Skip to content →

22 さみしくない

 
 「いらっしゃい」ではなく「おかえりなさい」、それが則子さんの第一声だった。マンションの扉を開いた則子さんは、喜一の姿を見ると、一度驚いたように目を見張った後、見惚れるような柔らかな笑みを浮かべた。
 
 
「おかえりなさい」
 
 
 則子さんは、上品そうな緑色のニットの上にチェックのエプロンを身に付けていた。そんな有りふれた格好をしていると、ヤクザのバシタというよりも何処にでもいる団地妻のように見えた。則子さんは、ぼんやりと立ち尽くす喜一の掌を優しく引っ張ると、家の中へと通した。ダイニングの椅子へと座らされて、顔を覗き込むようにして問い掛けられる。
 
 
「お腹すいてない?」
「あ、はい」
 
 
 どちらとも取れる曖昧な返事を返してしまった。喜一の代わりのように、真砂さんが答える。
 
 
「茶漬けでも出してやれ」
「そうね。昨日作ったお漬け物もあるから、それも出すわね。きぃさんは、お漬け物嫌いじゃないかしら?」
「嫌い、じゃないです」
 
 
 まるで母親のような甲斐甲斐しさで、則子さんはくるくるとキッチンを立ち回った。お茶を湧かして、炊飯器から白飯を茶碗によそって、漬け物を小皿へと盛り付ける。数分後には、机の上に三人分の夜食が並べられていた。
 
 
「お前も食べるのか」
「だって、仲間はずれみたいで寂しいじゃない」
 
 
 真砂さんの一言に、拗ねたように則子さんが答える。喜一の真向かいに則子さん、隣に真砂さんが座り込む。
 
 
「さ、どうぞ。食べて」
 
 
 促す声に、喜一は箸を手に取った。ふんわりと湯気をあげる茶漬けを見ていると、猛烈に空腹感が湧き上がった。綺麗に盛り付けられた漬け物を一口齧る。酸っぱいような甘いような、絶妙な味加減のぬか漬けだった。
 
 
「おいしい」
 
 
 思わず感嘆の声が零れる。向かい側で則子さんがナスの漬け物を前歯で齧りながら、嬉しそうに目を細める。
 
 
「こいつは漬け物だけは抜群に美味いんだ」
「漬け物だけ、って失礼なこと言うわね」
 
 
 軽口を叩き合う真砂さんと則子さんは、酷く和んだ表情を浮かべている。二人の間からは、ヤクザのサドマゾ夫婦という荒んだイメージとは程遠い、温かい家庭の空気が漂ってくる。その空気の中、喜一は自分が二人の息子のように迎えられているのを感じた。この家に入った時から、則子さんは母親のように、真砂さんは父親のように振る舞っている。そうした方が喜一の気持ちに負担にならない事を解っているのだろう。
 
 
「きぃさん、お茶漬けも食べてみて」
 
 
 則子さんに促されて、ふぅふぅと息を吹き掛けてから今度はお茶漬けを一口啜る。途端、咥内に優しい味が広がった。お茶の柔らかさが胃に染み渡るような味だった。美味しいと笑って答えようと思った。それなのに、気付いたら、ぽつりと一粒の涙がお茶漬けの中へと落ちていた。枯れ果てたと思ったのに、まだ涙が出てくるのか。
 
 
「おい、しいです」
 
 
 泣き笑いで答える。涙を流したことを喜一は激しく恥じた。こんな図体のでかい男がまるで哀れな子供のように泣くなんて最低だ。唇が無意識に震えた。則子さんが微笑んで、喜一を見詰めている。すべてを包み込むような母親の眼差し。則子さんはゆっくりと手を伸ばすと、喜一の頭をそっと撫でた。
 
 
「辛いことがあったのね」
「いえ…自業自得です」
「自業自得でも、辛いものは辛いわ。悲しいことは悲しいわ」
「すいません…」
「いいのよ。ほら、ちゃんと食べなさい」
 
 
 喜一は、ぽろぽろと涙を流しながら茶漬けを啜った。涙のせいで先ほどよりも塩辛く感じる。でも、温かいご飯は胸が詰まるぐらい美味しかった。則子さんはにこにこと微笑みながら、喜一を眺めている。
 
 
「ご飯食べたら、みんなで寝ましょう? 朝になったら嫌なことも忘れるわ」
「皆?」
 
 
 怪訝そうな真砂さんの声に、則子さんが悪戯っ子のような表情を浮かべる。
 
 
「川の字って昔から憧れてたの」
 
 
 無邪気な則子さんの言葉に、喜一は少しだけ笑った。泣きながら笑う。心は引き攣れるように悲しみに溢れていたが、そこに微かなぬくもりが広がっていく。喜一の周りにいるのは優しい人ばかりだった。
 
 
 食事が終わると、三人分の蒲団をリビングに広げた。最後まで真砂さんは釈然としない表情をしていたが、結局文句の一つも言わずに蒲団の上へと寝転がった。喜一を真ん中にして蒲団に潜り込んだところで電気が消される。仄暗い暗闇の中、おやすみと交わされる声に喜一も応えた。
 
 柔らかい蒲団に身を横たえていると、数時間前のことが夢のように思えた。精液臭いベッドの上で何百人もの男に抱かれた。愛しい男にも抱かれた。だけど、それらのすべてが今ゆっくりと過去へと変わっていく。それが嬉しくもあり悲しくもあった。忘れたいのに忘れたくない。圧し掛かってくる橘の身体、その重みを思い出したくて、両腕で身体をぎゅうと抱き締める。逃げ出したのに、酷く橘が恋しかった。会いたかった。だけど、傷付けた。もう二度と会えない。
 
 今、橘はどうしてるんだろうと思った。悲しんでいるだろうか。怒っているだろうか。なるべく早く自分のことを忘れてくれたらいいと思う。いつか橘が結婚して、子供も生まれれば、あんな奴もいたっけなぁ、と何かの折りに思い出す程度になるはずだ。喜一にとっては辛いが、それが橘のためには一番良い。誰よりも幸せになって欲しい。そんな事を考えながら、喜一はそっと目蓋を閉じた。虚ろな思考は、すぐに暗闇に沈んで行った。
 
 
 
 
 
 真砂さんの家での生活は、酷く安穏としていた。時間の流れは緩やかなのに、気付けば次の日の朝を迎えている。朝に真砂さんを見送って、則子さんの家事の手伝いをする。時々、則子さんは喜一が沈み込んでいると、外へと無理矢理引っ張り出す。則子さんとデパートに行って、真砂さんのネクタイを選んだり、女子高生のようにケーキバイキングではしゃいだりする。
 
 夜は、相変わらず三人で眠った。マンションに連れて帰られてから、真砂さんは喜一を抱かない。首も絞めない。歪で温かな家族ごっこは静かに続けられていた。
 
 
 真砂さんのマンションで暮らし始めて一週間経った頃だ。その日は、涼やかな秋晴れの夕方だった。オレンジ色の夕陽が射す和室で、もそもそと洗濯物を畳んでいた時、ふと則子さんに呼ばれた。
 
 
「きぃさん、ちょっとこっちに来てくれる?」
 
 
 今日の晩ご飯を相談するような軽い口調だった。洗濯物を畳む手を止めて、リビングへと向かう。
 
 
「何ですか?」
 
 
 リビングには則子さんの姿はなかった。辺りを見渡して、喜一はハッと息を呑んだ。則子さんは玄関の前に立っていた。外出用の灰色のコートを羽織って、その足下には旅行用の大きなボストンバッグが置かれている。
 
 
「どこか、旅行に行くんですか?」
 
 
 本当は旅行なんかじゃないと解っていた。だけど、誤魔化すように愛想笑いを浮かべて喜一は問い掛けた。則子さんは、喜一の誤魔化しを愛おしむように目を細めた後、ゆっくりと首を左右に振った。
 
 
「いいえ、出ていくの」
「どうして」
「前にも言ったでしょう? 真砂と私は離婚するの。だから、どちらかがこの家を出ていかなくちゃいけない。きぃさんも落ち着いたし、そろそろ頃合いかって真砂とも話していたの」
 
 
 則子さんの口調は淡々としていた。そこには悲しみも憤りもない。ただ、極当たり前のことを話しているような落ち着いた口ぶりだった。
 
 
「則子さんが出て行ったら真砂さんが悲しみます」
「貴方がいるわ」
「俺じゃ駄目です。俺は則子さんにはなれない」
「貴方は貴方のままでいいのよ。真砂は貴方のことを大事にしてるわ」
「でも、俺は男です。子供だってできない」
 
 
 駄々を捏ねるような喜一の言葉に、則子さんが困ったように口元に笑みを滲ませる。その子供を窘めるような表情が悔しかった。喜一は下唇を噛み締めて、唸るように呟いた。
 
 
「則子さん、行かないで下さい。離婚なんて、しなかったらいいじゃないですか。真砂さんは則子さんのことを愛してます。則子さんだって、そうでしょう?」
「そうね。でも、愛し合っていても離婚しなくちゃいけない時もあるわ。そうしなくちゃいけない理由があるの」
「何ですか、その理由は」
「子殺し」
 
 
 喜一の足掻くような問い掛けに、則子さんは端的かつ明確に答えた。その残酷なまでの潔さに、喜一は咽喉を引き攣らせた。
 
 則子さんは一度重苦しい溜息を吐くと、再び朗らかな笑みを浮かべた。それはまるで貼り付いた仮面のようにも見えた。
 
 
「子供について、真砂から聞いたことあるかしら?」
「…はい、少し」
「なら解るわね。私と真砂は、五年前に子供を殺したの。行きすぎたセックスのあげくに子供を流産させたのよ」
「でも、真砂さんも則子さんも子供が出来てたなんて気付いてなかったんですよね」
「ええ、気付いてなかったわ。でも、だから何?」
 
 
 喜一のフォローを吐いて捨てるような、則子さんの寒々しい声音。則子さんはその美しい唇に微かな嘲りを滲ませて、投げ遣りに言い放った。
 
 
「気付いていようが、気付いてなかろうが、自分の子供を殺したことには変わりないわ。真砂も私も共犯で加害者。子殺しの人でなし、鬼畜生よ」
 
 
 そう噛み付くように吐き出すと、則子さんは硬直した喜一を見て、疲れたように唇を引き攣らせた。青白い血管が微かに浮かび上がったコメカミをそっと指先で押さえて、言葉を続ける。
 
 
「ねぇ、きぃさん、言い訳なんて幾らでも作れるのよ。子供が出来たことに気付かなかった。この世の中には何万人もの赤ん坊が親の意志で堕胎されている。流産なんて大したことじゃない。あれは事故だ。また子供は出来る」
 
 
 一息に言い切って、則子さんは小さく肩を竦めた。
 
 
「私だって初めはそう考えたわ。一人目の子は残念だけど流れてしまった。だけど、まだ私も真砂も若いし、二人でも三人でも産もうと思えば産める。流産ぐらいで落胆したり、長々と悲しみ続ける必要はないって、そう思ってたの」
 
 
 そう言って、則子さんは薄く嗤った。暫く隠微な笑いに肩を細かく揺らす。だが、次の瞬間、酷く弱々しい声でこう続けた。
 
 
「だけど、ある日公園を歩く家族連れの姿を見たの。お父さんとお母さんに手を繋がれて歩く子供の姿を見て、私はそこに真砂と私の姿を重ねたわ。子供のいる温かい家庭を思い描いたの。でも、幾ら想像しても、子供の顔は真っ白のままだった。のっぺらぼう。それで、やっと気付いたの。私は産まれてくるはずだった子供が男の子だったか女の子だったかも知らない。知る間もなく、死なせた。私が腹の中で殺したんだって。その瞬間に、私はどうしても私が許せなくなったの」
 
 
 則子さんが下腹をぎゅうと掌で押さえて、震える息を吐き出す。数秒の沈黙の後、則子さんは淡く微笑んで喜一を見上げた。喜一は唇を噤んだまま、じっと則子さんを見返した。
 
 
「産まれてくるまでは胎児は人間としてカウントされない。たとえ殺しても罪に問われることはない。だけど、罪は罪よ。私にとっては見知らぬ他人を殺すよりもずっと重い罪だったの。私と真砂の血肉で作った命を、たかが一時の快楽のために奪った。何の言い訳も通用しない。私は私を許せない」
 
 
 そう言って、則子さんは場違いなぐらい晴れやかに笑った。笑っているのに、則子さんが泣いているように喜一には見えた。
 
 
「でも、だからって、どうして真砂さんから離れなくちゃいけないんですか?」
「真砂がもう子供は作らないと言ったからよ」
「則子さんは、子供を産みたいんですか?」
「欲しいとは思うわ。でも、もう産むつもりはないの。産めないと思う」
「それなら、どうして…」
「真砂が子供を作らないと言った時に、あの人も苦しんでいることが解ったからよ」
 
 
  悲しげに眉を顰めて、則子さんは親指の爪を噛んだ。爪を噛む前歯がカチカチと神経質な音を微かに響かせる。
 
 
「あの人も子殺しの罪を背負っているんだと解った。だから、離れなくちゃいけないと思ったのよ」
「どうして。二人とも苦しんでいるなら、傷が癒えるまで一緒に居ればいいじゃないですか」
「真砂にとって私が“傷”なの」
 
 
 喜一は息を止めた。則子さんは優しく微笑んでいる。
 
 
「私が真砂にとって“殺した子供の象徴”になっているの。私を見る時、真砂の目が時々苦しそうに歪むの。殺した子供を思い出して、あの人は酷く悲しむの」
「そんな…」
「私が傍に居たら、真砂はずっと殺してしまった子供の事を忘れられない。あの人は永遠に苦しみ続ける。私の存在が真砂を傷つけてるのが私にはどうしても耐えられない。だから、離れるの」
 
 
 突き放すような則子さんの口調に、喜一は言葉を失った。則子さんは小首を傾げた後、ゆっくりと言葉を続けた。
 
 
「ね、解ってくれた? 愛してるからこそ離れなくちゃいけない時もあるのよ」
「でも、こんなの…」
 
 
 続く言葉が思い浮かばずに、喜一はガックリと項垂れた。則子さんが、ふふ、と短く笑い声を零して、喜一の頭をそっと撫でた。
 
 
「ありがとう、いろいろと心配してくれたのね。でも、大丈夫なの。私も真砂も大丈夫よ。お互い独りで生きていけるわ」
 
 
 大丈夫と繰り返される度に、胸の奥から無力感が沸き上がってくる。結局喜一には何も出来ない。愛し合いながら離れていく夫婦を引き止めることなど出来るはずがない。
 
 
 ――でも、独りで生きていけたって孤独は消えない。寂しさは一生拭えないじゃないか。
 
 
「…則子さん」
「ん?」
「一つだけ、俺のお願い聞いてもらえませんか?」
 
 
 喜一の突拍子のない言葉に、則子さんは一度不思議そうに瞬いた。思案するように唇を窄めてから小さく頷く。
「いいわよ、一つだけね」
 
 
「則子さんがお婆ちゃんになって、真砂さんがお爺ちゃんになったら…ここに戻って来てくれませんか? いつか自分を許せるようになったら、このマンションに、真砂さんがいるところに帰ってきて下さい」
 
 
 則子さんが驚いたように目を見張る。その咽喉が大きく上下する。数秒間の硬直の後、則子さんは唐突に顔面をくちゃくちゃに歪めた。幼稚園児が泣くのを堪えているような表情だった。
 
 
「そんなの酷いわ」
「酷いですか」
「ええ、酷すぎるわ。希望を残すなんて」
「駄目ですか?」
 
 
 喜一の問い掛けに、則子さんは一瞬黙り込んだ後、大きく首を左右に振った。俯いたまま、両手で顔を覆う。
 
 
「…しわくちゃのお婆ちゃんになっても、真砂は私だって解ってくれるかしら」
「解りますよ、絶対に」
「なら、もう寂しくないわ…」
 
 
 顔を覆う両手の間から、ぽつぽつと雨が滴っていた。則子さんは玄関口に立ち尽くしたまま、声も出さずに泣いていた。
 
 

backtopnext

Published in 再生

Top