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2 童貞くん

 
 橘は、その日二人目の客としてやってきた。いかにも新入社員らしい紺色スーツと野暮ったい黒縁眼鏡を掛けており、髪は残酷にも七三分けにされていた。よくよく見れば、童顔じみた可愛い顔をしていたが、そのダサい身なりが魅力を七割減にしているような残念な男だった。
 
 
「きぃです。よっしくお願いしまぁっす」
「橘博也と申します」
 
 
 橘は、まるで営業マンのようにきっちりと腰を折ってお辞儀をした。風俗店でフルネームを名乗る客も珍しい。大抵は下の名前だけを言ったり、酷い時には「俺は、名もなき男さ」なんて気障ったらしい事を吐く奴だっているのに。
 
 
「それ本名ですか?」
「本名、ですけど…?」
 
 
 なぜそんな事を聞かれるのか解らないといったように橘は首を傾げた。喜一は、軽く微笑んでから扉の前で立ち尽くす橘の肩へと手をかけた。途端、橘の肩がビクリと跳ねた。その大袈裟な反応に、思わず手を引く。
 
 
「服脱ぎません?」
 
 
 目を丸くして問い掛けると、橘は「あ、はい」と呟いて、のろのろと上着を脱いだ。そのまま自分でハンガーへと掛けてしまう。
 
 
「もしかして、こういうとこ初めてですか?」
「あ、はい。初めてです」
 
 
 緊張が露骨に伝わってくる馬鹿丁寧な口調だった。六畳もない密室をきょろきょろと不安げに見渡している姿は、気の毒になってくるぐらい不慣れだ。
 
 
「会社の飲み会の帰りに、先輩に連れて来て頂いたんです。こういう所に行ったことがないと言ったら、風俗にも行かないで男と言えるかと怒られまして…」
 
 
 橘の頬に諦めにも似た苦笑いが滲む。その弱々しい笑みは、妙に庇護欲を湧かせた。
 
 
「あの、お客さんってノンケです?」
「ノンケ?」
「ゲイじゃないんですよね」
 
 
 顔いっぱいに驚愕を浮かべた橘が喜一を凝視する。
 
 
「はい、勿論」
 
 
 答えを聞いた瞬間、喜一は部屋に取り付けられたインターホンへと足早に近付いた。受話器を手に取った所で、橘が驚いたように声をあげる。
 
 
「どうしたんですか?」
「すいません、すぐ女の子にチェンジして貰いますから」
「な、何でですか?」
「たまにいるんですよ。ネタで後輩とかを俺の部屋に入れてくるの。ひどい冗談です」
 
 
 今頃橘の先輩達は腹を抱えて笑っていることだろう。本人達にしてみれば面白い冗談のつもりなのかもしれないが、初心な男に対しては十分悪質だ。橘が慌てたように言う。
 
 
「あの、でも女の子に変えなくていいですから。僕、女の子といると緊張してしまって…」
 
 
 最後は消え入るような声だった。橘は頬を赤く染めると、恥じらうように俯いた。喜一はわずかに躊躇った後、受話器を置いた。確かにこの不器用な男では女の子とセックスすることはおろか、ろくに話すことさえできない気がしたからだ。受話器を置いた喜一を見て、橘は露骨に安堵したようだった。再び部屋を見渡して、苦笑混じりに呟く。
 
 
「こういう所に来たのは初めてで…どうしたらいいんでしょう?」
 
 
 迷子のような途方に暮れた声だった。二十歳を越えた大人がそんな声をあげる事がおかしくて、喜一は少しだけ笑った。
 
 
「立ちっぱっていうのも何ですし、とりあえず座りましょうか」
 
 
 戸惑う橘の腕をそっと掴んで、ベッドへと促す。ビニール張りのベッドへと恐る恐るといった様子で腰を下ろすと、橘はようやく、ふぅ、と大きく息をついた。だが、その太腿へと喜一が掌を置くと、再び全身をガチガチに固まらせた。
 
 
「します?」
「何をですか?」
 
 
 思わず笑い出しそうになった。風俗店で何をする?はないだろう。
 
 
「セックス」
「貴方は男じゃないですか」
「何で男がソープにいると思ってるんですか。男同士でも尻の穴でセックスはできますよ」
 
 
 橘があんぐりと口を開く。その呆然とした表情が妙に可愛くて、頬に軽くキスをすると、橘は泣き出しそうに顔を歪めた。
 
 
「あの…でも…」
「アナルが嫌なら、口でしましょうか? 口なら目閉じてたら女と変わらないですし。あんまりしないんですけど、お客さん病気持ってなさそうなんで生でフェラってもいいですよー」
「したことがないんです」
「はい?」
「僕、童貞です」
 
 
 泣き出す一歩手前の顔で橘は言った。今度は喜一が目を丸くした。ソープに童貞が来るのは珍しくはないが、自ら童貞を宣言されたのは初めてだ。
 
 
「あー…そうなんですかぁ」
「すいません…」
 
 
 まるで童貞である事が罪と言わんばかりに橘は項垂れた。何だか哀れみをひく姿だ。太腿へと置いていた掌を俯いた頭へとそっと乗せる。そのままゆっくり髪の毛をとくように撫でると、橘はのろのろと顔をあげた。その顔を覗き込んで、喜一は諭すように呟いた。
 
 
「橘さん、初めては好きな人とするべきです」
 
 
 橘がぱちぱちと瞬く。調子にのってわしゃわしゃと七三分けの髪を撫でくり回すと、橘は「わ、わぁ」と小さい悲鳴をあげた。整えられていた髪の毛が見るも無惨に崩れていく。前髪が額に掛かると、橘は余計に幼く見えた。
 
 
「橘さんカッコいいのに勿体ないなぁ」
「格好良いって…そんなお世辞いいですよ」
「お世辞じゃないですよ。俺、お世辞言えるほど頭よくないですから」
 
 
 戯れるように舌を軽く突き出すと、ようやく橘が笑った。控えめでどこかほっとする笑顔だ。
 
 
「貴方の方がずっと格好良いです」
 
 
 こういう言葉を衒いもなく吐き出せるのが童貞クオリティなのだろうか。あまりにも真っ直ぐな言葉に、喜一は唇を引き攣らせた後、わざとらしく馬鹿っぽい笑顔を作った。
 
 
「あざっす。でも、格好良いじゃなくて可愛いだったら橘さんもヤりたくなってかもしれないと思うと、何ていうか申し訳ないですねー。坊主ってガチの人には人気あるんですけど、ノンケの人にはことごとく不評なんですよぉ」
 
 
 自分でもぺらぺら喋り過ぎているのが解る。だから、唐突に猛烈な羞恥に襲われた。上半身をベッドに突っ伏して枕に顔を埋める。
 
 
「ど、どうしたんですか?」
「なんか…いきなり恥ずかしくなった…」
 
 
 枕に埋めた頬が熱い。パンツ一丁で今更何を恥ずかしがってるのかと思うけれども、久々に見た純真な言葉や笑顔は思った以上にきつかった。暫くそのままでいると、躊躇うような手付きで背中を撫でられた。この仕事を始めてから、こんな風に優しく触られたのは初めてだった。
 
 
「…あの…きぃさんって本名ですか?」
 
 
 喜一は唇を枕に押し付けたまま、舌ったらずに答えた。
 
 
「喜一、れす」
「喜一さん」
 
 
 本名を呼ばれたのも久々だった。そもそも仕事で本名を名乗ったのも久々だ。橘の長閑さに感化されて、口まで軽くなってしまっている。それも酷く気恥ずかしい。まだ尻の穴を自分でおっぴろげる方が恥ずかしくないだろうに。
 
 
「ねぇ、橘さん」
「はい」
「眼鏡やめて、コンタクトにしません?」
 
 
 不思議そうに首を傾げる男の顔から、そっと眼鏡を抜き取る。この不器用で優しい男の良さを、少しでも引き出してやりたいと思った。
 
 

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