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6 舌と指

 
 もう二度と会うこともないと思った相手が目の前にいる。相変わらず野暮ったい眼鏡をかけたまま、七三分けの絶望的にダサい姿で。
 
 
「何でいるんすかぁ…?」
 
 
 呆然とした声で喜一は呟いた。六畳もない狭い部屋に立ち尽くして、扉の前に立つ男を見詰める。橘はそれが自分へと向けられた言葉だと解らなかったのか、馬鹿丁寧にも一度背後を振り返った。しかし、そこに誰もいないのを見とめると困ったように頬を掻いた。初めて会った日から、一週間も経っていない。もう二度と会うこともないだろうと思っていたのに、何故こんなところにいるのか。
 
 
「あの…駄目でしたか?」
 
 
 叱られた子供のような口調で訊ねてくるから、思わず言葉に詰まってしまった。そもそもここをどこだと思っているのか。ソープだぞソープ。セックス目的の店に、ヤらない人間が何故わざわざ金を払って二度もこんなところに来るのか喜一には理解不能だった。
 
 
「あのぉ……しにきたんですか?」
「何をですか?」
 
 
 一応念のために訊ねてみたが、前回と同じくとぼけた返事が返ってきた。きょとんと開かれた目は、本当に喜一の言う言葉の意味を理解していないのだろう。その間の抜けた様子に、喜一はガックリと脱力した。
 
 
「まぁ…とりあえずどうぞー…」
 
 
 仕方なく部屋の中へと促す。橘は初めて来た時と同じように、左右をきょろきょろと不安げに見渡しながら中へと入ってきた。
 
 
「上着かけるんで脱いでください」
「あ、はい。すいません」
 
 
 もそもそと覚束ない手付きでスーツのボタンを外そうとする。緊張しているせいかボタンを掴む指先が微かに震えている。見かねて喜一がボタンへと手を伸ばすと、橘はまるで縋り付くように見詰めてきた。
 
 
「どうしたんですか?」
「あ、あのっ…声が…」
 
 
 消え入りそうな声でそう呟くと、橘はみるみる真っ赤になっていった。言われて初めて喜一も意識したが、部屋の左右の壁からは女の嬌声が大きく響いている。そういえば、前に橘が来たときは左右の部屋は使われていなかった。その声は喜一にとって日常茶飯事でさして気にも止めてなかったことだが、童貞の橘にしてみれば相当刺激的なのだろう。
 
 
「あぁ、今日は華の金曜日ですから、やっぱりお客さんの出入りも多いんですよね。女の子も稼ぎどきってやつですよー」
「はぃ…そ、そうですよね…」
「橘さんもエッチします?」
 
 
 上着を脱がしながら悪戯半分に問い掛ける。途端、橘は目に見えて狼狽した。両手をまるで機械仕掛けのようにぎくしゃくと動かして、真っ赤な顔を泣き出しそうに歪める。
 
 
「冗談です。ジョーダン、ジョーダン」
「きっ、喜一さんっ…!」
 
 
 意地悪しすぎるのも気の毒で、喜一は直ぐに茶化すような笑い声をあげた。橘が肩をふるふると震わせた後、安堵したのかほっと力を抜く。橘の上着をハンガーへと掛ける。
 
 
「あ、すいません。そんな事までして頂いて」
「何言ってんですか、橘さんはお客さんなんだからもっと堂々としてればいいんですよ。そこ座っててください」
 
 
 客商売なら背広を掛けるぐらい当然のことだろうに、いちいち恐縮するように礼を言ってくるところが可笑しいというか新鮮だった。風俗には時々おかしな客もやって来るが、ここまで不慣れなのもいっそ珍しい。橘の隣へと腰を下ろすと、ぐいと顔を覗き込む。
 
 
「それで、どうして来たんですか?」
 
 
 問い掛けると、橘は慌てたように鞄の中へと手を突っ込んだ。取り出されたのは、茶色くくすんだ一冊の文庫本だ。表紙には『野菊の墓』と旧字体で印刷されている。
 
 
「前お話した時、『野菊の墓』がお好きだって言ってたじゃないですか。でも、もうどこの本屋にも売ってなくて残念だって。この間古本屋さんで偶然見つけて、思わず買っちゃったんです」
「買っちゃったって…」
「あの…喜一さん読まれるかなって思って…」
 
 
 喜一のぽかんとした表情を見て、段々と橘の声が尻すぼみになっていく。まるで粗相をした子供のような眼差しで、窺うように喜一をちらちらと見ている。喜一は古びた文庫本を暫く見下ろして、それからその表紙を指先で軽く撫ぜた。ざらついた古紙の感触が心地良い。
 
 
「このためだけに、わざわざ四万も払ってソープに来たんですか?」
「はい。あの…迷惑でしたか…?」
 
 
 小さな声で「ごめんなさい」と囁く男が何故だか無性に愛おしくなった。胸に温かい何かが満ちて、唇が勝手に緩む。
 
 
「迷惑じゃないです。嬉しいです。すごく」
 
 
 弾むような喜一の声を聞いて、橘の表情もようやく緩む。胸を撫で下ろして、「よかったです」と生真面目に呟く。
 
 
「でも…橘さんって、ちょっと変だよね」
「えっ、変、ですか…?」
 
 
 茶化すような喜一の言葉に、橘が挙動不審になる。その様子を見て、小さく笑い声をあげる。受け取った文庫本を鼻先へと近付けて、その匂いを嗅ぐ。古い本の懐かしい匂いが胸いっぱいに広がって、何故だか涙が出そうになった。そういえば、彼女は日本文学科に通っていた。『野菊の墓』は彼女が好きだといっていた作品だ。
 
 
「ちょっと変だけど、すごく優しいね。橘さんはきっと女の子にモテるよ」
 
 
 それは飾りのない喜一の本音だった。だけど、橘は困ったように首を傾げて、それから曖昧に首を左右に振った。
 
 
「僕、モテたことないです。全然です」
「そんなことないです。モテてないと思ってるだけですよ」
「でも、彼女が出来てもすぐフラれちゃうんです。情けないとか、頼りがいがないとか言われてしまって…」
 
 
 短い笑い声を零して、橘が恥ずかしそうに視線を伏せる。その自信なさげな表情を見ていると、微かに怒りが湧き上がってきた。怒りというよりも不満に近い。この男の良さが解らないだなんて、どいつもこいつも見る目がないという不満だ。
 
 
「仕事でもそうなんです。先輩達からも同じように怒られてしまって、もっと男らしくなれっていつも言われます」
「橘さん、何のお仕事してるんですか?」
「複合機の営業をしてます」
「複合機?」
「あの…コピーとかファックスとか、プリンターの機能が一括化された機械のことです」
 
 
 俯いたまま答える姿は、不安そうに見える。喜一は橘の顔へと両手を伸ばすと、左右から頬を挟んだ。そのまま、俯いていた視線をぐっと持ち上げる。橘が驚いたように目を瞬かせた。
 
 
「橘さん、顔あげて。ちゃんと目を見て、喋って」
 
 
 まるで生徒に物を教える先生のように一言一言区切るように言う。橘は困惑に視線を泳がせた後、おずおずと喜一へと視線を向けた。それを見て、頬から手を放す。同時に眼鏡を取ると、橘が心細そうに眉を寄せた。
 
 
「そんな顔しないで。お客さまは営業マンがそんな顔してたら、もっと不安になっちゃうよ」
「あ、はい」
 
 
 物覚えの良い生徒のように答えて、橘がじっと喜一の目を見詰めてくる。それは凝視に近い。
 
 
「橘さん、見すぎ。ちゃんと目を見て話さなくちゃいけないけど、見過ぎたら怖いよ。相手が引いちゃう。適度が大事だよ。凝視するんじゃなくて、ふんわり柔らかく眺めて。時々視線逸らして。でも、ここぞと言うときは相手から目を逸らさずにきちんと話すの」
「はい」
「肩から力抜いて、時々笑って。橘さんは素敵なんだから、もっと自分に自信もって喋れば大丈夫だよ。全部上手くいくから」
 
 
 そう言ってふにゃりと笑うと、橘は喜一の顔をじっと眺めてからこくりと子供のように頷いた。その稚拙な仕草が堪らなく可愛くて、不意に悪戯心が芽生えた。
 
 
「橘さん、キスしたことある?」
「え、あ、はい」
 
 
 物もわからず咄嗟に橘が答える。それを聞いた瞬間、喜一は橘の唇にキスをしていた。僅かに触れる程度のキスだ。橘の唇は乾いていたが、その感触は柔らかかった。橘の目が大きく開かれている。その表情に思わず笑いが零れた。ふふっ、と短く吐息のような笑い声を零してから唇を離す。離した途端、薄暗い室内でも解るぐらい橘の顔が真っ赤に染まった。
 
 
「なっ…き、喜一さん…っ!」
「キスしてもいいですか?」
「もっ…したじゃないですか…っ」
「もう一回」
 
 
 ざらついた唇の感触は悪くなかった。甘えるように囁くと、耳まで赤くなる。可愛いなこの人、すごく可愛い。改めて思いながら、ゆっくりと掌を橘の肩へと乗せる。怯えたようにビクンと跳ねるのに、奇妙な庇護欲をそそられた。橘の首筋へと頬を擦り寄せて、耳元に囁く。
 
 
「キスしたい、です」
「な、んでですか」
「なんだか、いとしくて」
 
 
 自分でも阿呆らしい言葉だと思ったけど本心だった。たぶん、ヒモやジゴロだってこんな時代遅れな台詞は吐かないだろう。そう思って、唇を微かに緩めた時、橘がじっと喜一を見上げていることに気付いた。頬は赤味を帯びているが、もうその表情に戸惑いや驚きはなかった。その表情がやっぱり愛しくて、もう一度唇を寄せた。今度は啄むように、ゆっくりと下唇を唇でなぞる。ざらりとささくれ立った唇の薄皮がピリと微かな痛みを発する。その痺れるような痛みすら心地良かった。
 
 今まで客相手に自分からキスをしたことはなかった。男相手にキスなんて正直気持ち悪い。だけど、今は無性にこの優しい男とキスがしたかった。
 
 橘は薄く目を開いたまま、どこかぼんやりとした表情でキスを受け容れている。たぶん、嫌悪は感じていない。濡れ始めた唇から離れて、ぺたんとベッドに尻を落として橘を見上げる。
 
 
「橘さん、舌だして」
 
 
 まるで幼児のように舌っ足らずな声で強請る。橘は惚けたように暫く視線を伏せていたが、数秒後に戸惑いながらもゆっくりと舌を差し出した。薄い梅色の舌先は、まるでそれ自体が生き物のように微かに戦慄いている。唾液で濡れた舌を見ていると、震えるような衝動が下腹から這い上がってきた。
 
 舌先を伸ばして、ぺちゃりと先端同士を触れ合わせる。一瞬触れた粘膜は、酷く熱かった。粘膜同士が擦れ合った瞬間、橘が驚いたように舌を引っ込める。それが名残惜しくて、橘の下唇を未練がましく舐める。
 
 
「や、でしたか?」
「…いやでは…」
 
 
 そこで言葉が切られる。潤んだ瞳を見詰めていると、震える指先が喜一の腕をそっと掴んだ。
 
 
「いやでは、ないです」
 
 
 泣き出しそうに掠れた声に、情欲が煽られる。衝動のままに橘の唇へと吸い付いた。今度は咥内へと舌を挿し込む。奥に隠れている舌を、そっと舌先で掬い上げて唾液をゆっくりと絡める。ぴちゃりと鳴る水音に、喜一の腕を掴む橘の手に力が篭る。震える舌の腹をねっとりと舐め上げると、橘が「んっ」と短い声をあげた。
 
 怯えた小動物のように縮こまった舌を口外へと引き出して、そのままぺちゃりと音を立てて唾液を絡み合わせた。淫靡に擦れ合う舌がぬるぬると滑る。呑み込めない唾液がお互いの口元を赤子のように汚していたが、それを気にとめる余裕もなかった。
 
 腕を掴む橘の手へと指先を緩く絡ませる。こんな淫猥なキスをしているくせに、指先だけは初々しい中学生カップルのようにぎこちなかった。まるで幼い恋人同士のように指先を絡ませ合って、舌の感覚がなくなるまでキスを繰り返す。
 
 時間の感覚が薄れてきた頃に、ようやく唇を離した。舌同士が唾液の糸で繋がっているのが酷く卑猥だった。仄暗い照明の中、橘の唇が唾液にてらてらと濡れ光っているのが見える。惚けた目をした橘が手を伸ばして、喜一の耳朶へと緩く触れた。
 
 
「…痛く、ないですか?」
 
 
 喜一の右耳には三個、左耳には六個のピアスがつけられている。左耳の真ん中には、彼女とおそろいで買った小さなルビーのピアスが他のピアスに埋もれるようについている。耳朶を弄くる指先の感触に、くすくすと潜めるような笑い声をあげた。
 
 
「痛くないよ」
「本当に?」
 
 
 どうしてだろう。もう一度問い掛けられた時、ほんの一瞬ピアスを空けた耳が痺れるように痛んだ。ろくに消毒もせず、ぶすぶすと穴を空けた時すらろくに痛みを感じなかったのに。
 
 
「痛く、ない」
 
 
 唇が微かに震えて、思いがけず声が掠れた。弱々しい声を誤摩化すように淡く微笑む。だが、笑っているのに涙が出そうだった。痛くない。痛くないはずなのに、どうして痛い。
 
 長時間に渡るキスのせいか、橘の唇は赤く腫れていた。口元はどちらのものとも付かない唾液で濡れている。親指の腹でそっと濡れた口元を拭うと、橘が先ほどの出来事を思い出したように頬を赤らめた。
 
 
「あ…すいません。気持ち悪かったですか?」
「え、いえ、あの…」
「すいません、橘さんノンケなのに。何かこう…ムラムラッときちゃって、思わずブチューッてしちゃっちゃったりして。男にベロチューされるとか、マジ気色悪いっすよね。ほんとにすいませんでした」
 
 
 わざと笑い事にするような口調で喋る。笑い声を上げながらも頭を下げると、橘は困ったように眉根を寄せた。眉が情けなくハの字に垂れ下がっている。触れていた唇から指先を離そうとすると、躊躇いがちにその指先を掴まれた。まるで迷子になった子供のような頼りない手付きだ。
 
 
「あの…喜一さん謝らないで下さい。僕、気持ち悪くなかったです」
「橘さんは優しいなぁ。そんな嘘つかなくてもいいですってば」
「嘘じゃないです。僕、ドキドキしました。とても」
 
 
 不器用な男は、それ以外に気持ちを伝える言葉を知らないのだろう。喜一の指先を掴む手は、微かに汗ばんで湿っている。
 
 
「ドキドキ、してます」
 
 
 繰り返して、真っ直ぐ喜一を見詰める。その熱を孕んだ眼差しに、不意に息が詰まった。何だか自分がとんでもない間違いを犯したような気がした。一番触れてはいけないものに触れてしまったような。
 
 言い終わった途端、橘の身体からくったりと力が抜けた。ベッドの背もたれへと寄り掛かると、そのままずるずると仰向けになってしまう。両腕で目元を隠して、橘が唸り声をあげる。
 
 
「橘さん、気分でも悪いんですか?」
「いえ…何だか、いきなり恥ずかしくなって…」
「それ、俺の台詞ですよ」
 
 
 それは前回会った時に、喜一が呟いた言葉だ。それを目の前の男が同じように呟いていることが面白かった。笑いながら、橘の頭をゆるゆると撫でる。七三分けにされた髪の毛を弄りながら、この髪の毛もちゃんとセットしたら格好良いのになぁ、なんて考えたりする。軽く色も染めて、前髪も垂らして、スーツだってこんな新卒丸出しのスーツじゃなくて、もっとビシッと決まる奴を買えばいいのに。そうしたら、橘の良さがもっと解り易く皆に伝わるだろう。先ほど取った橘の眼鏡を指先で弄っていると、不意にある考えが頭を過った。
 
 
「そういえば、橘さんはやっぱりコンタクトに変えないんですか?」
「いえ…喜一さんに言われて一度眼科に行って処方箋まで貰ったんですけど、まだ買いに行けてなくて」
「なら、日曜に一緒に買いにいきません?」
 
 
 その一言に、橘が驚いたように顔を上げる。その大きく開かれた瞳を見詰めて、喜一はにやっと笑みを浮かべた。
 
 
「デートしましょ?」
「で、デート、ですか?」
「はい、デートです」
 
 
 戯れるように言葉を紡ぐ。ようやく平常に戻りつつあった橘の顔が再び赤く染まっていく。狼狽したようにパクパクと上下に開閉される唇を見て、喜一は大袈裟に肩を竦めた。
 
 
「っていうのは冗談で、普通に友達として遊びません? 買い物したり、ゲーセン行ったり、飯食ったり、男同士気楽に。俺も休み取りますんで」
「あの、でも、折角の休みにいいんですか?」
 
 
 軽い喜一の口調に、ようやく橘が落ち着きを取り戻してきた。ベッドの上に正座すると、叱られた子供のようにおずおず訊ねてくる。
 
 
「橘さんは、俺と一緒は嫌ですか?」
「そんなっ…僕は、嬉しいです」
 
 
 ふわりと橘の表情が緩む。その心底嬉しそうな顔を見て、喜一の表情も無意識に柔らかくなる。愛しいという感情が胸の内側をいっぱいに満たして、酷く和んだ心地になった。
 
 ただの客だと思い込もうとしながらも、どうしてだか橘を特別扱いしたくなる。優しくしたくなる。守ってあげたくなる。そんな自分が喜一には酷く不思議だった。
 
 

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