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26 嘘は言わない

 
 告げられた部屋番号は、喜一とみーちゃんが暮らしていた部屋のものだった。
 
 住み慣れた場所は記憶の中に深く残っていた。黄色と紫のパンジーが植えられた小さな花壇、水色の塗装が剥がれ掛けた階段の手摺り、蒲鉾板の破片で作られたような安っぽい表札。指先で緩くなぞると、柔らかい思い出が蘇ってくるのを感じる。喜一とみーちゃんの甘く優しい生活。表面張力の幸福と、崩壊と逃避。ここから始まって、ここで終わった。
 
 
 惨めさと紙一重の懐古に浸りながら、ゆっくりと部屋の扉を開く。がらんどうになった部屋の真ん中に、窶れた顔の男が座っていた。髪の毛はぼさぼさで、牛乳瓶の底のような分厚い眼鏡を掛けている。初めて出会った時の垢抜けない姿の橘がそこにいた。
 
 橘はどこかぼんやりとした眼差しで喜一を眺めてから、微か口元に笑みを滲ませた。
 
 
「あぁ、来てくれたんですね」
 
 
 覇気のない声だった。空気に消え入るような静かな声は、まるで亡霊の呻きのようにも聞こえる。その声にひくりと背筋を震わせながら、喜一は座り込む橘の前へと緩く膝を落とした。
 
 
「…はは、ひでぇ格好」
 
 
 落ちぶれたような橘の姿が見ていられなくて、わざと笑い事にするみたいに軽口を叩く。だが、橘は弱々しく首を左右に振るだけで、にこりともしなかった。
 
 
「目が乾いてコンタクトが入らないんです。ワックスも丁度切れてしまって…」
 
 
 ぼそぼそと篭もった声で呟く。手の甲で眼鏡を持ち上げると、橘は掌の側面で目蓋をゴシゴシといい加減に擦った。
 
 
「ちゃんと眠ってるんですか?」
「それなりに」
「それなりって…」
 
 
 漠然とした橘の返事に、思わず呆れたような声が零れる。橘はまだ目蓋を擦り続けている。その執拗な動作を止めるように、喜一は橘の手首を掴んだ。冷たい腕だった。
 
 
「眼球が傷付くから、あまり擦らない方がいいんです」
「でも、何だか痒くって」
 
 
 橘の目尻は微かに赤く腫れていた。まるで泣いた後のような目に、喜一は微かな苦々しさがこみ上げてくるのを感じた。斜めにずれかかった眼鏡を橘の顔から抜き取って、親指の腹でそっと赤く染まった目尻を撫でる。
 
 
「擦るから余計に痒くなるんです。もう掻かないで下さい」
 
 
 言い聞かせるような喜一の言葉に、橘は俯いたまま「はぁ…」と気のない返事を返した。まるで寝呆けているかのような橘の受け答えに、喜一は酷く焦れったい心地になった。これじゃどっちが呼び出したのか解りゃしない。
 
 
「一体、貴方なにがしたいんですか」
 
 
 思わず詰るような言葉が零れていた。眦を尖らせる喜一を見ると、橘は数度緩慢に瞬いた。
 
 
「貴方が本当に来てくれるなんて思ってなくて…、何だか夢でも見てるみたいです」
「残念ながら、これは現実ですよ」
「そうですね。いまは喜一さんが近い」
 
 
 譫言のようにふわりと漏らすと、橘は喜一の頬へと手を伸ばした。その指先が触れる前に、喜一は微かに皮膚を戦慄かせて、橘の掌から逃れた。橘の掌が空を切って、力なく床へと下ろされる。喜一に避けられたのを感じて、橘が口元に自嘲じみた笑みを薄く滲ませた。
 
 
「…檸檬さんに謝らないといけないですね。貴方に会うために、随分しつこく追い掛けてしまいました」
 
 
 橘が鈍く肩を揺らして笑う。そこには、数ヶ月前の純真な男は残っていなかった。ただ疲れ、自分自身に失望した男が居るだけだ。そんな橘を見るのが居たたまれなかった。橘を歪めたのは紛れもなく自分だと自覚しているからこそ、余計に心臓が締め付けられるような痛みがあった。
 
 唇を固く噤んだまま黙り込んでいると、橘がふと部屋の中を見渡した。
 
 
「大家さんに無理を言って入らせて貰ったんです。喜一さんと姉のことも覚えてるようでした。あんな事があって可哀想だと、突然居なくなった貴方のことも心配していたようでした」
 
 
 ふと脳裏に恰幅のいい中年女性の姿が思い浮かんだ。そういえば、随分と気の良い大家だった。時々アパートの住人に田舎から届いたという大根やほうれん草を配り歩いては、長々と世間話に興じていた。みーちゃんや喜一に対しても、よく気遣ってくれた人だ。突然荷物も残したまま失踪してしまって、彼女には大層迷惑を掛けてしまったことだろう。それを思うと、胃がしくしくと軋むように痛んだ。
 
 
「貴方が残していった荷物は、ご家族が引き取られたみたいです。元気なら、管理人室に一度顔を見せに来て欲しいと言ってました」
 
 
 感情のない声で、淡々と橘は呟いた。まるで下手くそな紙芝居でも聞いているかのような薄ら寒い感覚が沸き上がってくる。橘は喜一を見ない。ぼんやりと俯いたまま、唇だけが機械的に細かく動いている。
 
 
「それが言いたくて、俺を呼んだの?」
 
 
 込み上げてくる苛立ちを隠しもせず、喜一は冷たく言い放った。頬を歪めて、橘をきつく睨み付ける。橘は一瞬唇を噤んだ後、傍らに置いていた大きなボストンバックを膝元へと引き寄せた。それを喜一の方へと押し寄せる。
 
 
「これを、返さなくちゃいけないと思っていたんです」
 
 
 促されて、ボストンバックのジッパーを開く。中に入っていたのは、あの手紙だ。死んだみーちゃんに送り続けていた現金入りの封筒。それが何百通も鞄の中に詰め込まれている。喜一は、それを酷く苦々しい心地で見下ろした。
 
 
「わざわざ返して貰わなくても結構です。橘さんに差し上げます。これは俺には必要ないものですから」
「そういうわけにはいきません。これは喜一さんのお金です」
「みーちゃんに送ったものを返されたくないんです。橘さんが使わないなら、これでみーちゃんの仏壇でも買って下さい」
 
 
 そう返した瞬間、不意に滑稽な気持ちが胸に満ち溢れた。口元が歪んだ笑みに引き攣る。
 
 
「あぁ、でも、みーちゃんも困るかな。俺の尻穴に注がれた金なんかで供養されちゃ、まともに成仏も出来やしない」
 
 
 皮肉るように吐き捨てて、込み上げてくる自嘲に肩先を小さく揺らす。壊れた人形のように乾いた笑い声をあげる喜一を見つめて、橘が微か悲しげに眉を歪める。
 
 
「姉は、貴方が好きでした」
「もういいよ、橘さん。そんなこと今更言ったって何にもならない。みーちゃんは死んだんだ」
「姉は幸せな人でした」
 
 
 語り掛けるような橘の声に、不意に憎悪が噴き出してきた。死んだ人間のことを解ったように語るな。死人は何も言わない。
 
 
「幸せな人がレイプされて殺される? 絞め殺されて、汚い池に全裸で捨てられるか? みーちゃんは不幸だよ。俺なんかと付き合って、あんな酷い死に方をして、世界で一番不幸な女の子だ」
 
 
 そう噛み付くように吐き捨てる。途端、橘が大きく目を見開いた。大きく広がった瞳孔は、まるでブラックホールのような底無しに見えた。そうして、橘は唇をぶるぶると震わせて、掠れた声をあげた。
 
 
「喜一さんが何と言おうと、姉は幸せでした。確かに姉の死に様は残酷で哀れなものでした。だけど、姉は決して苦しみながら生きてきたわけじゃない。姉は貴方に愛されて幸せに生きたんです。そんな姉を不幸だったと思い込む、貴方の方がずっと不幸だ」
 
 
 橘の声は微かに震えて、おぼつかなかった。まるで雑音混じりのマイクで喋っているかのように聞こえる。そうして、その戦慄く声はナイフのように喜一に突き刺さった。喜一は唇を引き攣らせて、橘を凝視した。橘も喜一を真っ直ぐ見つめている。
 
 
「姉が生きていた頃、僕と姉は三ヶ月に一度は会っていました。離れ離れになった家族の近況やお互いのことを会う度に何時間も話して…姉の話には、いつも貴方の名前が出てきました」
 
 
 橘の肩が大きくぶるりと震える。
 
 
「ずっと好きだった同級生から告白された話も、一時間以上も早く待ち合わせ場所についた初デートの話も、高校を卒業して同棲を始めた話も、全部僕は姉から聞いています。貴方の話をする時の姉はいつも嬉しそうで、幸せそうで…僕は羨ましかった。こんなにも誰かを好きになれて、その相手から好きになって貰えた姉が羨ましかった」
 
 
 微かな羨望と嫉妬が入り交じった橘の声音がベッタリと鼓膜に貼り付いてくる。声音は穏やかなのに、そこから垣間見えるのは紛れもない執着心だ。橘の妄執だ。
 
 
「会う度に姉が綺麗になっていくのを感じました。愛されている人はこんなにも明るく美しくなれるのかと思いました。喜一さんも解るでしょう。貴方から見て、姉は綺麗でしたか?」
 
 
 問い掛けてくる声に、喜一は小さく頷いた。どうしてだか橘から目を逸らせなかった。橘は反芻するように頷くと、取り憑かれたかのように言葉を続けた。
 
 
「貴方に愛されて、姉は綺麗になりました。幸せだと何度も言っていました。その姉の幸せを、どうして姉を愛した貴方が否定するんですか。喜一さんが一番信じてあげなくちゃいけないんじゃないですか。姉は幸せだったと、愛されて世界で一番幸せな人だったと」
 
 
 突き付けられる言葉に、喜一は硬直した。切々と語り掛ける橘の言葉が喜一を必死で築き上げた壁を叩き崩そうとする。
 
 喜一は何も答えられなかった。唇を噤んだまま、膝の上できつく拳を握り締める。橘はそんな喜一を眺めて、ゆっくりと言葉を続けた。
 
 
「少なくとも僕から見て、姉は貴方に会えて幸福でした。だから、喜一さんはもう自分を責めないで下さい。自分から不幸になろうとしないで下さい。どうか幸せになって下さい。それが、僕からの最後のお願いです」
 
 
 そう言い切ると、橘は疲れ果てたように長い溜息を吐いた。眼差しは悲しげに曇っている。喜一はひくりと口角を引き攣らせて訊ねた。
 
 
「最後の?」
「はい。もう貴方には会いません」
 
 
 三行半でも下すかのような冷徹な一言だった。喜一を切り捨てるかのような橘の言葉に、途端ぶわっと額に冷汗が滲むのを感じた。握り締めた掌が湿り気を帯びて、指先が戦慄く。
 
 
「そう。そうなんだ」
 
 
 唇から勝手に言葉が零れる。唇が冷たくて、感覚がない。目の奥がチカチカして、地震でも起こったみたいに視界が揺れる。今自分はショックを受けているんだと他人事のように思った。でも、どうしてショックを受けるのか。あんなに橘には二度と会ってはいけないと思っていたのに、いざ橘から切り捨てられると解ったらショックを受けるなんて馬鹿らしいにも程がある。
 
 俯いたまま指先を微かに震わせる喜一を眺めて、橘が静かに呟く。
 
 
「最後に本当のことを教えてくれませんか?」
「本当の、こと?」
「貴方は、僕のことをどう思っていたんですか?」
 
 
 奇妙な質問に、喜一は目を瞬かせた。橘が苦しげに顔を歪める。
 
 
「貴方は全部嘘だったって言ったじゃないですか。僕のことを好きではなかったって。なら、本当は僕のことをどう思っていたのか知りたいんです。馬鹿な客の一人ですか? 鬱陶しい男でしたか? それとも、柏木美名のただの弟ですか? 僕は、貴方にとって何だったんですか?」
 
 
 責める口調ではなかった。淡々とした口調の底からは何の感情も窺えない。まるで昨日の天気でも尋ねるような無機質な声だった。
 
 喜一は二三度唇をはくはくと上下させた後、何も言えずに俯いた。どう答えればいいのか解らなかった。違う、本当は解っていた。橘を徹底的に遠ざけるためには、ただ一言こう言えばいい。
 
 
『貴方のことなんか何とも思っていませんでした』
 
 
 これが正しい返答だ。そう言えば、橘はもう二度と喜一に近付いてくることはなくなる。喜一のせいで橘が不幸になることもない。そう解っているのに、答えはとっくに出ているいるのに、唇が凍り付いたかのように動かない。喜一は、ただ黙り込んだ。胃がぎゅっと縮まるような恐怖が全身にまとわりついている。
 
 
 沈黙が何分続いたのだろう。橘が無言のまま立ち上がった。その動きに、身体がビクリと大袈裟に跳ねる。
 
 
「…こんな終わり方でしたけど、喜一さんに会えて本当に良かったです。貴方と一緒にいる時間は、とても楽しかった。どうかお元気で。さようなら」
 
 
 完全に息が止まった。橘が緩やかな足取りで喜一の横を通り過ぎていく。目の前が真っ暗になって、心臓が引き千切れそうに痛んだ。さようなら、という言葉がこんなにも残酷に聞こえるだなんて。
 
 遠ざかっていく足音が止まる。訝しげな橘の視線が喜一へと向けられている。気付いたら、引き留めるように橘の服の袖を掴んでいた。
 
 
「何ですか?」
「…」
「何か言ったらどうなんですか?」
 
 
 自分の無意識の行動に、理由なんて説明できるわけがなかった。ただ、橘を見上げたまま、喜一は怯えたように唇を震わせた。掴んだ袖が離せない。橘は暫く無表情のまま喜一を見下ろしていたが、次第に顔を歪めていった。瞳が怒りに赤黒く染まっていく。
 
 
「いい加減にしろ! あんたはいつまで黙ってるつもりなんだッ!」
 
 
 橘のものとは思えない乱暴な口調だった。袖を掴んでいた指先を振り払われて、橘の拳が高く振り上げられる。殴られる、と思った瞬間、身体が竦んだ。目蓋を閉じて、守るように両腕で頭を抱える。だが、いつまで待っても橘の拳は落ちてこなかった。恐る恐る腕ごしに視線を向けると、橘は拳を振り上げたままぶるぶると震えていた。
 
 
「本当に…何のつもりなんですか…」
 
 
 怒りとも怯えともつかないもので橘の声は酷く掠れていた。そう呟くと、橘はガックリと項垂れて、そのまま床へと力なくへたり込んだ。焦燥し切った様子で、ぽつぽつと呟き始める。
 
 
「…貴方に会えて良かったなんて嘘です。貴方なんかに会うんじゃなかった。初めから探したりしなけりゃ良かった。貴方に恋をしたのが一番の間違いだったんだ。そうすれば、僕はこんなに惨めな人間にはならなかった…」
 
 
 怨恨を吐き出しながら、橘は「ふふ」と短く乾いた笑い声を零した。喜一は呆然と橘を見つめた。
 
 
「橘さん…」
「ねぇ、貴方は僕のことを優しいと言いましたよね」
 
 
 歪んだ笑みを浮かべて、橘が問いかけてくる。まるで泥でも詰め込んだかのように眼差しは濁っていた。
 
 
「僕は優しいから、姉の代わりになろうとしているんだって。貴方の面倒を見ようとしているんだって」
 
 
 滑らかな口は止まらない。まるで喜んで毒を煽るような、酷く自虐的な声音だった。橘の笑みが深まる。まがまがしいほどに華やかな笑みだ。その笑顔から目が逸らせなかった。
 
 
「喜一さんは本気でそう思っているんですか? 僕が自己犠牲の精神で貴方を好きになったとでも? 義務的に、姉の身代わりになろうとしていると?」
 
 
 蕩けるような笑みが間近に迫ってくる。瞳孔の開いた瞳が喜一の顔を至近距離で覗き込む。それが息が止まりそうなくらい恐ろしい。甘やかだった橘の声音が不意に尖る。
 
 
「あんたは僕を何だと思ってるんですか? 僕は聖人君子か? 途方もなく阿呆なお人好しですか? 僕が貴方を傷つけないとでも?」
 
 
 橘が吐き捨てる。橘は頬を微かに引き攣らせると、酷く濁った笑い声を立てた。
 
 
「僕は優しくない。醜くて、最低に薄汚い」
「何、言って…」
「あの日、貴方があの男を殴った夜、貴方は姉のところに帰りたいと言いましたね」
 
 
 不意に橘の口から出てきた台詞に、喜一は目を瞬かせた。薄っすらと記憶が蘇る。檸檬ちゃんのヒモだった男を殴り飛ばし、橘に縋るようにして泣きながら喜一は「みーちゃんのところに帰りたい」と譫言のように呟いた。だが、なぜ今その話を持ち出すのか解らず、喜一は怪訝そうに眉根を寄せた。
 
 橘は思い詰めたかのように、じっと俯いている。
 
 
「あの瞬間、僕は最低なことを考えました。人として、絶対に許されないことを」
 
 
 ぼそぼそとした小さな声音は、まるで念仏のようにも聞こえた。聞き取ろうと顔を寄せた瞬間、ふと橘が顔をあげた。その顔面には、まるでピエロのような泣き笑いの表情が貼り付いている。
 
 
「あの時、僕は姉が死んだのが心底嬉しかった」
 
 
 一瞬、耳を疑った。目を見開いたまま閉じられなくなる。驚愕を浮かべた喜一を見詰めて、橘は口元に捻れた薄笑いを浮かべた。
 
 
「喜一さんがどれだけ姉が好きでも、死人のところに帰ることはできない。姉さえいなければ、僕が貴方を手に入れることができる。それを思って、僕は天にも昇る気持ちになりました。姉を想って泣きじゃくる貴方を抱き締めながら、あの時の僕は笑い出しそうになるのを必死に堪えていたんです。姉が死んでいることに心から感謝しました」
 
 
 橘の掠れた声は止まらない。震えながらも外へと漏れ出す。
 
 
「これでも、僕は優しい人間ですか? 姉のことを思いやる良い弟ですか?」
 
 
 陰鬱な声音がぞわりと首筋を撫でる。まるで壊れたピアノのような不協和音な笑い声が空気を陰微に揺らす。笑っているのに、喜一にはそれがまるで泣き声のように聞こえた。
 
 
「た、ちばなさん…」
 
 
 言葉が続かなかった。ただ、呆然と喜一は座り込んでいた。頭の中が真っ白だった。姉の死を喜ぶ男をなじることすら出来なかった。喜一には責められない。橘が俯いたまま、自身の前髪をくしゃりと掌で掴む。橘の指先は小さく震えていた。
 
 
「僕は姉が好きでした。家族として大事に思っていました。お葬式の時にはあんなにも悲しかったのに、あんなに泣いたのに……でも、そんな涙には何の意味もなかった。たかが恋の一つで、僕は姉を裏切った。家族の死を喜んでしまった。最低な人間です。僕は汚い。自分が気色悪くて堪らない…」
 
 
 呻くように呟くと、橘は両腕で頭を抱えた。その指先が髪の毛を引き千切るように鷲掴んでいる。
 
 
「あの夜から一ヶ月間、殆ど眠れませんでした。生まれて初めて、自分を憎みました。姉への罪悪感で押し潰されそうでした。こんな事を考える奴は最低なクズだと何度も自分自身を罵りました。貴方のことを忘れようと、こんな醜い恋は捨ててしまおうと思っても、貴方のことが頭から離れなくて…どうしても貴方が欲しくて…」
 
 
 まるで取り憑かれたかのような橘の声音。橘が瞳を潤ませたまま、自嘲を零す。
 
 
「貴方を愛して姉は綺麗になった。それなのに、僕は貴方を愛して醜くなった。どうして、血の繋がった姉弟でこんなにも違うんだ。どうして、姉さんは愛されて、僕は愛されない」
 
 
 駄々を捏ねる子供のように呟くが、既にそれを諦め切っているかのような疲れた声だった。
 
 
「僕の何が駄目だったんですか。全部駄目だったんですか。姉のように振る舞えば良かったんですか。姉の代わりになれば良かったんですか。僕は、どうすれば貴方に愛されたんですか」
 
 
 喜一に問い掛けているというよりも、それは自問自答の声のように聞こえた。まるで懺悔するかのように、橘は頭を抱えたまま額を床へと押し付けた。それだけで橘の身体が一回り縮んでしまったような印象を受ける。
 
 
「こんな惨めなこと言いたくなかった。姉の死を喜ぶような畜生になりたくなかった。何も貴方を…姉の恋人を好きになることなかったのに……それなのに、どうしても諦められない。貴方が好きなのが苦しくて、愛されないのはもっと苦しい。頭が可笑しくなりそうです…」
 
 
 どうか、助けて下さい…。そう掠れた声で呟いて、橘は床に蹲ったまま嗚咽を零した。小刻みに震える背中を見ていると、何かが柔らかく溶けていくのを感じた。橘の告白に、心の奥で頑なに結ばれていた紐がゆっくりと解けていく。
 
 姉への懺悔とその恋人だった男への愛情に翻弄される男を見下ろして、喜一は咽喉をぎこちなく上下させた。空気が上手く吸い込めない。呼吸の仕方を忘れてしまったかのようだ。目の前の男を可哀想だと思った。可哀想で、悲しくて、切ない。複雑で猥雑で、そのくせ単純な感情が胸の奥から湧き上がって来る。息が止まりそうなくらい、橘が愛おしかった。
 
 
「泣かないで」
 
 
 小刻みに震える背中をそっと撫でる。橘は顔をあげない。
 
 
「橘さん、顔あげてください」
 
 
 優しく囁くと、橘がのろのろと顔を上げた。涙に濡れた瞳が痛々しい。濡れそぼった頬を掌で撫でると、橘は大きくしゃくり上げた。瞳の縁にみるみるうちに涙が浮かび上がって、喜一の掌をしたたかに濡らす。鼻先を近付けると、橘の皮膚からは海のような匂いがした。すっと胸の内側が軽くなるような柔らかい匂いだと思った。
 
 
「喜一さん、好きです…」
「はい」
「嘘でもいいから、僕を好きだと言ってください…」
 
 
 縋り付くような男の言葉が切なかった。ぼろぼろと絶え間なく涙を零す瞳を覗き込む。
 
 
「もう、嘘は言いません」
 
 
 そう告げると、橘は顔をくしゃくしゃに歪めた。悲しげに嗚咽を零す唇をゆっくりと唇で塞ぐ。橘の唇からは、淡い潮の味がした。途端、驚いたように橘が目を大きく開く。唇を離すと、呆然とした声で橘が呟いた。
 
 
「…何で、キスするんですか」
「好きだからです」
 
 
 自然と言葉が零れていた。橘が絶句した後、「嘘だ」と呻くように呟く。喜一はゆっくりと首を左右に振った。
 
 
「嘘じゃないです。俺は、橘さんが好きです」
「喜一さんは、僕に同情してるんですか? 哀れんで、そんな事を言って…」
 
 
 疑心暗鬼な男の言葉を掠め取るように、もう一度唇を落とした。濡れそぼった頬を両手で挟んで、祈るような気持ちで何度もキスを繰り返す。ただ真っ直ぐに心が伝わるように。柔らかく胸を満たしていく感情がある。これが愛なんだと漠然と、でも確信的に思った。
 
 
「橘さんを愛してます、心から」
 
 
 赤く腫れ上がった目尻に口付けながら囁く。橘が大きく咽喉を上下させて、それから喜一の胸元へとキツくしがみついてきた。まるで母親に縋る子供のような仕草だった。
 
 
「…お願いです。嘘だって、言わないで…」
 
 
 そう哀願する男が切なかった。胸元に縋り付く男の頭を、両腕で包み込むように抱き締める。自分はとてつもない大馬鹿者だと思った。何度足を踏み外しても、また一歩踏み出そうとしてしまう。だけど、これが間違っていても構わなかった。目の前が崖でも、きっとこの愛しい男の元へと自分は迷わず踏み出してしまうのだろう。
 
 橘の啜り泣く声が聞こえる。喜一は橘を抱き締めたまま、何度も「ごめんなさい、愛してます」と繰り返した。いつか終わる時が来ても、この真心が少しでも橘の心に残ればいい。いつか何もかも失ったとしても、それだけできっと喜一の人生は満たされる。
 
 

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