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24 恋すること

 
 翌朝、檸檬ちゃんがやって来た。穴だらけのジーンズと古びたスニーカーを履いて、黄色のパーカーを羽織ったすっぴんの檸檬ちゃんは、喜一の顔を見るなりニカッと歯を出して笑った。
 
 
「よぉ!」
 
 
 まるで男みたいな挨拶だった。格好も中学生の男の子みたいに見える。以前の檸檬ちゃんは確かブランド物の服とサングラスで自称パリジェンヌ風にきめていたような気がするが、この数週間の間で一体どんな大掛かりな衣替えをしたのか。
 
 
「どしたの、その格好」
 
 
 ぽかんと口を半開きにして指摘すると、檸檬ちゃんは自分の姿を一度見下ろしてからアメリカ人のようにオーバーに肩を竦めた。
 
 
「んー、イメチェンっつうのかな」
「イメチェン、なんだ」
「いーんだよ、んなことはよぉ! いいから、行こうぜ!」
 
 
 扉の前でぼんやりと突っ立っている喜一の腕を、檸檬ちゃんは強引に掴んだ。そのまま、ぐいぐいと勢いよく引っ張られる。まるで玩具売り場の前に親を引き摺って行こうとする子供のような仕草だった。
 
 
「い、行くってどこに行くの?」
「海だよ、海」
「どっ、どこの海?」
「海は海だろ。どうせ全部繋がってんだからさぁ!」
 
 
 理屈に合わない。いや、理屈には合ってるかもしれないけど、常識外れと言おうかしっちゃかめっちゃかな事を言って、檸檬ちゃんはヒッヒッと奇妙な笑い声をあげた。
 
 
「どうやって行くの? 俺、車もってないよ」
「きぃちゃんはそんなん気にしなくていいんだよぉ! ちゃんと足は用意してるから安心しろって!」
「足?」
「いいから、早くぅ!」
 
 
 玄関口でもたついていると、檸檬ちゃんがせっつくように声を荒げた。引っ張られるままに、慌ててスニーカーに足を突っ込む。
 
 
「真砂さん、いってきます!」
 
 
 リビングのソファに座ったままの真砂さんへと慌てて声をかける。指先に煙草を挟んだ真砂さんは鷹揚に頷いて、それからひらりと掌を振ってくれた。
 
 
「行って来い」
 
 
 まるで旅路を見送るような優しい声音だった。スニーカーの踵を踏ん付けたまま、檸檬ちゃんに引き摺られるように駆け出す。マンションから出ると、まるで夏のように燦々と輝く太陽が差していた。檸檬ちゃんが「熱ぃ!」とアスファルトの上をぴょんぴょん飛び跳ねながら騒ぐ。
 
 
 マンションの脇に見覚えのあるワゴン車が停まっていた。檸檬ちゃんが子供のような走り方で、ワゴン車へと駆けて行く。まさかと思って車内を覗き込むと、運転席を倒して煙草を吸う手嶋の姿が見えた。後部座席を開きながら、檸檬ちゃんが非難するような声をあげる。
 
 
「おい、手嶋よぉ! 煙草吸うなっつっただろうが!」
「檸檬さんがいる時は吸ってないです」
 
 
 吸い殻入れへと煙草を押し付けながら、手嶋がのんびりと起き上がる。喜一と目が合うと、手嶋は気怠そうに頭を下げた。
 
 
「どうも、お疲れ様です」
「これお店の車だよね」
 
 
 ワゴン車を指差しながら、呆れ半分で問い掛ける。手嶋は数回瞬いてから「はぁ」と曖昧な相槌を漏らした。
 
 
「一応店から許可取ってるんで大丈夫です。着くまで時間かかるんで、早く乗って下さい」
 
 
 無愛想な声に促されて、後部座席へと乗り込む。隣には、まるで遠足に行く子供みたいにはしゃいだ檸檬ちゃんが座り込んだ。檸檬ちゃんがパーカーのポケットから飴玉を取り出す。それを宝物みたいに喜一の掌へと握らせると、檸檬ちゃんはへらっと笑った。
 
 
「ほら、いちごミルク味!」
 
 
 まるで誇るみたいに言う。そんな檸檬ちゃんが可愛くて、喜一は檸檬ちゃんの頭をよしよしと撫でた。檸檬ちゃんが嬉しそうに目を細める。化粧をしていないせいか、檸檬ちゃんはいつもよりずっと幼く見えた。貰ったいちごミルク味の飴を口の中へと放り込む。途端、甘い味が咥内いっぱいに広がった。
 
 
「甘い」
 
 
 そう呟いた瞬間に、ワゴン車が動き始めた。檸檬ちゃんが意地悪するように手嶋の後頭部へと飴玉を投げ付けている。膝に落ちた飴玉を拾った手嶋が「これ貰ってもいいんですか」と問い掛けると、檸檬ちゃんは「別にいいけどよぉ」と拗ねたような声をあげた。その微笑ましい遣り取りを聞きながら、喜一はのんびりと外の風景へと視線を巡らせた。素晴らしい快晴だった。
 
 
 
 
 
 出掛けてから二時間ほど経った頃に、サービスエリアのフードコートで昼食を取った。喜一は天麩羅蕎麦を、檸檬ちゃんはカツ丼を頼んだ。そうして、手嶋の前には呆れるほどの大量の料理が並べられた。見ただけで七品以上はあるそれらを眺めて、喜一は呆然と呟いた。
 
 
「それ、全部食うの?」
「はい。それがどうかしました?」
 
 
 事も無げに手嶋が答える。その口には、すでに半分に切られたハンバーグが詰め込まれているようだった。まるでハムスターのように頬袋が膨らんでいる。決して太っているわけでもない手嶋の爆発的な食欲に呆然とする喜一を見て、檸檬ちゃんがカツ丼を頬張りながら言う。
 
 
「手嶋は大食漢なんだよなぁ。痩せの大食いっつうの? この間、カレー屋行ってさ、二十杯食べたら一万円とかのチャレンジで、こいつ三十杯も食べやがったんだよ。気に入ってた店だったのに、もう恥ずかしくて行けやしねぇ」
「檸檬さんが横でもっと食えってせっついたからじゃないですか」
「五月蝿ぇ! だからって、限度ってもんがあんだろ限度が!」
 
 
 檸檬ちゃんが手嶋をカッと怒鳴りつける。手嶋は小さく溜息をつくと、ふと物欲しげに檸檬ちゃんのカツ丼をじっと見詰めた。その視線に敏感に気付いた檸檬ちゃんがまるで我が子のようにカツ丼を抱き締める。途端、手嶋は残念そうに肩を竦めた。その遣り取りが面白くて、喜一は咽喉を鳴らして笑った。
 
 
「手嶋くん、天麩羅食う?」
「頂きます」
 
 
 そばに乗っていた天麩羅を半分ほど千切って、手嶋の皿へと置いてやる。すると、横で檸檬ちゃんが拗ねたような声をあげた。
 
 
「甘やかしちゃ駄目だって、きぃちゃん」
「れっちゃんも意地悪しちゃ駄目」
 
 
 反対に窘めると、檸檬ちゃんは不貞腐れたように頬を膨らませた。だが、怒っていても仕方ないと思ったのか、乱暴な仕草でカツを一切れほど手嶋の皿へと置いた。手嶋はまじまじとカツを眺めた後、ふと思いがけない無邪気さで頬を緩めた。
 
 
「ありがとうございます」
 
 
 そう呟く手嶋の柔らかい声音に、喜一はその瞬間何かを悟った。恨みがましそうに手嶋を上目遣いで睨み付ける檸檬ちゃんを、手嶋は真っ直ぐ見詰めている。無表情なのに、その眼差しが優しく和んでいるのが解る。
 
 手嶋の想いを悟った瞬間、居心地の悪さにも似た照れ臭さが込み上げてきた。気付いてしまった事に対して、何故だか喜一が羞恥心を覚える。胸の内側が妙にむず痒い。まるで中学生カップルの初デートに居合わせてしまったような感覚だ。気まずさを誤摩化すように、未だかつてないぐらい真剣に蕎麦を啜る。そんな喜一を見て、檸檬ちゃんがぶはっと噴き出すように笑った。
 
 
「きぃちゃん、そんなに蕎麦好きなのかよ!」
 
 
 違うよ、鈍ちん。そんな悪態をつきそうになるのを必死に堪えながら、じと目で檸檬ちゃんを見遣る。檸檬ちゃんは酷く上機嫌な様子で、地方の名産物を置いたらしい商品棚を眺めて「あっ!」と嬉しげな声をあげた。
 
 
「スイカあるぞ、スイカ! なぁ、海についたらスイカ割りしようぜ!」
 
 
 季節外れなスイカを見て、檸檬ちゃんがはしゃぐ。棚に飾られた小降りなスイカを眺めて、喜一はのんびりと笑った。久々に力を抜いて笑えた気がした。
 
 
 
 
 
 何度か寄り道をしつつ、結局海に辿り着いたのは午後一時を過ぎた頃だった。太陽の日差しに、真っ白な砂浜が眩しいくらい輝いている。目をキラキラに輝かせた檸檬ちゃんが勢い余って服を脱ぎ出そうとするのを片腕で取り押さえながら、のんびりと浜辺を見渡す。最盛期を過ぎてしまったためか、浜辺には殆ど人の姿が見えなかった。人気のない海の家らしきバラックがぽつんと寂しく取り残されているだけだ。
 
 興奮冷めやらぬ檸檬ちゃんが鼻息荒く叫ぶ。
 
 
「きぃちゃん、海だ!」
「海だねー」
「手嶋、海だぞ!」
「海ですね」
 
 
 自分と二人のテンションの差に隔たりを感じたのか、檸檬ちゃんが駄々をこねるように地団太を踏む。
 
 
「もっと、こう! パッションをさぁ! 溢れ出す情熱とかさぁ!」
 
 
 奇妙なことを言い始めた檸檬ちゃんに、喜一は手嶋と顔を見合わせて肩を竦めた。檸檬ちゃんは暫く不貞腐れたように唇を尖らせていたが、喜一がズボンの裾を捲り上げ始めると途端嬉しそうに頬にえくぼを作った。忙しない手付きで腕捲りをすると、ぐいぐいと喜一の腕を引っ張る。
 
 
「きぃちゃん、砂の城作ろうぜ!」
 
 
 今日の檸檬ちゃんは普段よりもずっと子供っぽかった。それが酷く喜一の心を和ませた。だが、もしかしたら喜一のために檸檬ちゃんはわざと子供のようなフリをしているのかもしれないとも思った。檸檬ちゃんは聞かない。喜一が何故真砂さんの元へと行ったのか。店に出なくなったのか。何も聞かないまま、ありのままの喜一を受け容れようとしてくれている。それが今の喜一には泣きたくなるぐらい有り難かった。
 
 波打ち際に二人で座り込んで、童心に返ったように素手で砂を弄くり回す。時々足元まで波が寄ってきて、その度に檸檬ちゃんは大袈裟な悲鳴をあげた。海水に戯れに爪先をつけては、「冷てぇ!」と叫んで笑い転げる。
 
 手嶋は、砂浜にぽつんと取り残されたパラソルの下に座っていた。所々に穴があいた色褪せた赤と水色のパラソルが妙に物悲しいような、何とも言えない複雑な感傷を抱かせた。
 
 砂浜に流れ着いていた手頃な流木で季節外れなスイカ割りもした。手嶋は檸檬ちゃんに回されすぎたあげくに砂浜で見事に転倒して、檸檬ちゃんに大笑いされた。小降りなスイカは、檸檬ちゃんの加減を知らない華麗な一撃で粉々に砕けた。砂だらけになった真っ赤な果肉を眺めて、三人揃って「あーあ」と何とも言えない声を零した。
 
 
 気付けば海に来てから一時間以上が経過していた。檸檬ちゃんはまだ来た時と同じくらいの元気さで砂浜を走り回っている。その底なしの体力を羨ましく思いながらも、喜一は休憩を取るためにパラソルの下に座る手嶋の横へと腰を下ろした。ぼんやりと宙を眺めていた手嶋がちらりと喜一を見遣る。
 
 
「食べますか?」
 
 
 差し出されたのは、先ほど粉々に粉砕したスイカの欠片だった。赤い果肉からはぽたぽたと果汁が滴っている。
 
 
「ありがとう」
 
 
 軽く礼を述べてから、スイカの欠片を受け取る。果肉の所々についた砂を払い落として一口齧る。果肉が割れる軽い音と共に、生ぬるい果汁が緩やかに咽喉を潤すのを感じた。
 
 
 日除けにもならない穴だらけなパラソルの下で、無口な男と黙々とスイカを齧る。波の音に混じって、時々檸檬ちゃんの楽しげな笑い声が聞こえる。涼やかな風が首筋を通り過ぎて、皮膚は熱いのに背中がひやりと上下する。時間の流れを忘れるほど、酷く穏やかな空気だった。
 
 手嶋の視線がゆっくりと動く。波に足首まで浸したまま、じっと水平線を見詰める檸檬ちゃんを手嶋は見ている。不意に、喜一は寂しくなった。何が寂しいのかも解らなかった。ただ、その瞬間、胸が奇妙な切なさに締め付けられた。
 
 
「手嶋くんはれっちゃんのことが好きなの?」
 
 
 思わず問いかけていた。手嶋が緩慢な動作で、喜一へと視線を向ける。
 
 
「はい、好きです」
 
 
 誤魔化しも羞恥もない、ただ事実を告げるような淡泊な声音だった。
 
 
「れっちゃんと付き合ってるの?」
「いいえ、付き合っていません。振られましたから」
 
 
 手嶋の言い方は、酷くあっさりとしていた。ある意味開き直ったようにも聞こえる。
 
 
「振られたのに、一緒にいるの辛くない?」
「まったく辛くないと言えば嘘になりますけど、拒絶されるよりかはずっとマシです」
「手嶋くんはそれでいいの?」
 
 
 喜一の問い掛けに、手嶋は一瞬だけ俯いた。そうして、独り言のように呟く。
 
 
「誰しもが、好きな人に自分が望むように好かれるわけではありませんから」
 
 
 切ない一言だった。手嶋の視線が向けられる。その真っ直ぐな視線に、喜一はたじろいだ。
 
 
「檸檬さんは、自分は汚いから俺には相応しくないって言ったんです。金で身体を売るようなソープ嬢に恋なんてするもんじゃないって」
 
 
 思わず肩が強張った。それは、喜一が橘に言ったのと殆ど同じ台詞だ。込み上げてくる苦々しさに顔を歪めていると、手嶋が独り言のようにぽつりと呟いた。
 
 
「だけど、俺は檸檬さんみたいに綺麗な人は知らない」
 
 
 だから、諦められない。そう淡々と言い切ると、手嶋は小さく息を零した。喜一は暫く無言のまま動かなかった。檸檬ちゃんが遠くから手を振っているのが見える。手を振り返しながら、喜一はどうして人を好きになることはこんなに苦しいんだろうと考えた。
 
 

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