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29 幸せだよ

 
 満開の桜が視界を埋め尽くすように辺り一面咲き誇っている。桜の花びらが時折シャワーのように降り注いで、視界を淡いピンク色に染め上げる。田中さんが噂で聞いた穴場スポットというのは伊達ではなかったのか、花見には最適であろうその場所には喜一達一行以外に人の気配は見当たらなかった。
 
 
 その場に到着してからの展開は早かった。ワゴン車から降り立った女の子達は、きゃあきゃあとはしゃいだ声をあげながら派手な柄のレジャーシートを何枚も広げた。レジャーシートの上にはお菓子やお酒だけでなく、トランプや枕まで転がされた。到着して十分後には宴会の体裁が整っており、三十分経つ頃には殆どの女の子が泥酔状態へと陥っていた。
 
 芋焼酎の瓶を小脇に抱えた檸檬ちゃんが隣に座る手嶋へと絡んでいるのが見える。
 
 
「おい、手嶋よぉ。お前はさぁ、なんつぅか、強引さが足りねぇんだよなぁー」
 
 
 口調は完全に絡み酒のオッサンと化している。手嶋は、烏龍茶の缶を片手に「はぁ」と曖昧な返事を返すばかりだ。
 
 
「なんつぅか、ハッときてグッとくる感じィ。女はそういうのに弱いんだよぉ。コロッといっちまうんだよぉー」
「はぁ」
「手嶋もよぉ、もっとハッときて、グッと来いよぉー」
「はぁ」
「じゃないと、あたし、コロッといけねぇじゃんかよー…」
 
 
 まるで軟体動物のように手嶋へと絡み付きながら、檸檬ちゃんが呂律の回っていない声でぶつくさと漏らす。手嶋が烏龍茶を啜りながら、ぽつりと問い掛けるように呟く。
 
 
「檸檬さんは、コロッといってくれるんですか?」
「コロッとって…、あたしはコロ助じゃねぇよー!」
 
 
 わけのわからない台詞を喚いて、檸檬ちゃんがバシンと手嶋の後頭部をはたく。途端、周りに座っている女の子達がどっと笑い声を立てた。ペディキュアに彩られた何本もの足がシートの上にしどけなく投げ出されている。普段の仕事からは想像も出来ないほど、どの女の子も極自然に楽しげな表情を浮かべている。そこから夜の淫靡な空気を感じることはない。
 
 
 喜一は暫くはその円に加わっていたが、回ってきた酔いを覚ますために軽く散歩でもしようかと立ち上がった。隣に座っていたはずの橘は、今は檸檬ちゃんの新たな餌食となっている。檸檬ちゃんにガッシリと肩を抱かれた橘は、まるで不良に絡まれた優等生のように身体を縮こまらせていた。その萎縮した姿をくすくすと笑って眺めてから、喜一はゆっくりと立ち上がった。
 
 
 ふらふらと覚束ない足取りで、桜が立ち並ぶ道を進んで行く。頭上からは、はらはらと絶え間なく花びらが降り注いでいた。まるで足下に桜色の絨毯が引かれているようだ。
 
 暫く歩いたところで、ふと一本の桜の下に置かれたベンチに気付いた。背凭れもない手作り感に溢れた古いベンチ、そこに座っていたのはマリーさんだ。マリーさんは温かそうなベージュのセーターにジーンズというラフな格好をしている。化粧も薄めにしているのか、その顔にはいつもより剣呑さがなかった。優しいとは決して思えないが、落ち着きのある顔立ちをしていると思う。
 
 喜一の存在に気付いたのか、マリーさんが唇に煙草を挟んだまま不機嫌そうに眉を顰める。その表情を見て見ぬふりをして、喜一はマリーさんへと近付いていった。
 
 
「マリーさんは、みんなのとこに行かないんですか?」
「五月蝿いのは嫌い」
 
 
 素っ気なく言い放って、マリーさんは気怠そうに紫煙を吐き出した。言葉だけ聞けば冷たく思えるが、何故だかマリーさんが言うと冷たい言葉に思えない。その簡潔さが、何処か凛とした響き聞こえる。この人は、誰にも寄り掛かることなく独りで真っ直ぐ立っている人なんだと強く思わされる。喜一がマリーさんに憧憬じみた想いを抱くのも、そういった理由からかもしれない。
 
 
「あの、五月蝿くしないんで、隣座ってもいいですか?」
「五月蝿くなくても、アンタは嫌い」
 
 
 撥ね付けるように言い切られる。その一言に、喜一はぐっと言葉を呑んだ。眉尻を下げたまま、途方に暮れたようにその場に立ち尽くす。そんな喜一を横目で睨んで、マリーさんは威嚇する猫のように鼻梁に皺を寄せた。
 
 
「先生に叱られた生徒みたいに突っ立ってんじゃないよ。座りたいなら勝手に座りゃあいい」
 
 
 慌ててマリーさんの横に腰を下ろすと、マリーさんは喜一の存在なんか忘れたかのように再び気怠そうに煙草を吸い始めた。フィルターを口に含んでから、二三度吹かしてそれから白いもやをふっと吐き出す。喜一は時間を忘れたように、その光景をぼんやりと眺めた。沈黙の中、風に揺れる花びらの音だけがやけに大きく聞こえる。マリーさんのふくよかな膝の上に、はらはらと花弁が落ちているのを見て、喜一はぼんやりと呟いた。
 
 
「きれいですね」
「は?」
「桜」
 
 
 唐突に切り出された話題が他愛もない世間話だったことに、呆れたようにマリーさんは口角を歪めた。だが、ふと頭上を見上げると、思いがけず柔らかい声で呟いた。
 
 
「綺麗ね」
 
 
 桜を見上げるマリーさんの横顔は、普段の仏頂面ではなかった。馬鹿な考えかもしれないが、それは母親の包容力を思わせる表情だった。女性らしさが滲んだその横顔は美しかった。その瞬間、喜一は突然マリーさんの心に触れた気がした。ほんの一瞬だけ、隣に座る頑なな女性の心を理解できたような気がした。
 
 
「マリーさん、俺少しだけ解った気がします」
「は、何がさ」
「マリーさんが俺を嫌ってる理由」
 
 
 マリーさんが鈍く瞬く。だが、視線は喜一へは向けられない。マリーさんは、ただ黙って前を見据えている。暫く沈黙が流れた。数分経とうかと言う頃に、マリーさんが馬鹿馬鹿しいとでも言いたげに肩を竦めた。
 
 
「普通そこで黙る? 解ったなら理由の一つでも言ってみたらどうなのさ」
「解った気がするんですけど、何だか上手く言えない気がして」
「バカじゃないの」
 
 
 片手に持った携帯灰皿へと灰を落としながら、マリーさんが小馬鹿にするように鼻を慣らす。その横顔を見詰めながら、喜一はぽつんと呟いた。
 
 
「たぶん、俺が“自然”じゃないから」
 
 
 自分で口にしながら漠然とした台詞だなと思って笑えた。口元に苦笑いを滲ませたまま、喜一は言葉を続けた。
 
 
「俺が俺を嫌ってるから。自分のこと汚いって思ってるくせにへらへら笑って投げ遣りに生きてるから、そういうところがマリーさんに嫌われたんだろうって思ったんです」
 
 
 いつの間にか、マリーさんの視線が向けられていた。マリーさんは喜一を真っ直ぐ見詰めている。その時、初めて喜一はマリーさんと正面から向き合えた気がした。
 
 マリーさんが口角に笑みを滲ませる。
 
 
「まぁ、悪いかない」
「当たってますか?」
「人の気持ちに当たりも外れもあるか。白黒で分けられたら苦労はしないだろうが、バカ」
 
 
 またバカと言われてしまった。しょぼくれたように肩を落とす喜一から視線を逸らして、マリーさんは一息煙草を吸った。紫煙を吐き出しながら、淡々とした声で言う。。
 
 
「自分のことを嫌ってる奴を好きにはなれない。被害者面して生きている奴は、見てるだけで苛付く。笑ってても、アンタからは悲愴な空気が出てんのよ。傍にいるだけでこっちまで気分が滅入る」
 
 
 飾りのない辛辣な言葉が胸に突き刺さる。だが、これは受け容れなくてはいけない痛みなんだと思った。だから、下唇を噛んで堪えた。マリーさんの言葉は続く。
 
 
「それに、アンタは自分をゴミだって思いながら、平気で他人に依存するんだ。それは人様にゴミを押し付けてるのと同じことだよ。自分がどれだけ失礼なことをしてるのか自覚もせずに、誤摩化すみたいにへらへら笑ってるのは不愉快だ」
「…すいません」
「うざったいな、いちいち謝ってくるな。自分をゴミだと思ってる奴からの謝罪なんて、何の価値も意味もないよ。自分は自分だっていう意思を持って、はじめて人になれるんだ」
 
 
 哲学的とも思える言葉を吐いて、マリーさんは面倒臭そうに溜息を漏らした。
 
 
「俺は、人じゃないですか」
「他人に聞くな。自分で考えろ」
「それも成長にならないからですか?」
「そう、成長」
 
 
 マリーさんの一言は、酷く簡潔で素っ気ない。だけど、その言葉は胸にずしんと圧し掛かかる。きっと、マリーさんは迷わないんだろう。決して自分を卑下せず、毅然と自分の人生に向かい合っている。
 
 
「俺、今は自分のこと前よりかは嫌いじゃないんです」
 
 
 ふっとマリーさんが喜一を眺める。その視線を見詰め返しながら、喜一は訥々と拙く言葉を続けた。
 
 
「だからって、好きかって聞かれたら正直解んないです。好きとは違うと思う。だけど、大事な人と一緒にいると、頭がふわふわして、胸がいっぱいになって、何だか自分が嫌なのを忘れるんです」
 
 
 喜一は一旦息を止めて、それから一息に言った。
 
 
「今が“嫌いじゃない”って思うんです」
 
 
 マリーさんの唇が微かに笑みを滲ませる。だが、その目は喜一を強く見据えたままだ。まるで出来が悪い生徒を見守るかのような、愛しさと苛立ちが複雑に折り混ざった表情だと思った。
 
 
「アンタ、やっぱり馬鹿」
「馬鹿ですか」
「そういうのは“嫌いじゃない”って言うんじゃないの」
 
 
 なら、どんな言葉なんだろう。あの言いようのない気持ちを表現できる言葉は何なのか。
 
 問い掛けようとした時、遠くから喜一の名前を呼ぶ声が聞こえた。橘の声だ。マリーさんが不機嫌そうに眉を顰めて、犬でも追い払うかのように掌をおざなりに動かす。
 
 
「ほら、彼氏が呼んでるよ。さっさと行きな」
「マリーさん。また、俺と話してくれますか?」
 
 
 不安げに訊ねる喜一の声音に、マリーさんが嘲るように鼻を鳴らす。しかし、その口元には穏やかな笑みが滲んでいた。
 
 
「これでサヨナラだよ」
 
 
 別れの言葉だが、拒絶の言葉には聞こえなかった。だからこそ、余計に胸が締め付けられた。苦しいくらい、切なくなった。
 
 
「さようなら」
 
 
 そう小さく囁いて、喜一は歩き出した。何となく、もう二度とこの人には会えない気がした。だけど、きっとそれが正しいんだろう。喜一はもう誰彼構わず縋り付くのをやめなくてはならない。それを教えてくれた。
 
 マリーさんは、もう喜一を見ていない。ベンチに腰を落としたまま、咲き乱れる桜をぼんやりと見上げている。マリーさんの唇からは、白いもやが時折空中へとぷかぷかと吐き出される。まるで煙突のようだなと思うと、少しだけ笑いが零れた。
 
 
 
 
 
 橘の声へと向かって、のろのろと足を進める。喜一を呼ぶ声は、時折触れるほど近くなったかと思えば、まるで壁を隔てたように遠くなったりもする。人の気配はするのに、人の姿は見えない。まるで、フィルターを一枚隔てた別の世界へと迷い込んでしまったかのようだ。桜が空中をゆらゆらと舞い踊る幻想的な光景が喜一から余計に現実感を奪って行く。
 
 
 橘の姿を探しながら、喜一は頭の中でぼんやりと先ほどの言葉を反芻した。自分のことが前よりかは嫌いじゃなくなった。それは確かに嘘ではない。実際、酷い自己嫌悪を覚える回数は少なくなった。だけど、それが本当に嫌いじゃなくなったという証明になるのだろうか。まだ、こんなにもみーちゃんの事を忘れられないのに。未だ、身を引き裂くような罪悪感を感じ続けているのに。
 
 
 みーちゃんの顔を思い浮かべようとする。脳裏に蘇ったのは、悪夢のように崩壊したみーちゃんの死に顔だ。青紫に染まった皮膚がパンパンに張り詰めるほど膨張し、目も鼻も腫れ上がった肉に埋もれて、それはまるでただの歪んだ肉の塊のように見えた。だが、それは確かにみーちゃんだった。喜一が愛した女の子だった。
 
 いろんな表情を見た筈なのに、喜一の記憶に残るみーちゃんは殺された酷い姿のままだ。喜一は、みーちゃんの笑顔が思い出せない。その笑顔だけが記憶の中からすっぽりと抜け落ちている。みーちゃんの笑った顔を思い出したかった。目を閉じて、思い浮かべる。きいちっと弾むような声で呼んで、振り返ったみーちゃんが笑う。その顔は滅茶苦茶に崩れている。
 
 
 その瞬間、足が動かなくなった。桜の木の下で立ち止まって、喜一は愕然とした。不意に、決定的に、思い知らされた。
 
 
 みーちゃんは、笑わない。二度と笑えない。それなのに、どうして喜一が笑うことが出来るんだ。
 
 
 喜一の罪は一生消えない。みーちゃんが生き返らないのと同じように、永遠に許されることはない。それが罰なのだと知った。喪ったものの痛みを、生き残ったものの罪悪を、永遠に抱えて生きていくことが。
 
 肩を強張らせて、小さく震える。体内が氷のように冷たくなっていく。底知れない悲しみに、喜一はただ打ちひしがれた。俯いたまま、声も出さずに慟哭する。
 
 
 みーちゃんは帰ってこない。もう二度と、会えない。
 
 
 風が桜の枝を揺らす音が聞こえる。そうして、不意に、足元から全身を攫うような突風が吹いた。顔を打ち付ける強風と流されてきた花びらに、ぎゅうと固く目を閉じる。風が緩やかになった所で、ゆっくりと目を開く。その瞬間、喜一は息を止めた。
 
 
 花吹雪の中に、みーちゃんがぽつんと立っていた。みーちゃんは動かない。何も言わない。ただ両手を後ろで組んだまま、喜一をそっと見詰めている。
 
 宙を舞い踊る花びらがみーちゃんの身体をすぅと通り抜けて行く。差し込む光もみーちゃんの身体を抜けて、地面へと降り注いでいる。だから、喜一はこれが幻覚なのだと直ぐに気付いた。これは喜一の脳が見せた、みーちゃんの幻だ。そう、解っていた。解っているのに、胸が打ち震えた。悲しさとも愛しさともつかない感情が込み上げて、喜一の咽喉を詰まらせる。
 
 
「みーちゃん…」
 
 
 名前を呼んでも届かないことは解っている。だって、これは幻覚だから。だけど、呼ばずにはいられなかった。それが単なる一人芝居だとしても。最低な独りよがりであっても。
 
 幻覚のみーちゃんは瞬き一つしない。まるで空中に貼り付いた絵のように、ただ無機質にそこに在るだけだ。きっと絵画や彫像のキリストに祈る人たちもこんな気持ちなんだろうと思った。たとえ誰にも伝わらなくても、懺悔せずにはいられない。
 
 透明なみーちゃんの身体に桜の花がひらひらと舞い落ちる。不意に、世界から音が消えた。
 
 
 みーちゃんの口元が綻ぶように緩んだ。
 まるで小さな花が慎ましやかに花弁を開くような、優しい微笑みだった。
 みーちゃんが笑った。
 微笑んだ。
 その微笑みが眼球にこびり付いた。
 震えた。
 息が出来なくなった。
 何か言おうと唇が開いた。
 だけど、何の言葉も出てこなかった。
 
 
 心臓に深く穿たれた穴に、柔らかく浸透してくるものがあった。みーちゃん、名前を呼ぼうとする。だが、遮るように再び突風が吹いた。ザァッと花びらが宙へと飛び上がる。視界を埋め尽くす桜色に、思わず目を閉じる。再び目蓋を開いた時には、もうみーちゃんの幻覚は消えていた。残っているのは、地面を埋め尽くす桜色だけだ。
 
 
 記憶の中のみーちゃんが笑う。もうその顔は崩れていない。腫れ上がってもいない。明るくて優しい女の子の笑顔だった。これが単なる幻だと解っている。だけど、喜一はみーちゃんの笑顔を思い出せた。ただその事実に、喜一は息も出来ないほど歓喜した。
 
 みーちゃんは何も言わず、ただ微笑んだだけだ。決して、喜一が許されたわけではない。たが、救われた。その微笑みに救われた。もう二度と会えない彼女に、喜一は今この瞬間、救済された。
 
 
 後ろから誰かが喜一の掌をそっと掴んだ。振り返ると、泣き笑うような橘の微笑みがあった。
 
 
「手、冷たくなってますよ。一緒に戻りましょう?」
 
 
 温めるように両掌で喜一の手を擦りながら、優しく囁く。喜一をその罪ごと包み込んでくれる男。ぼんやりと宙を眺めたまま動かない喜一を見て、橘がくしゃりと顔を崩す。
 
 
「まだ、姉のところに帰りたいですか?」
 
 
 苦しげに橘が呟く。きっと、喜一がみーちゃんの名前を呼ぶのを聞いていたのだろう。嫉妬よりも悲しみに満ちた表情を見詰めながら、喜一はのろのろと首を左右に振った。
 
 
「もう、大丈夫だよ」
「本当に?」
「俺は、橘さんの傍にいたいです」
 
 
 心は既に自分が選ぶ道を決めていた。橘が嬉しいような切ないような複雑な表情を滲ませる。突然、頭がふわふわして、胸がいっぱいになった。あたたかくて、心が柔らかく溶けていく感覚――だけど、これは〝嫌いじゃない〟という言葉ではないのだ。それなら、何て言えばいいのだろう。一体、何て言えば、この気持ちが正しく伝わるのだろう――
 
 
 あぁ、と小さく息が零れた。
 
 
「橘さん」
「はい」
「幸せだよ」
 
 
 橘が不思議そうに瞬く。その顔を正面から見詰めて、喜一は祈るように繰り返した。
 
 
「幸せだよ」
 
 
 温かい何かが身体の奥から込み上げて、喜一の目を潤ませていく。眼球に滲んだ液体で、ゆらゆらと目の前の光景が揺らめく。優しくて、ぬくもりに満ちている。
 
 幸福が静かに頬を伝っていく。橘が喜一の頬をそっと撫でて、微笑む。記憶の中のみーちゃんが微笑む。どちらも愛しくて、心から愛していた。
 
 
「大丈夫、ずっと傍にいますから…」
 
 
 橘が囁くのが聞こえた。
 
 
 とくとくとコップが満ちていく音が心臓の深い場所から響いてくる。つぎはぎだらけのコップにゆっくりと幸せが注がれていく。溢れても、割れても、もう怖がらなくていい。この愛しい男がきっとずっと、傍にいる。
 
 
 甘い花の香りの中、桜の枝に隠れるようにしてキスをする。柔らかく濡れた感触に、唇が微かに震えた。橘が「喜一さんの唇しょっぱい」と言って、ふふっと小さく笑い声を零した。
 
 

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