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23 逃げ続ける

 
 数時間後に真砂さんが帰ってきた。真砂さんは食卓に並べられた二人分しかない食事を見ると、独り言のように呟いた。
 
 
「則子はもう出ていったか」
「はい」
 
 
 炊き立ての白米を茶碗によそって、真砂さんへと差し出す。真砂さんは上の空のまま茶碗を受け取って、椅子に座り込んだ。
 
 
「夕方に出て行かれました」
「そうか」
「追いかけないんですか?」
「追いかけても無駄だ」
 
 
 切り捨てるような口調なのに、その声音はどこか切なげだった。喜一は真砂さんの向かい側に座ると、窺うように真砂さんを見遣った。真砂さんは相変わらずの無表情で宙を眺めている。
 
 
「きぃ」
「はい、何ですか?」
「俺は捨てられたのか」
 
 
 真砂さんらしくない感傷的な台詞だった。喜一は眉をハの字にへし曲げて、逆に問い掛けた。
 
 
「寂しいですか」
「あぁ、寂しいな」
「それを則子さんに直接言ってあげればよかったんです」
「寂しいと?」
「則子さんがいないと寂しい。愛してる。傍にいて欲しいって。単純な台詞ですよ」
「柄でもねぇ。今更そんなこと言えるか」
 
 
 真砂さんの顔が苦虫を噛み潰したように歪む。だが、言った直後に真砂さんは片手で額を押さえた。苦悩するような男の姿に、喜一はぽつりと言葉を漏らした。
 
 
「今言えないなら、お爺ちゃんになるまでには言えるようになって下さい」
「何?」
「真砂さんがお爺ちゃんになった時に、則子さんはここに帰ってきます。そう約束してくれました」
 
 
 淡々と語る喜一を、真砂さんがまじまじと凝視する。喜一はあえてその視線を無視するように夕食を食べ始めた。白身魚の身をほぐして、白米と一緒に飲み込む。真砂さんは暫く訝しげに喜一を眺めた後、ぽつりと独りごちた。
 
 
「俺はまだ則子を愛していてもいいのか」
「愛してなきゃ困ります。則子さんが帰ってこれないじゃないですか」
「そうか」
 
 
 能面な真砂さんの表情が微かに解ける。嗚呼、この人、首を絞めなくてもこんな優しい表情が出来るんじゃないか。そう思うと、なぜだか切ないようなもどかしいような奇妙な感慨が胸に満ちた。
 
 
「待ってて下さい。則子さんが真砂さんのところに帰ってくるまで」
「あいつに爺になった俺が解るのか?」
「それ、則子さんも心配してましたよ」
 
 
 思わず笑いが零れた。どこまでも似たもの同士な夫婦だ。笑う喜一を見て、真砂がふと真顔になる。
 
 
「きぃ」
「はい」
「ありがとう」
 
 
 驚きすぎて椅子から飛び跳ねそうになった。真砂さんからお礼を言われたのなんて初めてだった。聞き間違いかと思って、真砂さんの顔を疑うように眺める。だが、真砂さんは感情が読めない無表情に戻ってしまっていた。喜一はもごもごと言い淀んだ後、小さく頭を下げた。
 
 
「俺も、ありがとうございます」
 
 
 攫ってくれて。そう続けて、喜一は真砂さんを見詰めた。真砂さんが頷く。何に対してかも解らないが、ゆっくりと確かに頷いた。それきり何も言わずに、二人で黙々と食事を続けた。
 
 
 
 
 
 則子さんが出ていって、真砂さんと二人きりの生活が始まった。規則正しく、そして酷く単調な生活だった。ある意味自堕落と言い換えてもいい。
 
 真砂さんは喜一に何も求めない。自主的に家事は行うが、おそらく喜一が日がな一日何もせずにぼけっとしていても真砂さんは文句の一つも言わないだろう。元々整頓されていた部屋では、三時間もすればあらかたの家事は終わってしまう。TVをつけてもワイドショーのゴシップに嫌気がさすばかりで、ろくに趣味もない喜一は有り余る時間を持て余した。
 
 そして、あれだけしつこく専属の話を持ちかけていたにも関わらず、真砂さんは相変わらず喜一を抱こうとはしなかった。一緒に眠りはするが触れては来ない。だが、時々夢うつつに誰かに頭をそっと撫でられているのを感じる。それを次の朝、真砂さんに訊ねれば、寝呆けていたんだろう、と白を切られる。そうやって、ただ無為に日々は過ぎていっていた。
 
 
 ある日、客から貰ったという日本酒で二人して晩酌をしていた時に、喜一は思い切って真砂さんに訊ねた。
 
 
「真砂さんは、どうして俺を抱かないんですか?」
 
 
 真砂さんは一度気だるそうに瞬いた後、反対に喜一に問い掛けた。
 
 
「抱いて欲しいのか?」
「そういうわけじゃないですけど。でも、自分が何のためにここにいるのか解んなくなりそうです」
「言っただろうが。首を絞めれるからお前を専属に誘ったわけじゃないと」
 
 
 呆れたように真砂さんが呟く。お猪口に入った日本酒を一口煽って、窘めるような眼差しで喜一を眺めてくる。喜一は、一瞬眉を曇らせた。
 
 
「それって、セックス目的じゃないってことですか?」
「そういう意味だと思ってもいい」
「じゃあ、何のための専属なんですか」
「さぁな」
 
 
 はぐらかすように真砂さんが視線を逸らす。はっきりしない真砂さんの言葉に、喜一は不貞腐れて唇を尖らせた。空っぽになった真砂さんのお猪口に日本酒を継ぎ足しながら問い掛ける。
 
 
「俺は何をしたらいいですか? 何もしないで、ただ居座るだけっていうのも息が詰まります」
「お前は甘えるフリは上手いくせに、本気で甘えるのは信じられないくらい下手糞だな」
 
 
 下顎を掌で支えて、真砂さんが苦笑いを零す。まるでお遊戯会で上手く踊れない幼児を見るような、温かな眼差しだった。
 
 喜一は日本酒をちびちびと嘗めつつ、情けなく眉をハの字に下げた。真砂さんはそっぽを向いたまま、ぽつりと呟いた。
 
 
「お前は、俺に怯えない」
「え?」
「お前といると落ち着く」
 
 
 喜一は軽く目を見張った。だが、真砂さんはその後こうも続けた。
 
 
「お前は好きなだけここに居てもいい。だが、出ていくのも自由だ」
「…出ていった方がいいですか?」
「人の話をちゃんと聞け。いるのも自由。出るのも自由。ただ、それだけだ」
 
 
 相反するような真砂さんの言葉に、喜一は首を傾げた。真砂さんは喜一の顔へと視線を送ると、ゆっくりと目を細めた。
 
 
「お前には、好きな奴がいるんだろう?」
 
 
 一瞬、顔が歪んでしまった。だが、歪めたことに自己嫌悪を覚えた。忘れたフリをしながら、まだ未練がましく想ってしまっている。
 
 
「…もういませんよ」
 
 
 自嘲に汚れた声で呟いて、お猪口に残った日本酒を一息に煽る。アルコールがカッと咽喉を灼くのが判ったが、余計にもっと飲みたくなった。テーブルに置かれた瓶へと手を伸ばすと、それよりも先に真砂さんが瓶を奪い取った。喜一は、思わず詰るような声をあげた。
 
 
「真砂さん」
「やさぐれるな、お前には似合わん」
「やさぐれたい気分なんです」
「あの男がまだ好きなのか?」
「やめて下さいよ。もう終わったことを蒸し返さないで下さい」
「正直に言え」
 
 
 執拗な真砂さんの言葉に、喜一は無言のまま立ち上がった。リビングを横切って、別室へと向かって大股で歩いて行く。脳味噌の奥が熱を放っている。怒りとも羞恥とも付かない感情が込み上げて、眼球の裏がぢんぢんと痺れるように痛んだ。
 
 
 別室の扉を開こうとノブに手をかけたところで背後から腕を掴まれた。真砂さんが喜一の腕を鷲掴んで、引き留める。邪険に真砂さんの手を振り払おうとする。だが、腕を掴む掌は離れない。背後から、真砂さんの無言の眼差しを感じる。
 
 
「放して下さい」
「きぃ、ちゃんと言葉にしろ」
「話したくない」
「そうやって、お前は一生逃げ続けるつもりか?」
 
 
 核心を突く一言だった。あまりの憤怒に一瞬目蓋の裏が真っ赤に染まった。くるりと振り返って、真砂さんを射るように睨み付ける。真砂さんは、ただ静かに喜一を見下ろすだけだ。決して責め咎める眼差しではない。だからこそ、余計に突き刺さった。
 
 
「俺に、どうしろって言うんですか」
「好きにしろ。だが、嘘は吐くな」
「嘘なんて…」
 
 
 言葉が尻すぼみになっていく。言葉が出てこないもどかしさに歯噛みして、喜一は叱られた子供のように俯いた。腕を掴んでいた真砂さんの手がゆっくりと離れて行く。掴まれていた腕が発熱したように熱くて、喜一は無意識にもう片方の手で腕を擦った。込み上げてくる奇妙な罪悪感に、真砂さんの顔が見れなくなる。俯いたままでいると、真砂さんが呟く声が聞こえた。
 
 
「お前は人を好きになったのに、そんな顔をするのか」
 
 
 まるで哀れむかのような口調だった。その言葉の痛みに、喜一はぐっと息を殺した。知らず目が潤みそうになる。それを堪える。必死で堪える。肩に力が入って、微かに震えた。真砂さんは掠めるように喜一の頬を撫でて、それからゆっくりとした足取りでテーブルの方へと戻って行った。日本酒を一口煽って、立ち尽くす喜一を見遣る。
 
 
「暇ならつまみでも作ってくれ」
 
 
 いつも通りの、真砂さんの淡白な声音だった。その声に促されるように、喜一はふらふらとキッチンに立った。冷蔵庫を空けたところで真砂さんがふと思い出したように言う。
 
 
「明日、檸檬が来るぞ」
「れっちゃんが?」
 
 
 驚きに声が零れる。
 
 
「お前に会わせろとしつこくて敵わん。迎えに来ると言っていたから、何処かに出掛けるつもりだろう。用意しておけ」
「はぁ…」
 
 
 曖昧な返事を返すと、真砂さんは一瞬真顔になった。
 
 
「もう一度だけ言っておく。お前は、お前の好きなようにしろ」
 
 
 奇妙な言葉だった。真砂さんらしくない、何処に主語があるかもよく解らないぼやけた言葉。喜一は数回瞬いた後、俯いたまま冷蔵庫の中へと手を伸ばした。
 
 

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