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28 桜

 
 トンネルを抜けると、遠い山肌に桜色が広がっているのが見えた。青々とした緑色に混じって淡いピンク色が目に染み込むように飛び込んでくる。ずっと高速道路に乗っていたせいか、しょぼつく目に優しく浸透するような色合いだ。助手席のウィンドウから顔をはみ出させて、檸檬ちゃんがはしゃいだ声をあげる。
 
 
「きぃちゃん、桜だ!」
 
 
 子供のように逐一報告してくる声に、喜一はうんうんと丁寧に頷き返しながら和んだ声をあげた。
 
 
「綺麗だねー」
 
 
 そんな単純な返答にも、檸檬ちゃんはまるで百点のテストを褒められたかのように破顔する。助手席に背を埋めると、待ち切れないように細い両足をパタパタと前後に動かす。だが、直ぐに挙動不審になって後部座席を覗き込む。軽自動車の後部座席に居るのは喜一と橘の二人だ。運転席には、相変わらず無愛想な手嶋が座っている。
 
 
「れっちゃん、あんまり動くと怪我するよ。ほら、シートベルト緩んでる」
 
 
 落ち着きがない檸檬ちゃんを助手席へと押し付けて、緩んでいたシートベルトをきつくする。すると、檸檬ちゃんは不貞腐れるように唇を尖らせた。
 
 
「だって、こんな大人数で出掛けるのって初めてでよぉ。なんかすっげー楽しいじゃん」
 
 
 そう言いながら、檸檬ちゃんはググッと身体を捻るようにしてウィンドウ越しに車の後続へと視線を向けた。後続のワゴン車には、田中さんや今日お休みだった女の子達が何名か乗っているはずだ。桜の穴場スポットやらを飲み友達から聞いた田中さんが急遽思い立ったのが本日の花見だった。ソープで働く人間が花見だなんて何だか奇妙な感じもするが、何だかんだで女の子達も久々の遠出にはしゃいでいるようだった。
 
 
「きぃちゃんが一緒に来てくれて、すっげぇ嬉しいしさ」
 
 
 檸檬ちゃんがニカッと歯を出して笑う。その表裏のない明るい笑顔を見ていると、花見に参加する事にして良かったなと改めて思えた。初めに田中さんに誘われた時は、もうお店で働いていないということや、後で正式に謝罪には行ったものの逃げるようにして店を辞めたという負い目もあって、なかなか参加に踏み切れなかった。だが、田中さんの「今更気にしちゃいねぇし、店の奴らもお前のこと気にしてんだよ」という言葉と、ちょうど休みだった橘も一緒に来てくれるという理由もあって今回の参加を決心した。
 
 隣に座る橘へとちらりと視線を向ける。喜一と目が合うと、橘は何とも和んだ表情を浮かべた。
 
 
「僕も喜一さんとのお花見楽しみです」
「俺も楽しみだけど…でも、橘さん先週も会社のお花見だっただろ? ごめんな、二連チャンでお花見なんて」
 
 
 申し訳なさそうに呟くと、橘は苦笑を滲ませながら首を左右に振った。
 
 
「会社のお花見は仕事みたいなものですから。上司も居ますし、入ったばかりの新入社員の子達がもぞもぞと居心地悪そうにしているのを見ていると、何だか僕まで居たたまれなくなってしまって。普段よりずっと気を遣ってしまいました。でも、一年前の自分もこうだったのかなと思うと、少し懐かしい気もしましたけど」
 
 
 過去を思い返すように橘が宙へと視線を浮かべる。その遠い眼差しを横から眺めながら、喜一は不意に芽生えた悪戯心から橘の耳元へと囁きかけた。
 
 
「一年前は新卒丸出しの童貞くんだったしね」
 
 
 揶揄かうようにそう呟くと、橘はボッと頬を赤らめた。まるでリンゴのように染まった頬を見て、喜一はにやにやと笑みを深めた。橘が恨みがましそうな目付きで喜一を見遣って、ぶつぶつと文句を漏らし始める。
 
 
「恥ずかしいから、そういうこと言わないで下さい…」
「ねぇ、新入社員の子に可愛い子とかいないの?」
「可愛い子ですか?」
「橘さん、先月も先々月も売上げトップだったんでしょう? 今じゃエリート営業マンな橘先輩を慕って、すごいです。格好いいです。橘先輩抱いてーっ、て目をキラキラさせながら言ってくれるような子」
 
 
 妄想が入った喜一の台詞に、橘が軽く眉を顰める。
 
 
「売上げトップだったのは運が良かっただけです。今月はどうなるか解りませんよ」
 
 
 そう生真面目に返してくる橘の返答を、喜一はハイハイと適当に受け流した。毎度毎度そんな事を言っておきながら、月末には毎回売上げトップの賞金を持って帰ってくるのだから性質が悪い。一度コツを掴むと、とことん上へと登って行くタイプなのだろう。最初はお祝いなども頻繁にしていたが、毎度のことになるといい加減いちいち祝うのも馬鹿らしくなってくる。小さく溜息を付きながら、橘は首を左右に振った。
 
 
「そもそも、僕なんかに目をキラキラさせるような人いるわけないじゃないですか」
「本当に? 橘さんが気付いてないだけかもよ」
「例えいたとしても、僕には喜一さんという恋人がいるんですからキチンとお断りします」
「超美人で超可愛い子でも?」
「喜一さんほど美人で可愛い子はいません」
 
 
 喜一の戯言に、臆面もなくそんな事を言い返してくる。ぽかんと口を開いたまま、喜一は呆然と橘の真顔を眺めた。頬が一気に熱くなって、猛烈な恥ずかしさが込み上げてくる。
 
 
「橘さんって、ちょっと目が可笑しい…」
「ちゃんとコンタクト入っていますよ」
「じゃあ、頭の方…」
 
 
 揶揄かっていたのは自分の方だったのに反対に恥ずかしくされてしまったのが無性に悔しい。足掻くような喜一の言葉に、橘がすっと唇を耳元へと寄せてくる。そうして、隠微な声が鼓膜に潜り込んできた。
 
 
「貴方は可愛いって毎晩あんなに身体に教え込んでるのに、まだ覚えてないんですか?」
 
 
 夜の情事を匂わせるような甘く蕩けた声音に、一瞬ぞわりと背筋が粟立つ。ギョッと目を見開いて橘を凝視する。橘は表情を微かに雄のものへと変えて、口元にやらしい笑みを滲ませていた。その表情に、無意識に腰骨が戦慄く。耳までみるみるうちに真っ赤に染まっていくのが自分で判る。そんな喜一を見て、橘が楽しそうに笑い声を零す。熱くなった両頬を掌で押さえながら、喜一は横目で橘をねめつけて鈍く唸り声を漏らした。
 
 
 数ヶ月前まで何も知らなかったくせに、今の橘は喜一の身体に関しては誰よりも熟知していると言ってもいい。橘のセックスは、その穏やかな顔立ちに反して酷く荒々しい。喜一の意思を根こそぎ奪い取り、喰らい尽くしていくような獣の交わりだ。だからといって、決して独りよがりなわけではない。橘は常に喜一の快楽を最優先してくれる。一番感じる部分を重点的に擦り上げられ、喜一はいつだって咽喉を嗄すまで喘がされる。橘はいっそ病的とも言っていい勉強熱心さで、喜一の身体の反応や声や表情を事細かに観察して、喜一さえ知らなかった性感帯を見つけ出していく。店で働いていた頃のセックスはただ身体を“使われている”という感覚だったが、橘とのセックスは紛れもなく“犯されている”という感覚がある。橘に触れられる度に、喜一は自分の身体が作り変えられていくのを感じる。ゆっくりと浸食されるように、橘の女にされていると思う。それは男として恐怖でもあったが、奇妙な充足感を喜一にもたらした。
 
 今では、毎晩のセックスで腰砕けになった喜一を橘が風呂場へと連れていくのが習慣になっている。性に関しては自分の方がよっぽどこなれている自信があったのに、今では童貞を卒業したばかりの男に翻弄されるばかりで、それは喜一の羞恥心をより募らせた。優しくて不器用な男、それなのにしたたかで悪い男、両極端な一面を持つ男に、喜一は日ごと参っていくばかりだ。
 
 
「昔はもっと素直だったのに…」
 
 
 ぽつりと恨み言を零す。すると、橘は至極晴れやかな笑みを浮かべた。
 
 
「昔も今も変わらず、喜一さんが世界で一番大好きですよ」
 
 
 素直でしょう? そう小首を傾げて、橘は喜一の掌をそっと掠め取った。淡く絡められる指先に、くらりと目眩が走る。手を握られるだけで、頭がショートしたように何も考えられなくなる。心がぐずぐずに溶けてしまう。。喜一がそうなってしまう事を知ってやっているのだとしたら、とんだ悪い男になったものだ。
 
 
「後ろで、ベタベタいちゃついてんじゃねぇよー」
 
 
 助手席から檸檬ちゃんのじっとりとした視線が突き刺さっていた。檸檬ちゃんの視線は、繋がれた喜一と橘の手へと注がれている。慌ててその手を離そうとするが、橘が手の力を緩める気配はない。
 
 
「いいじゃないですか。今はちゃんとした恋人同士なんですから」
「誰のおかげで、きぃちゃんと付き合えるようになったか解ってんのかよ」
「檸檬さんの力添えのおかげです」
「なら、少しぐらい恩人の言うこと聞けよ」
「すいません、最近ちょっと耳が遠くて…」
 
 
 空っとぼけた事を言う橘を、檸檬ちゃんがギッと睨み付ける。手首の付け根でとんとんと片耳を叩きながら、橘が膨れっ面な檸檬ちゃんから視線をわざと逸らす。何だかその遣り取りが無性に面白くて、喜一は後部座席に背を埋めて笑い声をあげた。笑い転げる喜一を見て、橘が嬉しそうに口元を緩める。
 
 
「あーあ、こんなことなら真砂さんにも来りゃ良かったのにさぁ。そしたら、バカップルの邪魔してくれたのによぉ」
 
 
 檸檬ちゃんがぶつくさと不満を漏らす。真砂さん、という一言に橘の顔が一瞬引き攣るのが見えた。口元は笑っているのに目は笑っていない。その表情を見て、喜一は慌てて横槍を入れた。
 
 
「真砂さんは忙しいから、来れなくても仕方ないって」
 
 
 そう言いながら、橘の腕を軽くぽんぽんと宥めるように叩く。そうすると、橘の表情が少しだけ和らぐのが解った。
 
 橘は、あの喜一を攫われた一件から真砂さんに敵対心を抱いている節がある。真砂さんには大事な奥さんがいると何度言っても、橘は頑なに真砂さんに対する警戒心を解こうとはしない。たぶん真砂さんが何度も喜一を抱いていたという過去があるのも理由の一つだろう。月に一回真砂さんに会いに行くときも、檸檬ちゃんが一緒じゃないと絶対に喜一を家から出してはくれない。橘は穏和な顔立ちの底に、変質的とも思える嫉妬深さを時折覗かせる。
 
 橘の指先を握り締めたまま、ぼんやりと真砂さんの事を考える。橘と想いが通じ合ったことを伝えた時、真砂さんは喜一にマンションから出て行くことを即座に勧めた。独りぼっちになる真砂さんを心配する喜一を、真砂さんは『要らない気を使うな』と言って叱りつけた。
 
 
『俺は、もう寂しくない』
 
 
 そう言って、真砂さんは口元を微かに緩めた。その瞬間、喜一は真砂さんと則子さんが強く結びついているのを感じた。遠く離れた夫婦は、それでも強い絆で繋がっているのだ。いつか再び一緒になれるという希望の糸で。
 
 きっと、今も真砂さんはあの部屋でひとり則子さんの帰りを待ち続けているのだろう。それが何年何十年後になるかは解らない。だが、待っている間は真砂さんはきっと孤独ではないのだ。希望を抱き続けている限り、あの人が寂しい人になることはないのだろう。きっと則子さんも。
 
 
 前を向いていた檸檬ちゃんがくるりと振り向く。喜一を見ると、少ししょぼくれたように眦を下げる。
 
 
「どしたの、れっちゃん?」
「きぃちゃんも今月から忙しくなるんだろう? 大学入るって聞いたからさ」
「あぁ、うん、明日が入学式だね」
 
 
 肯定するように頷くと、途端寂しそうに檸檬ちゃんが顔を歪める。慌てて宥めるように言葉を付け加える。
 
 
「でも、全然会えなくなるわけじゃないし。れっちゃんと遊ぶ時間なら幾らでも作るからさ」
 
 
 それでも、檸檬ちゃんはしょげたように眼差しを落としている。よしよしと頭を撫でると、まるで飼い主のご機嫌を窺う犬のような目で見詰めてくる。
 
 
「大学でたくさん友達ができても、あたしと友達でいてくれる?」
「何言ってんだよ、当たり前じゃんか」
 
 
 檸檬ちゃんらしかぬ弱気な発言に、喜一は酷く驚いた。素っ頓狂な声でそれでも即座に返す。すると、檸檬ちゃんは途端嬉しそうに頬を緩めた。
 
 
 大学に入り直すと決めたのは、殆ど思い付きだった。橘と一緒に暮らし出してから、喜一は殆ど主婦の真似事のようなことを毎日繰り返すだけだった。橘を送り出して、帰ってくるのを家事の合間にぼんやりと待つ。喜一が女であればこんな生活を許容できたのかもしれない。だが、腐っても男だ。非生産的な生活に流石に焦りが滲み出していたのか、ある日橘から大学のパンフレットを渡された。
 
 
『時間はたっぷりありますから、いろいろ勉強しながらのんびり考える時間があっても良いと思いますよ』
 
 
 大学への再入学を勧められた時は少し迷った。だが、橘の言う通りいろいろと勉強することで新しく見えてくるものもあるだろうとも思った。今は真っ白な行く先も、四年間の時間で少しは見えてくるのかもしれない。大学への再入学を決めてからは、ここ数年縁がなかった受験勉強が再開された。合格が決まった時には、橘はまるで自分のことのように喜んでくれた。正直二十五歳になって大学に入り直すことに抵抗がないわけではない。だが、橘が喜ぶ顔を見ていたら、何だかそれだけで喜一も嬉しくなってしまった。今では大学に入るのが少し楽しみですらある。
 
 明日のことに思いを馳せて、微かに口元が緩んだ。そんな喜一を横から橘が眺めている。
 
 
「喜一さん」
「ん、何?」
「大学で可愛い子や格好良い人がいても浮気しちゃ駄目ですよ」
 
 
 随分と可愛いことを言う。拗ねたように呟く橘を見て、喜一は盛大に噴き出した。橘が「喜一さんっ」と窘めるような声をあげる。助手席で檸檬ちゃんがゲラゲラと笑い声をあげる。手嶋は無愛想なままだ。だが、時々バックミラー越しに喜一達に和んだ眼差しを向けている。
 
 
 さっきまで遠かった桜色が近付いている。ウィンドウを下ろすと、淡い桜の匂いが車内に広がった。檸檬ちゃんが「花見だ! 酒だー!」と高らかに声を張り上げた。
 
 

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