らして、心を閉ざして、記憶を捻じ曲げて、男に身体を売って、喜一はひたすら逃げ続けた。喜一は、このままただ静かに沈んでいきたかっただけだ。みーちゃんの死を忘れたまま、ゆっくりと死んでいきたかった。いっそ、みーちゃんと同じようにレイプされて殺されたかった。だが、喜一は死ねず、逃げ出したはずの現実は追い掛けてきた。みーちゃんの弟、橘という形になって。
 
 
「なんで…ずっと、一緒にいようって言ったのに…」
 
 
 震える唇から惨めな悔恨が溢れ出す。愛しい彼女と幸せになりたい、ただそれだけだったのに。その夢も希望も、たった一瞬で崩壊してしまった。
 
 
 バラバラに砕け散ったコップはもう再生できない。再生できないなら、一体どうすればいいんだろう。答えが出ないまま、喜一は床へとぽつぽつと落ちる涙をぼんやりと眺めた。
 
 

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