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21 全部嘘でした

 
 もしも、あの時散歩なんかしなかったら。あの公園に行かなかったら。少しでも不穏な気配に喜一が気付くことが出来ていれば。何万回の『もしも』を繰り返しても、結果は変わらない。喜一は好きな女の子を守れなかった。目の前で死なせた。結論は、それだけだ。どれだけ自分を憎んでも、痛めつけても、みーちゃんが死んだ事実は覆らない。喜一の罪は永遠に消えない。
 
 
 そうして、気付けば罪の上に罪を重ねようとしている。今度は橘を、みーちゃんの弟を好きになってしまった。恥知らずにもセックスしてしまった。
 
 
「最低だ…」
 
 
 思わず呻くような声が漏れる。数時間前の浮かれた自分を殴り殺してやりたい。橘だけは、死んでも好きになってはいけなかったのに。みーちゃんの弟だけは。
 
 
――姉を死なせただけじゃ飽きたらず、今度はその弟の人生まで滅茶苦茶にするのか。
 
 
 そう胸の内で自問自答する。途端、口角に自嘲の笑みが滲んだ。反吐が出そうなほどの自己嫌悪に、もう笑うしかなかった。
 
 扉の向こうからは、まだ橘の声が聞こえてくる。「喜一さん!」と必死に自分を呼ぶ声に、未練がましく心が打ち震える。
 
 嗚呼、好きだ。好きで堪らない。橘が愛しい。だからこそ、離れなくてはいけなかった。喜一と一緒にいれば、きっと橘はみーちゃんと同じように不幸になる。いつか幸せのコップが粉々に砕けるような事件が橘の身にも起こる。そう根拠もなく確信する。橘に、あんな惨たらしい終わり方を迎えさせるわけにはいかない。だから、橘には二度と会わない。何があっても、絶対に会ってはいけない。
 
 そう思った瞬間、心が滅茶苦茶に踏み躙られた。踏み躙ったのは他ならぬ喜一自身だ。止まらない涙が床に小さな水たまりを作る。喜一は事務所の隅に蹲ったまま、濡れていく床を放心状態で眺めていた。
 
 
「おい、きぃ。大丈夫か?」
 
 
 田中さんの声に、喜一はゆっくりと視線をあげた。田中さんの心配そうな眼差しに、ぎこちなく頬を引き攣らせる。
 
 
「だ、いじょうぶ、です」
「大丈夫って顔じゃねぇぞ。あの客が原因か?」
 
 
 田中さんが扉を示す。喜一は緩慢な動作で扉へと視線を向けて、それから弱々しく首を左右に振った。
 
 
「橘さんは…関係ないです。ただ、俺の問題です」
「本当か?」
「ほんと…です」
 
 
 掠れた声には信憑性の欠片もなかった。田中さんは訝しげに頬を歪めると、声を潜めて言った。
 
 
「…お前が嫌なら、あの客を出禁にしてもいいんだぞ。客の一人や二人出禁にしたところで大したことでもねぇんだからよ」
 
 
 喜一は思わず田中さんの顔をまじまじと見つめた。こんなに迷惑を掛けておきながら、それでも喜一を気遣ってくれる田中さんの優しさが辛かった。
 
 
「ご、めんなさい…」
「何で謝る」
「迷惑かけて…本当に、すいません…」
 
 
 ぺこぺこと何度も頭を下げて、強張った声で謝罪を繰り返す。田中さんは一瞬眉を顰めた後、犬でも撫でるような手付きで喜一の頭を撫でた。
 
 
「こういう仕事してりゃ面倒ごとなんざ幾らでも起こらぁ。この程度のことで謝ったりすんじゃねぇよ。お前はもっと図々しくたって構わねぇんだからな」
 
 
 わしゃわしゃと髪の毛を掻き回す乱暴な手付きに、余計に涙が滲んでくる。ずずっと鼻を啜った時、不意に事務所の扉が開いた。その音にビクリと肩が震える。だが、入ってきたのは橘でも手嶋でもなく、真砂さんだった。真砂さんは一度事務所へと視線を巡らせた後、泣きじゃくる喜一を見ると怪訝そうに目を細めた。そうして、ふらりと喜一へと近付いてくると、真っ赤に腫れた目尻へと指先を伸ばした。
 
 
「――目玉が溶けそうだな」
 
 
 優しい指先に溢溢れてくる涙を拭われながら、喜一は真砂さんをぼんやりと見上げた。真砂さんは相変わらずの無表情だ。その普段と変わらぬ冷淡な顔に、何故だか安堵を覚えた。
 
 
「何があった」
「…なんにも、ないです」
 
 
 これだけ泣いておきながら何もないはずがないのに、くだらない嘘をついた。泣きながら、口元に笑みを滲ませる。酷く惨めな泣き笑いが顔面に浮かんだ。
 
 
「何にも、なかったんです」
 
 
 初めから、喜一には何もなかった。何もかも失ってしまっていたのだから。口に出した瞬間、嗚咽が溢れた。俯き、背中を丸めて咽び泣く。絶望が喜一に圧し掛かってくる。もう現実から逃れることは出来ない。ただ、押し潰されるのを待つだけだ。
 
 真砂さんは扉の方をじっと眺めていた。扉の向こう側からは、まだ橘の声が聞こえてくる。
 
 
「あの男、潰してやろうか?」
 
 
 ぽつりと呟かれた真砂さんの一言に、喜一は咄嗟に目を剥いた。慌てて声を張り上げる。
 
 
「な、なんで!」
「お前が泣いてるのはあの男のせいだろう? なら、あの男を消せばお前は泣きやむ」
 
 
 真砂さんらしくない短絡的な台詞に、喜一は唇を半開きにしたまま固まった。
 
 
「どうせ、“ついで”だ。埋めるのが一人増えるぐらい手間にもならない」
 
 
 真砂さんの口調は酷く平坦だった。人殺しに対する躊躇など微塵も感じられない。今ここで喜一が少しでも頷けば、真砂さんは迷いなく言葉通りのことを実行する。橘を殺してしまう。
 
 
「や、めて下さい」
 
 
 カラカラに干上がった咽喉で必死に言葉を漏らす。真砂さんは不可解そうに首を傾げた。
 
 
「何故だ? お前も、いっそ殺してしまった方が清々するんじゃないのか?」
「清々なんて、するわけない。お願いだから、やめて下さい。あの人には何にもしないで」
「お前はあの男が大事なのか?」
 
 
 感情のない問い掛けに、一瞬目蓋の裏が真っ赤に染まった。愛とも憎悪ともつかない感情が皮膚を喰い破る勢いで込み上げてきて、喜一は子供のように叫んだ。
 
 
「大事だよ! 世界で一番大事だよッ!」
 
 
 喚いた瞬間に、また涙が滂沱の如く溢れた。拳で床を叩いて、肩をぶるぶると震わせる。
 
 
「でも、会いたくない。もう二度と、会っちゃいけない」
 
 
 自分自身に最後通告をするように吐き捨てる。吐き出した瞬間、腹の底が燃えるように熱くなった。両手で頭を掻き毟って、溢れ出す悔恨を必死で堪える。
 
 きっと、この店で働き続けていれば橘はまたやって来る。喜一を追い続け、真実を突き付け続ける。あの優しい男は、決して喜一を見捨ててはくれない。静かに死んでいくことを許してはくれないだろう。喜一は、永遠に逃げられない。
 
 
 真砂さんは、ただじっと喜一を見下ろしている。まるで神様のような物言わぬ眼差しだった。真砂さんがゆっくりと手を差し伸ばす。
 
 
「攫ってやろうか」
 
 
 呟かれた一言を理解することが出来なかった。喜一は、ただ呆然と真砂さんを見上げた。
 
 
「な、に?」
「攫ってやろうかと聞いているんだ」
 
 
 微かに怒りを滲ませた不機嫌そうな声に、喜一は数度目を瞬かせた。暫く、呆けたようにへたり込んでいた。だが、身体が勝手に動いた。ゆっくりと手を伸ばして、差し伸ばされた真砂さんの掌を掴む。筋張った掌は、まるで砂のように乾いていた。力強い腕に、身体が引き上げられる。毛布に包まった喜一を、真砂さんは当たり前のように腕へと抱き込んで歩き出した。
 
 
「ちょ、っと、どこ行くんですか!」
 
 
 田中さんが叫ぶ。真砂さんはちらりと田中さんへと視線を遣ると、無機質な声で答えた。
 
 
「こいつは貰う」
「貰うって…」
「代わりにみかじめ料半年分はチャラにしてやる」
 
 
 有無を言わせぬ口調だった。田中さんは、ぽかんと口を開いたまま立ち尽くしている。真砂さんはもう田中さんを見ていなかった。強引な足取りで、喜一の身体を引っ張って行く。
 
 真砂さんの手によって扉が開かれた瞬間、手嶋に掴み掛かっている橘の姿が目に入った。心臓が音を立てて跳ねる。橘は一瞬唖然とした表情で喜一を眺めていたが、喜一が真砂さんに抱かれているのに気付いた瞬間、その顔を剣呑に歪めた。
 
 
「喜一さん」
「こいつはたった今から俺のものになった」
 
 
 橘の呼掛けに被さるようにして、真砂さんの冷淡な声が響く。橘が驚愕に目を見開く。喜一は、真砂さんにしがみついたまま唇を必死に噤んでいた。少しでも口を開いてしまえば、橘への恋情を口走ってしまいそうだった。
 
 
「喜一さんが貴方のもの?」
「そうだ。だから、もうお前は諦めて帰れ」
「巫山戯るな。その人は僕のものだ」
 
 
 橘らしかぬ攻撃的な言葉だった。鼻梁に皺を刻んだ橘がきつく真砂さんを睨み付けている。そこに優しい男の面立ちは残っていなかった。まるで餌を争う獣同士のように、真砂さんと橘は対峙している。真砂さんが嘲るように鼻を鳴らす。
 
 
「一丁前に独占欲だけはあるのか。うざってぇな」
「その人を返せ」
「お前みたいな奴が善人面で正論振り翳して、平気で他人を傷付ける」
 
 
 切り付けるようなその一言に、一瞬橘が怯む。真砂さんの表情は変わらない。
 
 
「自覚のない偽善者ほど性質の悪いものはない」
「何が言いたい」
「お前のせいで、きぃが泣く」
 
 
  真砂さんの言葉は端的だった。だからこそ、突き刺さるものがあった。橘が息を呑んで、目を赤く腫らした喜一を見詰める。その眼差しが辛かった。だから、俯いた。視界の外で、橘が傷付くのが伝わってきた。長い沈黙、最初に口を開いたのは橘だった。
 
 
「僕は貴方を苦しめてますか」
 
 
 自嘲げな声音だった。咄嗟に喜一は顔をあげた。橘の濁った眼差しが喜一を凝視している。橘が微かに頬を引き攣らせた。冷え切った笑いだった。
 
 
「でも、貴方を諦められない」
「橘さん」
 
 
 堪え切れず声が零れた。橘の顔が泣き出しそうに歪む。
 
 
「苦しめても、泣かせても、たとえ憎まれても、貴方が欲しい」
 
 
 自分自身の傲慢さを自覚している、酷く切なげな声だった。その声に皮膚が細かく震える。喜一は口元を掌で覆ったまま、橘をまじまじと見詰めた。戦慄く唇から、掠れた神経質な声が零れてくる。
 
 
「た、橘さんは、勘違いしてる」
「勘違い?」
「橘さんは優しいから、みーちゃんの、お姉さんの代わりに、俺の面倒を見てくれようとしてるんだろう? お、俺の頭が可笑しいから…」
「僕は姉の代わりになるつもりなんかありません」
 
 
 撥ね付けるような橘の苛立った声に、喜一は息を呑んだ。橘の目は微かに血走り、潤んでいる。
 
 
「僕は姉の代わりじゃない」
「ご、ごめんなさい…」
「どうして謝るんですか。喜一さんは何も悪くないのに」
「俺がみーちゃんを殺した…」
「貴方のせいじゃない」
「橘さんのお姉さんを、俺が…」
「僕がいつ姉のことで貴方を責めた!」
 
 
 轟くような怒鳴り声に全身がビリビリと痺れる。咄嗟に真砂さんにしがみ付く。途端、刺すような視線が橘から向けられた。優しい面立ちが鬼のように歪んでいる。執着に燃え滾った目が喜一を貫く。
 
 
「僕は優しくない。善人でもない。貴方の平穏を第一に祈って、潔く身を引いてあげられるような物わかりの良い男になるつもりもない」
 
 
 勿論、姉の代わりなんて死んでもなって堪るか。らしかぬ乱雑な口調で橘が吐き捨てる。手が伸ばされる。差し伸べられた掌は、まるで蜘蛛の糸のように見えた。
 
 
「僕と一緒に来て下さい」
「…無理、です」
「僕のことを好きだと言ってくれたのは嘘ですか」
 
 
 詰るような、そのくせ悲しげな橘の声に、涙が零れそうになる。嗚咽を噛んだ。噛み殺した。溢れんばかりの愛情を必死で閉じ込めて、何重にも鍵をかけて、喜一は呻くように答えた。
 
 
「すいません、全部嘘でした」
 
 
 全部全部嘘だったんです。言葉にした瞬間、喜一は引き裂かれた。静かに俯いて、声も出さないままに慟哭した。体内に絶叫が満ちる。救い難いほどの阿呆、大馬鹿、今すべてをこの足で踏み躙った。温かい思い出も、甘やかな恋情も、たった一言で薄汚い嘘へと変貌する。
 
 橘が絶句する。重苦しい静寂。差し伸べられていた掌が力なく落とされる。
 
 
「今まですいませんでした。俺のことは忘れて下さい。いろいろとありがとうございました」
 
 
 他人行儀な言葉を、喜一はわざと抑揚なく言った。橘は、もう喜一を見ていなかった。ガックリと項垂れた橘の姿を、喜一はぼんやりと眺めた。
 
 
「さようなら。どうか、みーちゃんの分も幸せになって下さい」
 
 
 どの面下げてこんな言葉を言っているのだろう。小刻みに震える指先で、自分の頬に触れた。ぎこちなく強張っていた。真砂さんが促すように喜一の肩を強く抱く。喜一は頷いた。橘の横を通り過ぎる。すれ違う瞬間、心臓が千々に千切れた。だけど、足は止めなかった。
 
 橘は顔をあげない。声も出さない。全部、終わったんだと思った。その瞬間、また涙が出そうになった。真砂さんが喜一の頭を抱き寄せる。
 
 
「泣くな、きぃ」
 
 
 もう涙は枯れました。そう答えたかったのに、震える唇は何の言葉も吐き出さなかった。
 
 

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