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25 はじまり

 
 海に居たのは大体二時間程度だった。帰りの車で、檸檬ちゃんは喜一の肩に凭れ掛かって爆睡した。喜一は、眠ってはいけないと思いつつも、耳の穴に潜り込む安らかな寝息の音に誘われて、いつしか意識を睡魔へと明け渡していた。
 
 
 目が覚めた時には、夕陽が車内へと差し込んでいた。車はもう既に止まっている。運転席にいる手嶋はぼんやりと前を見据えている。檸檬ちゃんは喜一よりも先に目を覚ましていたのか、膝に拳を押し当てたままじっと俯いていた。
 
 
「あぁ、ごめん…寝てた…」
 
 
 寝呆け眼を擦りながら、ぼんやりと呟く。途端、はっとしたように檸檬ちゃんが喜一を凝視した。その驚愕の表情に、喜一は面食らった。
 
 
「何? 何かあった?」
「きぃちゃん…」
 
 
 喜一の問い掛けに、檸檬ちゃんが微かに泣き出しそうな声を漏らす。檸檬ちゃんの瞳に滲んでいるのは喜一に対する罪悪感だ。だが、一体何故罪悪感など抱いているのか。
 
 解らず首を傾げようとした瞬間、喜一は唐突に気付いた。窓に貼り付くようにして外の光景を凝視して、呻くように呟く。
 
 
「ここ、どこだよ」
 
 
 どこだ、と問い掛けながらも、喜一は既に答えを知っていた。だが、何のためにこんな場所に連れてきたのかは理解出来なかった。ここは、みーちゃんと喜一が暮らしたアパートのすぐ近くだ。見覚えのある薬局や公園の景色に、過去をほじくり返されているような不快感が腹の底から込み上げてくる。
 
 
「きぃちゃん、なぁ聞いて」
「もういい。ここで降りる」
 
 
 懇願するような檸檬ちゃんの声を跳ね付けて、車のドアへと手を伸ばす。だが、喜一がドアを開くよりも前に、檸檬ちゃんが喜一の腕を掴んだ。両手でぎゅっと掴むやいなや、檸檬ちゃんは悲痛な声をあげた。
 
 
「あの人、毎日来るんだよ。来るなって言っても、毎日毎日来るし、店を出禁にしても外でずっとあたしが出てくるの待ってんだよ」
「れっちゃん、放して」
「きぃちゃんに会いたいって言うんだよ。ただ会いたいだけなんだって毎日そればっかり繰り返して」
「れっちゃん」
「あの人、きぃちゃんのことが好きなんだよ! きぃちゃんもあの人のこと好きなんだろう!?」
 
 
 檸檬ちゃんが涙声で叫ぶ。まるで臓腑が引き千切れるかのような苦しげな声に、喜一は息を呑んだ。檸檬ちゃんを凝視したまま硬直する。
 
 
「あの人がきぃちゃんが前言ってたいい人だろ? あの人が犬のぬいぐるみもくれたんだろう? なぁ、あたし解るよ。きぃちゃんのこと大好きだから、解るよ。きぃちゃん、嫌いな人から貰ったもんをずっと持ってたりしないもんな。休みの日潰してまで嫌いな人を美容院行かせたり服買ったりしないもんな」
 
 
 そっと語り掛けてくる檸檬ちゃんの声に、喜一は背筋を小さく戦慄かせた。
 
 
「きぃちゃん、あたしが間違ってたら言ってくれよ。あの人のこと何とも思ってないなら、勝手なことしてごめんって謝るよ。こんな風に騙すみたいに連れてきて本当に悪かったって思うよ。でも、もしあの人のことが好きなら、もう一回会って、ちゃんと話してきて欲しいんだ」
「俺は、もうあの人に話すことなんてないよ」
 
 
 言葉を吐き出す唇が微かに震える。寒くもないのに、指先が異常なぐらい冷えている。凍えた指先を口元へと寄せて、唇の震えを確かめる。
 
 
「俺、橘さんに酷いこと言ったんだ。もうこれ以上、何も言えない。言いたくない」
「そんな事ねぇよ」
「ねぇ、れっちゃん、心配してくれてありがとう。でも、俺はこのままでいいんだ。今で十分だから、俺は大丈夫だから」
「大丈夫なわけねぇだろうが」
 
 
 声音は静かなのに、まるで真正面から怒鳴りつけられたような怯えが走った。一瞬、胸が大きく上下する。そんな喜一を見て、檸檬ちゃんがゆっくりと首を左右に振った。
 
 
「あたしはきぃちゃんが幸せだったらそれでいいよ。だけど、今のきぃちゃん全然幸せそうじゃねぇし、無理矢理自分の人生を“おしまい”にしようとしてるみたいで、見てて苦しい。そんな状態で今で十分とか、大丈夫だとか、口が裂けても言って欲しくない。それで、もしその原因があの人なら、ここでちゃんとケジメつけて、きぃちゃんに次に向かって欲しいんだよ」
 
 
 檸檬ちゃんは、そう切々と訴え掛けてくる。喜一は背中を車のドアへと押し付けたまま、次、という言葉を頭の中で反芻した。次、次って、一体。
 
 
「次、って何だよ」
 
 
 無意識に唇から掠れた言葉が漏れた。檸檬ちゃんが悲しげに眉を歪める。
 
 
「きぃちゃん…」
「橘さんから聞いたんだろ。俺、橘さんのお姉さんを死なせたんだよ。嗚呼違う、殺したんだ。一番好きな女の子を、俺は目の前で見殺しにした。だからさ、れっちゃん。俺は次なんて欲しくないんだよ。もう前にも後ろにも進みたくない。ここで“おしまい”にしたいんだ」
 
 
 自虐にまみれた台詞を訥々と吐き出す。そうして、ぐっと下唇を噛み締めて俯いた。一生拭われることのない悔恨が全身に満ちる。みーちゃんを殺しておきながら、どうして次なんて考えられる。みーちゃんが死んだ瞬間に、喜一の未来も消えたのだ。だから、喜一は自分に次があるということすら考えたくない。ただ、今この場所で静かに消えていくことだけが望みなのだ。
 
 力なく俯いていると、不意に頭に誰かの指先を感じた。檸檬ちゃんが優しく喜一の頭を撫でている。緩く顔をあげて、喜一は驚いた。檸檬ちゃんは、目を細めて淡く微笑んでいた。温かく包み込むような微笑みだった。
 
 
「なぁ、きぃちゃん忘れたのかよ。きぃちゃんが教えてくれたんだよ。大丈夫だって。生きてれば、おしまいじゃないんだって。あの日あたしに言ってくれただろ?」
 
 
 ひくりと口角が引き攣った。それはヒモ男に殴られた檸檬ちゃんを家に泊めた時に、喜一が譫言のように繰り返した言葉だ。あたしはおしまいだ、と泣く檸檬ちゃんを抱き締めて、おしまいじゃないと何度もその耳元へと囁いた事を思い出す。
 
 
「そんなの、ただの言葉だ…」
「ただの言葉が救いになることもあるんだよ。実際、あたしにはあの時のきぃちゃんの言葉が【神様】だった」
 
 
 神様、という単語に、喜一は一瞬目を大きく見開いた。大袈裟だ。過大評価にも程がある。あんなのはその場まかせの思いつきの言葉に過ぎない。神様の言葉どころか、ただの情緒不安定な男の戯言でしかない。そう言ってやりたかった。だけど、檸檬ちゃんの目は喜一から逸らされない。真っ直ぐに言葉を、その真心を投げ掛けて来る。不意に、胸が震えた。心の奥底から、灯火のような仄かな光が湧き上がって来る。贖罪にも祈りにも感じるその感情が喜一の心をぐらぐらと揺さぶる。
 
 
 許されない。救われたくない。終わりたい。幸せになんてなりたくない。だけど、本当は?
 
 
「きいちゃんの言葉があたしを“おしまい”にしなかった。だから、あたしもきいちゃんを“おしまい”なんかにさせない」
 
 
 そう力強く言い切ると、檸檬ちゃんは喜一の冷えた掌を両手でしっかりと包み込んだ。温かい掌だった。泣き出しそうに歪んだ喜一の顔を覗き込んで、快活に笑い掛ける。
 
 
「きぃちゃんがあたしのためにしてくれたこと、絶対に忘れないよ。たぶん一生感謝し続けると思う」
 
 
 檸檬ちゃんの目は仄かに潤んでいた。唇は微笑んでいるのに、瞳には涙を浮かべている。複雑で、息が詰まりそうなぐらい優しい表情だった。
 
 
「きぃちゃん、あなたに幸せになって欲しいよ。誰かのためにこんな強く想うこと、きっと一生に一度だけだよ。お願い、あたしの一生の頼みを聞いて。もしあの人のことが好きなら、会って、ちゃんと話して」
 
 
 そう言って、檸檬ちゃんは目元に滲んだ涙を手の甲でぐいと拭った。その手で、夕陽に照らされるアパートを指さす。まるでコンパスの針のような指だと思った。喜一が行くべき場所を真っ直ぐ示している。
 
 
 躊躇うように喜一は檸檬ちゃんを見詰めた。まるで母親に縋る子供のような心境だった。唇が何か言おうとして半開きのまま、微かに上下する。だが、何も言えない。頭の中がぐちゃぐちゃで、言うべき言葉が思い付かない。檸檬ちゃんが宥めるように喜一の背中をゆっくりと撫でる。そうして、耳元に優しく囁いた。
 
 
「大丈夫。大丈夫だよ、きぃちゃん。ここが“はじまり”だよ。いってらっしゃい」
 
 

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