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3 ホルモン汁

 
「で、どうしたんだよ」
「やんなかったよ。ずっとお話してた」
「話すって何話すんだよ」
「好きな本とか休みの日に何してるかとか、そんなん」
「見合いかよ! あとはお若い二人で、かよ!」
 
 
 ホルモン汁の器から顔をあげて、檸檬ちゃんは「ぶはは!」とオッサンみたいな笑い声をあげた。仕事が終わって、二人は早朝まで開いている小さな居酒屋に来ていた。カウンター席に並んで座って、真ん中に置かれたビールを注ぎ合いながら、噂のホルモン汁を啜っている。
 
 ホルモン汁というのは、どうやら鶏がらスープにホルモンや白ネギや唐辛子をぶっ込んだ料理だという事が解った。もくもくと白い湯気を立てるスープは、舌先が痺れるぐらい辛い。
 
 レンゲを銜えた檸檬ちゃんがニタリと笑う。
 
 
「で、惚れたのか?」
「何でそうなんのさ」
 
 
 喜一は溜息を吐いて、湯気越しに檸檬ちゃんをじとりと睨んだ。ぷりぷりのホルモンを奥歯で噛み締めながら、檸檬ちゃんが「だってよォ」と語尾を上がり気味にして続ける。
 
 
「ソープ嬢ってそういうのに弱いんだよ。純粋無垢、っつうの? キラキラのチェリーボーイっつうの? 普段が荒んでるからさ、何も知らない純朴な青年にコロッと絆されちゃうわけよ」
「絆されるも何も、俺ノンケだから」
 
 
 男に身体を売っているが、喜一は完全なストレートだ。今まで男を恋愛対象に見たり、好きだと思ったことは一度もない。「そっかぁ」と檸檬ちゃんが少し残念そうに呟く。檸檬ちゃんの一番優しいところは、どうして喜一が男に身体を売っているのか一度も聞かないところだ。
 
 
「でも、いい人だった。たぶん二度と会わないけど」
 
 
 きっともうあんな店にやって来ることはないだろう。いつか橘の良さを解る気立てのいい女が現れて、好きな人で童貞を失って、結婚して、子供が出来て、優しい父親になる。橘は、そういう正しい人生が似合う人間だ。唐突に、檸檬ちゃんが呻くように呟く。
 
 
「疲れるな」
「れっちゃん、疲れた? 大丈夫?」
「そりゃ疲れたよ。今日だけで九本相手だ」
 
 
 投げ遣りに掌を振って、檸檬ちゃんは目頭を人差し指と親指で揉み込んだ。檸檬ちゃんは店でも人気が高い女の子だから一晩でかなりの客がつく。夕方から早朝までの十時間近く、延々とベッドの上で喘ぎ続けるわけだ。疲れないはずがない。それに比べれば、喜一は一晩で五本相手がつくかどうかだ。勿論疲れはするが、檸檬ちゃんとは疲労の度合いが違う。
 
 
「でも、疲れたっつうのはそういう事じゃなくてさ。優しい客にあたっと、気持ち的に疲れるって意味」
「気持ち的に?」
「さみしくなるじゃん」
 
 
 不意に、檸檬ちゃんの一言が心臓に突き刺さった。喜一は唇を半開きにしたまま一瞬固まった。さみしい、という言葉を聞いた途端、何故だか感情の波がさざめき立った。
 
 
「もっと早くこの人と会えてたらあたしの人生変わってたのかなって、こんなところにいなかったのかなって、少しでも考えちまったらもうダメだ。辛ぇよ。やってらんねぇ」
 
 
 殺伐と吐き捨てて、檸檬ちゃんは泡のなくなったビールを一気に咽喉に流し込んだ。ぷはーっとオッサン臭い声を上げて、空になったグラスをカウンターへと乱暴に置く。
 
 
「…れっちゃん、あんま上手く行ってないの?」
 
 
 グラスにビールを注ぎながら静かに問い掛ける。檸檬ちゃんには二年前から同棲している林という恋人がいる。同棲していると言っても、林は定職には付かず、檸檬ちゃんに完全に寄生している所謂ヒモだ。ヒモにありがちなように自分では稼がないくせに金をばら撒くことだけは天才的で、檸檬ちゃんはよく仕事終わりに今日分の稼ぎを林にもぎ取られている。
 
 檸檬ちゃんは怒ったような顔をしているのに、その大きな目には薄らと涙が滲んでいた。
 
 
「もうダメかもしんねぇ。あたしの一ヶ月の稼ぎ、一日で使い切りやがったんだ」
「一ヶ月分を? 一日で?」
 
 
 開いた口が塞がらないというのはこの事だ。檸檬ちゃんの一ヶ月の稼ぎと言えば三百万はゆうに超える。それを一日で使い切るなんて。
 
 
「馬だよ馬」
「競馬ってこと?」
「そう。全額賭けてパー。おけらけら。元の木阿弥。諸行無常の鐘の音」
 
 
 ヤケクソのように呟いて、檸檬ちゃんは両手を合わせて「南無南無」と呟いた。そのわざとおどけるような仕草が切なくて、喜一はそっと檸檬ちゃんの肩を抱いた。
 
 
「れっちゃん…我慢しなくていいから…」
 
 
 細い肩をそっと撫でる。喜一には具体的なことは言えない。林と別れろとも、仕事を辞めろとも。誰かの人生の舵取りを他人がすることは出来ない。すべては檸檬ちゃんの選択次第だ。
 
 檸檬ちゃんの小さな頭がこてんと喜一の肩に凭れ掛けられる。その目尻は赤く染まっているが泣いてはいない。檸檬ちゃんは喜一よりもずっと強い。
 
 
「…あたし、きぃちゃんと付き合いたかった」
 
 
 ぽつりと呟く声に、喜一は少しだけ泣き笑うような笑みを返した。檸檬ちゃんも微笑む。それだけでお互い解った。それは叶わないことだ。喜一はもう誰とも付き合おうとは思わない。一生、誰とも。
 
 
「でも、やっぱりまだあのろくでなしのことが好きだよ。バカだけど、ほんと、バカだけどさ」
 
 
 バカと繰り返して、檸檬ちゃんはホルモン汁をじっと眺めて「…もうちょっと頑張る」と子供みたいな口調で呟いた。抱いていた肩を離すと、気恥ずかしそうに笑う。
 
 その時、店の扉が開く音が聞こえた。ショッキングピンクのワンピースを身に付けた女が一人入って来る。短いスカートの裾から覗く太腿には、むっちりと脂肪が詰まっている。女は、喜一を見ると露骨に顔を歪めた。軽蔑の目。そのまま、何も言わずに店を出て行ってしまう。女が出て行くのを眺めてから、喜一はぽつりと呟いた。
 
 
「マリーさん、だったね」
「感じ悪っ」
 
 
 檸檬ちゃんが舌打ちを零す。マリーさんはお店の先輩だ。歳を聞いたことはないが喜一より四、五歳は年上だろうと思う。あまり喜一のことをよく思ってないのか、言葉を交わしたのは数える程度しかない。
 
 
「俺、嫌われてるみたい」
「気にすんな。あいつは誰に対してもあんなんだ」
 
 
 切り捨てるように言うと、檸檬ちゃんは残ったホルモン汁を一気に口へと掻き込んだ。おろされた丼の中には米粒一つ残っていなかった。
 
 支払いは喜一がした。檸檬ちゃんはしきりに遠慮したが、強引に喜一が払った。「好きな子には尽くしたいの」と言うと、檸檬ちゃんは唇を尖らせてそっぽを向いた。だけど、その表情は何処か嬉しげだった。
 
 ちなみにホルモン汁は一杯四千円だった。正直数年前だったら頭が可笑しいと思っていただろう。だけど、頭が可笑しいのがここでは普通なんだと思う。狂っているのが平凡。ふと脳裏を、橘の笑顔が過った。あの気弱な笑顔が少しだけ見たくて、でも、やっぱり二度と来て欲しくないなと思った。
 
 

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