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5 みーちゃん

 
 事務所で、マネージャーから今日分の稼ぎを受け取る。今日は、五本を相手にしたから十二万五千円がきっちりと茶封筒の中に収められていた。茶封筒の表には、筆ペンで『きぃ』と馬鹿丁寧に書かれている。茶封筒の中身をおざなりに数えてから視線をあげると、マネージャーの田中さんが半分に折ったパピコを差し出していた。
 
 
「きぃ、半分食うか?」
「食う!」
 
 
 溌剌とした声をあげて、パピコを受け取る。チョコクリーム味だ。田中さんはパピコをちゅうちゅうと吸いながら、気怠そうにパソコンのキーボードを人差し指で叩いている。臙脂色のチョッキを纏った丸まった背中には、くたびれた哀愁が色濃く漂っている。
 
 
「最近、おめぇに固定客がつき始めたな。評判も悪かない」
「へぇ、ありがてぇことです」
 
 
 パピコの頭を歯で齧り取りながら暢気に答える。すると、田中さんはヘッと鼻で笑うみたいな声をあげて、無精髭の生えた顎を指先で掻いた。田中さんの笑い方は、あまり優しそうに見えない。どちらかと言えば、無神経そうに見える。だけど、本当はすごく優しいと喜一は思っている。田中さんが優しい人じゃなかったら、喜一はきっとここにはいられなかっただろう。
 
 
「来月で一年だな」
「一年? 何が?」
「お前がここで働き始めてだよ」
 
 
 呆れたように田中さんが肩を竦める。喜一も真似するように肩を竦めた。一年と言われても大した実感はなかった。身体を売り始めて一年、そんなのは記念日にもなりゃしない。
 
 
「一年も経ちゃあ随分金もたまっただろ」
「そんなことないよ。俺、結構浪費家なんで。まだまだ、です」
 
 
 謙遜するように頭を掌で擦りながら答える。田中さんは一瞬怪訝そうに顔を顰めて、喜一の左手首へと視線を向けた。そこには、何ヶ月か前に百円ショップで買ったプラスチックの安っぽい時計がつけられている。実際一年も働けば、年収三千万を超えるソープ嬢もざらにいる。喜一だって、まともに働けば二千万近くは稼げるだろう。田中さんには、喜一が身体を売る理由は金が欲しいからだと伝えてある。それはあながち嘘ではないが真実でもない。
 
 
「お前、何のために金ためてんだ」
 
 
 田中さんのうろんげな問い掛けに、喜一は曖昧な笑みを返した。
 
 
「俺、欲しいもんいっぱいあんすよ」
 
 
 馬鹿っぽい答えを返すと、田中さんは唇をへし曲げた後、興味がなくなったように「へぇ」と適当な相槌だけを返してきた。再びつまらなさそうな表情でパソコンへと向き直る。
 
 
「まぁ、適当に頑張んな。売れなくなったら、前みたいにボーイに戻してやんよ」
「それって田中さんなりの労いの言葉って奴ですかぁ?」
「勝手に言ってろ」
「田中さんって見た目に似合わず優しいっすよね」
「うるせぇ、とっとと帰れ」
 
 
 喜一の軽口に、田中さんは眉間に皺を寄せて、しっしと犬猫を追いやるような仕草をした。横暴だーと文句を垂れつつも、パピコを吸いながら退散する。部屋から出る瞬間、田中さんが背中を向けたままひらりと掌を振っているのが見えた。やっぱり、優しいよ。そう胸の内でそっと呟いて、喜一は部屋を出た。
 
 
***
 
 
 喜一が住むアパートは、店から歩いて三十分程度の距離にある。築五十年を超すアパートは、壁の漆喰がところどころ剥がれている上に、一面カビとも苔ともつかない緑色の植物に覆われている。トイレは共同で、勿論風呂などついているはずもない。だが、家賃は一ヶ月二万円と破格の値段だ。ソープ嬢達が家賃五十万以上するマンションに住んでいるのに比べると雲泥の差だが、喜一はそれほど不満を感じたことはない。
 
 錆びた鉄製の階段を登って部屋へと入る。部屋は二畳程度のキッチンと四畳の和室が一続きになっている。和室の片隅には、古新聞が二束ほど積まれている。それ以外には物らしい物は置いていない。
 
 尻ポケットに無造作に突っ込んでいた茶封筒を取り出す。今日の稼ぎの十二万五千円のうち五千円だけを引き抜いて、残りの十二万を押入れから取り出した白い封筒へと入れる。押入れの中には、宛先だけ書かれた同様の封筒が何十枚も束ねて置いてある。切手が貼られた封筒の表には、とある住所と【柏木美名】という宛名が書かれている。一頻り彼女の名前を見詰めてから、畳の上に投げたズボンのポケットへと封筒を突っ込む。帰宅後に用意した封筒を、出勤前にポストに投函するというのが喜一の日課だ。
 
 部屋の隅に置かれた新聞紙を床へと広げる。その上へと寝転がって、身体の上にもう一枚新聞紙をおざなりにかけた。初めはインクの臭いがきつくて中々眠れなかったが、最近は饐えた臭いにも慣れた。むしろ、精液臭い蒲団よりかはずっと安心できる。昔ならともかく、今なら蒲団やベッドを買うことも金銭的にはそれほど難しくはない。だが、新聞紙で寝るのに慣れてからは特に欲しいとも思わなくなった。どうせ一人なら、どこで寝ようが関係ない。
 
 田中さんに、また嘘をついてしまった。喜一は、本当は欲しいものなんてない。
 
 そういえば、昔はよく彼女の身体を後ろから抱き締めて眠った。柔らかくて、微かに甘い匂いがする彼女の肌。新聞紙の臭いで、その甘やかな記憶はぐちゃりと塗り潰されて行く。今では、彼女の顔を上手く思い出せない。きいちっ、と弾むように自分の名前を呼ぶ声だけが鼓膜の内側で何万回も繰り返される。黙って置き去りにしたくせに、昔の彼女にこれほどまで固執するなんて何て馬鹿げてるんだろうか。自分で手放したくせに。
 
 唇を微かに動かして「みーちゃん」と淡く呟く。彼女の姿は虚ろな霧のように脳裏にぼんやりと浮かんで、形になる前に消えてしまった。
 
 

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