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8 幸せのコップ

 
 ごねる橘を抑えて、スーツも二着ほど購入した。上品なグレーのスーツと、暖かみのある色合いのベージュのスーツだ。調子に乗ってネクタイピンまで選び始めた喜一を、橘が慌てたように店から引き摺り出す。ぐいぐいと腕を引っ張られて、連れて行かれた先は全国にチェーン展開しているファミレスだった。ここで小洒落たカフェなんかに行かないところが橘らしい。
 
 
「僕、お腹すきました! そろそろ、ご飯にしましょ? ね?」
 
 
 額に冷汗を滲ませた橘にそう諭されて、喜一はしぶしぶ買い物を中断させることにした。
 
 ファミレスの席についた時にようやく気付いたが、橘の両腕には大量の紙袋が吊り下げられていた。二人しかいないのに、四人席が荷物でみっしりと埋まるほどだ。たぶん、金額に換算したら十万は軽く超えているだろう。だが、勿体ないとは思わなかった。むしろ、もっとこの男に投資したい気分だ。十万そこそこ金をかけるだけでこれほどの変貌を見せてくれるのなら、幾ら注ぎ込んだって惜しくはない。
 
 向かい側に座る男を見て、喜一は口元を緩めた。見違えるほど格好良くなった橘を見ると、原石のダイアモンドをピカピカに磨き上げたようなそんな達成感を感じる。今の橘を飢えた女達の群れに投げたら、きっと羊のように食いつかれる事だろう。にやにやと意味深げに笑う喜一を見て、橘が首を傾げる。
 
 
「なんだか、喜一さん悪いこと考えてません?」
「いいえ、なーんにも」
 
 
 ぷいっとそっぽを向いてしらばっくれると、橘は困ったように肩を竦めた。
 
 
「ほら、ご飯美味しそうですよ。喜一さんは、どれを食べますか?」
 
 
 橘の聞き方は、気まぐれな子供をあやすようだった。ファミレスのメニュー表を喜一へと向けて、いろいろな料理を人差し指で示す。その馬鹿丁寧な様子が面白くて、思わず噴き出す。椅子に座ったままゲラゲラと腹を抱えて笑うと、橘は驚いたように目を丸くした。
 
 
「喜一さんって、もしかして笑い上戸ですか?」
 
 
 大真面目な顔で、見当違いな事を訊ねてくる。笑い過ぎて涙が滲んだ目尻を拭って答える。
 
 
「橘さんといると笑い上戸になるんだよ。何だか楽しくって」
 
 
 喜一の率直な言葉に、橘は一瞬目を瞬かせた後、はにかむように微笑んだ。
 
 
「僕も、とても楽しいです。喜一さんと一緒にいると、何だかほっとします」
 
 
 飾り気のない言葉が不意に胸を震わせる。何の衒いもなく、こんな風に真っ直ぐに気持ちを伝えてくれる相手が自分の周りにどれだけいるのだろうと喜一は一瞬考えた。考えた瞬間、胸がぎゅっと苦しくなった。それと同時に、酷く皮肉じみた考えも頭の端にちらりと過った。風俗の男相手に『ほっとする』なんて、どこの馬鹿が言いやがる。たかだか三回しか会ったこともないくせに。喜一の言葉を嘘とも上辺とも疑わず、温かい言葉をかけてくる男が愛しくて、そうして酷く憎らしてたまらなくなった。微かな愛憎が心臓をざわめかせる。
 
 引き攣りそうになる口角を誤摩化すために、メニュー表へと視線を落として、わざとはしゃいだ声をあげる。
 
 
「このピザ美味そう! ねぇ、これ半分こにしません?」
 
 
 季節野菜のモッツレラチーズピザを指差しながら笑いかける。橘が目線を落とした時、通路を歩いていた二人の女が喜一達のテーブルの前で立ち止まった。太腿が剥き出しのホットパンツを履いた子と、ピンク色のふわりとしたミニスカートを履いた子だ。姉妹ではないだろうが、二人とも胸元まで伸びた茶髪を緩く巻いていて化粧や顔立ちも似通っていた。
 
 
「あの…お二人ですかぁ…?」
 
 
 ホットパンツの女の子から躊躇いがちに問われた言葉に、橘がパチパチと目を瞬いている。それから、喜一へと困惑の眼差しを向けた。知っている人ですか、とでも言いたげな視線だ。喜一は無言のまま、にやにやと橘を見返した。
 
 
「はい、二人です」
 
 
 喜一が黙っているので、戸惑いながらも橘が答える。女達は嬉しげに目を輝かせた後、意味深げに目配せをした。
 
 
「なら、私達も二人だし、一緒にご飯食べませんか?」
「え、どうしてですか?」
 
 
 女の子達の意図を一切汲み取らない橘の返答に、喜一は咄嗟に笑いを堪えた。逆ナンに、どうしてなどと聞くのはこの男ぐらいだろう。頭にはてなマークを浮かべる橘と、テーブルに額を押し付けてぷるぷると肩を震わせる喜一を見て、女の子達はぽかんと口を半開きにしている。
 
 
「喜一さんのお友達ですか?」
「ううん、違うよ」
 
 
 笑わないように咥内を歯で噛んだまま首を左右に振る。すると、橘は途方に暮れたように眉を寄せた。その困った表情を暫く眺めていたかったけれども、おろおろと女の子と喜一を交互に見遣っている姿はさすがに可哀想だった。仕方なく喜一は女の子達へと声をかけた。
 
 
「ごめんね。今日はこれからいろいろと行くところがあるから、ゆっくりしてらんなくってさ。だからまた今度会った時に誘ってくれると嬉しいな」
 
 
 嫌味がないように口調を柔らかくして、申し訳なさそうに言う。すると、女の子達は残念そうに溜息を吐いてから、簡単な挨拶だけ残して去って行った。おそらく喜一の返答から脈がないことを感じ取ったのだろう。空気が読める女の子達で良かったと思う。これで携帯番号などをしつこく聞かれていたら面倒くさかった。
 
 女の子達が去っても、橘は起こったことを把握できていないようだった。落ち着きなく視線をきょろきょろと彷徨わせる橘へと、人差し指を立ててこちらを見てとばかりにくいくいと動かす。視線が固定されると微笑みかける。
 
 
「橘さん、あれが逆ナンです」
「ぎゃく、なん?」
「女の人が男の人をナンパすること」
 
 
 殊更丁寧に言い換えてやると、橘は釈然としない表情を浮かべた後、「はぁ」と憂鬱げな相槌を返してきた。初心な男が真っ赤にならないのが珍しくて、喜一は緩く首を傾げた。
 
 
「嬉しくないんですか?」
 
 
 喜一の純粋な疑問に、橘が眉を顰める。不満げな表情は、子供が駄々を捏ねる時のようにも見えた。橘は少し口籠った後、不意に切り込むような声音で問い掛けてきた。
 
 
「喜一さんは、あの人たちと食事をしたかったですか? 僕と一緒よりも、そっちの方が楽しかったかもしれない」
 
 
 ぎょっとした。橘がそんな事を言うとは考えてもおらず、喜一は自分が思うよりもずっと衝撃を受けた。
 
 
「何でそんな事言うんですか」
 
 
 思わず呆れたような声が零れた。唖然とした表情で橘を見詰めると、橘は悲しげに視線を落とした。
 
 
「また会った時に誘ってくれたら嬉しい、って喜一さん言いました。でも、もう彼女達には会えないかもしれません。だったら、僕なんかより彼女達と今一緒にいるべきだったのかもしれない」
 
 
 ナンパの断り文句を本気にしているらしい橘に、ほとほと呆れ果てる。純粋無垢もここまでいったら正直滑稽だ。しかも、橘はナンパされたのが“喜一だけ”だと思っているのだ。自分がナンパされただとは欠片も思っていない。その鈍さに溜息を吐く。吐き出される溜息に、橘の視線がどんどん下へと落ちて行く。
 
 
「俺は、橘さんより女の子と遊んだ方が良かったんですか?」
 
 
 そう冷たく問い掛ける。自分でも意地の悪い質問だと思った。だけど、抑えられなかった。橘の言葉は、想像以上に無神経だった。あれほど橘といるのが楽しいと言ったのに、橘は喜一が初めて会ったばかりの女の子達を選ぶと思っているのだ。失礼な、侮辱にも近い。一体、この人は俺を何だと思ってるんだ。誘われりゃほいほい付いていく薄情者だとでも思ってるのか。
 
 先ほどの和やかな空気が一気に凍り付いてしまった。橘の顔色は先ほどよりも悪くなっている。紙のように白く褪めた頬が哀れだ。不器用で鈍感で、時折可哀想なぐらい滑稽で、酷く憎らしい。
 
 ――でも、だからこそ見捨てられない。ふとした瞬間に、息苦しいぐらい愛しいと思ってしまう。傲慢な考えだと思った。身体を売っている自分が真っ当に生きる橘に対して見捨てられないだの愛しいだの、そんな考えこそよっぽど噴飯ものだ。
 
 
「――ピザ頼んでいいですか?」
 
 
 唐突な喜一の問い掛けに、橘が訝しげな表情を滲ませる。それでも小さく頷くのを見て、喜一はファミレスの呼び出しボタンを押した。三十秒も待たずに店員がやって来る。適当に数品頼んでから、メニュー表を橘へと渡す。橘はもごもごと聞き取り難い声でサバの味噌煮定食を頼んだ。橘は俯いたまま、喜一と視線を合わせようとはしない。
 
 料理が届いてからも、暫くは黙々と食べた。テーブルの真ん中に置かれたピザへと手を伸ばして、一つ千切る。
 
 
「橘さんも食べて下さい」
 
 
 そう声をかけると、サバの骨を箸で取り除いていた橘はピクリと肩を震わせた。俯いていた視線が縋り付くように喜一を見詰める。その目を見詰め返して、喜一はゆっくりと頷いた。
 
 
「俺は知らない女の子よりも貴方と二人でピザを食べてる方が良い。だから、断ったんです。橘さんへの義理立てとかそういうつもりでもないです。だから、もうそんな顔しないで下さい」
 
 
 最後は殆ど祈るような声になった。悲しげな橘の視線から気を逸らしたくて、手に持ったピザを自棄糞のように口へと運ぶ。勢い余って大量に乗せられていたトマトソースが口角に盛大にこびり付く。それをぞんざいに拭おうとすると、それよりも早く橘の手が伸びていた。親指の腹で、そっと口角を拭われる。
 
 
「…すいません」
 
 
 ソースを拭われながら謝られる。橘の瞳は、真っ直ぐ喜一を見詰めていた。ドキリと心臓が跳ねるぐらい、その瞳は澄んでいる。不意に、恋しさにも似た羨望を覚えた。喜一には、こんな目は出来ない。
 
 
「…なんだかなー」
 
 
 ソファの背に凭れ掛かりながら、喜一はぼやくように呟いた。無意識に強張っていた身体から緩く力を抜く。
 
 
「橘さんって、ちょっと面倒臭い人?」
「すいません」
 
 
 茶化す言葉にも、露骨に傷付いた表情を浮かべる。俯く男から視線を外して、チャーハンを頬張る。
 
 
「俺がナンパされるの嫌でした?」
 
 
 先ほどまで凍り付いていた空気を解そうと、笑い声混じりに問い掛ける。阿呆な冗談のつもりだった。目を大きく見開いた橘が顔を上げた。驚いた表情に、さっと羞恥の色が加わる。どこか悔しげにも切なげにも見える表情だ。ふと聞いてはいけない事を聞いてしまったような気がした。頬に詰め込んだチャーハンが飲み込めなくなる。無言が苦しくて、いい加減にチャーハンを咀嚼して、無理矢理咽喉に流し込む。
 
 橘は喜一をじっと凝視している。その視線に呼吸すら上手く出来なくなる。何かに取り憑かれたように橘の掌がゆるりと伸ばされて、喜一の手を掴んだ。その瞬間、何かぬるりとした感触が親指の付け根辺りに広がった。
 
 
「あ、ぁー…」
「わ、あ、すいません!」
 
 
 先ほど喜一の口角を拭った際にこびり付いたトマトソースを、橘は拭き忘れていたらしい。親指の腹についたままだった赤いソースが喜一の手にべったりとついていた。素っ頓狂な声をあげて混乱する橘を見て、喜一はテーブルに据え置かれていた紙ナプキンを手に取った。橘へと差し出すと、自分の手ではなく喜一の手を拭いてくる。まるで壊れやすいものでも拭いているかのような丁寧な手付きだった。その切実な手付きが鬱陶しくて、それなのに無性に胸を締め付ける。この不器用な男を傷付けたくなかった。優しくしてやりたかった。
 
 
「橘さん」
「すいません、本当に…」
 
 
 この人さっきから謝ってばっかだな。そう思うと、少しだけ口元に苦笑いが滲む。
 
 
「橘さん、ありがとう」
 
 
 そっと囁く。その唐突な一言に、今にも泣き出しそうだった橘が顔を上げる。
 
 
「俺と一緒にいると、ほっとするって言ってくれて」
 
 
 もう一枚紙ナプキンを手に取って、今度は橘の手についたソースを拭う。指紋の隙間にまでついているトマトソースを拭っていると、不意にそれまで意識していなかったトマトの匂いが鼻腔の奥いっぱいに広がった。酸っぱいのに、ほのかに甘い。
 
 
「嬉しいよ、嬉しかったよ、本当に、本気で」
 
 
 自分でも意外なぐらい拙い言葉しか出て来なかった。普段なら口当たりの良い営業トークがぺらぺらと出て来るのに、どうしてだか橘といると調子が狂う。不意に、唐突に、心臓の奥に潜り込んできて、掻き乱される。それが堪らない。
 
 
 そうだ、嬉しかった。素直に嬉しかった。この男の不器用な率直さが愛おしかった。
 
 
 首を緩く傾げて、微笑む。笑みを形作る唇が微かに震えた。橘は喜一の顔をぼんやりと眺めて、それから泣き笑うような笑みを浮かべた。橘の手を離して、赤く染まった紙ナプキンをくしゃりと丸める。それから、喜一はくすくすと小さく笑い声を零した。
 
「何か、俺らホモみたいだね」
「え?」
 
 
 見せつけるように口角を指先で拭う仕草をすれば、橘がカッと頬を赤らめた。
 
 
「それは…ついっ、癖で…!」
「癖?」
「妹と弟が食事のときによく口元を汚すので…」
「へぇ、橘さんって長男?」
 
 
 一瞬、橘は躊躇うように喜一を見詰めた。どこか物言いたげな眼差しだ。だが、喜一が不思議そうに首を傾げると、ゆっくりと頷いた。
 
 
「はい、長男です」
「いいなぁ。兄弟って憧れるよ。喧嘩したり、晩ご飯のおかず奪い合ったりするんでしょう?」
 
 
 漫画のようなイメージを語る喜一に、橘が頬を緩める。
 
 
「そんなことないですよ。妹や弟とは歳も離れていたので喧嘩することもありませんでしたし。それにうちは両親が離婚してしまって、僕が料理を作っていたんですが、どうにも、その…」
 
 
 ばつが悪そうに橘が言い淀む。
 
 
「どうにも?」
 
 
 首を傾げて促すと、橘はそっぽを向いたままもごもごと口を動かした。
 
 
「すごく、まずいらしくて…。どうやったら食材を生ゴミに出来るんだって、よく妹や弟から怒られてました。お兄ちゃんの唯一の得意料理はカップラーメンだ、って」
 
 
 悲愴感たっぷりに話す姿に笑ってはいけないと思いつつも、しょんぼりと落とされた肩が面白くて喜一はつい噴き出してしまった。喜一の遠慮のない笑い声に、橘の顔が赤くなる。
 
 
「き、喜一さんっ、僕は本気で悩んでるんです…!」
 
 
 橘を見ていて、不意に思い出す。そういえば、彼女も料理が絶望的にヘタクソだった。一度ビーフシチューにルーを二箱分入れて、ヘドロ状のよく解らない食べ物を作ったこともある。「いっぱい入れた方が味にコクがでると思ったの」という彼女のぼけた言い訳を聞いて、喜一はそれからは料理は自分の役割と決め込んだ。
 
 
「俺の彼女も料理ヘタクソだったよ」
 
 
 無意識に唇が動いていた。あ、まずい、と思ったのは一秒後だ。橘がきょとんと目を瞬かせて、驚いたように喜一を凝視している。
 
 
「喜一さん、彼女がいるんですか?」
 
 
 誤摩化す言葉が思い付かなかった。一瞬慌てたが、すぐに誤摩化す必要もないかと思い直す。
 
 
「正確には〝いた〟だね。彼女じゃなくて元カノ」
 
 
 元カノと軽く口に出したはずなのに、胸の奥に圧し掛かるものがあった。彼女を過去形で喋るのが苦しい。過去にしたのは他ならぬ自分自身の癖に。
 
 元カノ、と橘が反芻するように呟いている。それから、困惑した眼差しで喜一を眺めてきた。
 
 
「喜一さんは…その…ゲイの方、じゃないんですか?」
 
 
 気まずそうな声に、喜一は曖昧な笑みを返した。ソープで男相手に身体を売っていれば、そりゃゲイと思われても仕方がない。
 
 
「俺、一応ノンケだよ。女の子好きだし」
「それじゃあ、どうして…」
 
 
 そこで言葉が切られる。橘なりに気安く聞いてはいけない事だと思ったのだろう。その思いやりは嬉しいが、これ見よがしに気を遣われる方がずっとしんどかった。だから、その後は喜一が続けた。にこにことわざとらしい笑顔を浮かべる。
 
 
「ノンケなのに男に身体を売る理由はね、そうしてると安心するからだよ」
「安心する?」
 
 
 お金のためと誤摩化すのはやめた。何万も目の前の男に注ぎ込んでおいて、金が欲しいから身体を売ると言い訳するのは嘘臭いと思ったからだ。だが、正直な気持ちを伝えたところで、どこか嘘じみてるなと自分で思って笑えた。尻に男のちんこ突っ込まれて、内臓を突き上げられる不快感に嬌声をあげて堪えるのが安心するだなんて喜一にも上手く説明できない。ただ自分が不毛な道具として扱われるのが一番相応しいと思えるだけだ。
 
 
「よく、解りません」
 
 
 橘が困惑の表情でぽつりと呟く。そうだよね、と相槌を返しながら、喜一は掌で顎を支えた。まだ半分ほど水の残ったグラスを眺めながら、ぽつりと呟く。
 
 
「橘さん、幸せって溢れたらどうなると思う?」
「え?」
 
 
 喜一の唐突な質問に、橘が首を傾げる。
 
 
「俺の彼女、あ、元カノだけど、みーちゃんって言うんだよね。みーちゃんはさ『幸せが溢れそう』ってよく言ってたんだよ」
 
 
 思い出が濃霧のように脳味噌をふわりと覆い尽くす。そうだ、みーちゃんはいつも幸せそうだった。いつもにこにこと嬉しそうに笑って、失敗ですら笑い飛ばしてしまうような明るく暢気な女の子だった。みーちゃんとは高校二年の頃からずっと付き合っていて、大学入学を期に同棲を始めた。その頃からだ。みーちゃんが『幸せが溢れそう』と口にし始めたのは。
 
 
「みーちゃんが言うには人の身体の中には〝幸せのコップ〟があって、形も大きさも人それぞれなんだって。幸せになればなるほどコップの中身はどんどん増えていく」
 
 
 橘は合点がいっていないような複雑な表情で、喜一の言葉を聞いている。
 
 
「みーちゃんは、そのコップがいっぱいになったらどうなるのって俺に聞いたんだ。幸せすぎて、コップの中身が溢れたら、溢れたものはどうなるの、って」
「…そんなの、解らないです。幸せが溢れるっていうのも、僕には上手く理解できない」
 
 
 橘が不安げな声で答える。その声音に、喜一はふふっと短い笑い声を返した。
 
 
「そうだよね。俺も解んなかったよ。だから、余計に怖かった。みーちゃんが幸せって言う度に、嬉しくて仕方ないのに、同じくらい不安で堪らなくなった。言っちゃ何だけどさ、俺は親も優しいし、友達もたくさんいたし、大好きな彼女もいて、順風満帆で幸せな人生を送ってきたんだよね。だから、ある時気付いたんだ。俺のコップはもう満杯かもしれないって」
 
 
 可笑しいことを喋っているわけでもないのに、口元に笑みが滲む。自嘲と紙一重の笑みだ。
 
 
「その日はさ、みーちゃんの好物の餃子を作ってたんだ。俺、こう見えても結構料理得意なんだよ。餃子とか皮から作っちゃう本格派」
 
 
 笑い話にしたくて、わざとおどけたように言う。ニンニクと生姜をたっぷり入れたピリ辛餃子。女の子なら口臭を気にしてあまり食べたがらないが、みーちゃんは喜一が作った餃子をバクバクと遠慮なく食べた。だからか、同棲を始めてからみーちゃんはたぶん五キロぐらいは太ったんじゃないかと思う。太くなった二の腕に触ると、みーちゃんは眉を顰めて嫌がった。「きぃちのせいで幸せ太りした」と不貞腐れたように言うみーちゃんが可愛くて、喜一は柔らかい二の腕を触るのをやめられなかった。
 
 
「餃子の中身の玉葱刻んでたらさ、幸せだなぁって思ったんだよ。当たり前みたいに幸せだ、って。それだけ」
「それだけ」
「そう。それだけで俺のコップから幸せが溢れちゃったんだ」
 
 
 玉葱を刻みながら涙が溢れて止まらなくなった。包丁を握る掌がぼやけて、玉葱のみじん切りの中にぽつぽつと自分の涙が零れ落ちた。悲しくもないのに嗚咽が止まらなくて、キッチンで蹲って赤ん坊のように泣きじゃくった。思い出すと、今でも滑稽な姿だと思う。
 
 
「だから、幸せが全部溢れる前に逃げ出しちゃったんだ。みーちゃんを置きざりにして、マンション飛び出して、それから一度も連絡を取ってない」
 
 
 泣きながら着の身着のままマンションを飛び出した。コップから幸せが溢れ出している音が鼓膜から離れなくて、ひたすら怖くて堪らなかった。感傷的で悲観的で、破滅的に滑稽だ。
 
 橘へとへらへらと笑いかける。橘は両手を固く握り締めたまま、喜一を見詰めている。
 
 
「マンションを飛び出しちゃってからは、ネットカフェとかに泊まったりしてたけど、お金なくなってからは野宿とかしてさ、完全ホームレス状態。そしたら、今の店のマネージャーが拾ってくれたの。初めはボーイとして働いてたけど、意外と隠れゲイの人とかって人の目を気にして二丁目とか行けないから、こういう女の子ばっかの店に男一人居たりすると重宝されるって気付いて、無理言って売る方に回してもらったの」
 
 
 初めは当たり前のように却下された。女の子を売る店で男が身体を売るだなんて冗談じゃない、と田中さんに何度も撥ね付けられた。だが、それでもしつこく交渉を続けた。最終的には一ヶ月間のお試しでその仕事が与えられた。一ヶ月間の間、喜一は一度もクレームを出さなかった。勿論新規客は少なかったが、その分リピーター率は高かった。日が過ぎるごとに田中さんの渋面も柔らかくなっていった。今では店の一員として受け入れられているようにも思える。一部を除いて、だが。
 
 
「馬鹿みたいだろ。自分から幸せを手放しちゃったんだ。あんなに幸せだったのに、幸せなのが怖くなるなんて」
「喜一さんは幸せになるのが怖いから、他人に身体を売るんですか?」
「そう、かな? 自分でもよく解らないけど、そうかもしれない」
 
 
 曖昧に肩を竦める。橘が思うよりも、喜一の内面はずっと曖昧模糊としている。自分で自分の事が解らないことが多すぎる。どうしてこうなったんだろうと思う。みーちゃんと一緒にいた頃は、もっと自分という人格がきちんと成り立っていた気がする。ある時を境に、唐突に自我が豆腐のように柔らかく崩れてしまったようにすら感じる。
 
 橘が唇をへし曲げているのが見える。あぁ、引かれちゃったかなと思う。他人の情緒不安定な話を聞いて、楽しく思う人間はいないだろう。どうして、こんな話を橘にしてしまったのかと後悔する。適当に誤摩化すことだって出来たはずだ。アブノーマルな世界を経験したかっただとか、唐突にマゾに目覚めただとか、嘘をついて流してしまえば良かった。なぜなぜ本当の事を、みーちゃんの事を言ってしまったんだろうと自問自答する。目の前の男を眺めていると、答えはおのずと出た。
 
 
「橘さんは嫌かもしれないけど、橘さんとみーちゃんは少し似てるよ」
 
 
 初心で、少し抜けてて、息が止まりそうなぐらい優しい所が。みーちゃんと似ているから、こんなにも縋りたくなるのだろうか。捨てた彼女を追い求めるように。が複雑な笑みを浮かべて、首を緩く傾げる。
 
 
「その人が今何をしているか、喜一さんは知っているんですか?」
「さぁ、解んないな。でも、みーちゃんは国語の先生になりたがってたから、今は小学校の先生とかになってると思う。自分を置き去りにした最低な男のことなんか忘れて、今度はもっと誠実な男と付き合ってるよ。あぁ、みーちゃんは子供が好きだったから、もしかしたらもう結婚して子供もいるかもしれないな。良い旦那と可愛い子供がいて、絵に描いたみたいな幸せな家庭を築くタイプだよ、みーちゃんは」
 
 
 それが自分の願望でしかない事は解っていた。だが、口に出した瞬間、それが真実のように思えた。そうだ、みーちゃんには幸せが似合う。誰よりも幸せになるべき存在なんだと思った。
 
 
「喜一さんは、まだその人のことが好きなんですか?」
 
 
 橘の質問に、一瞬言葉に迷った。だけど、嘘は付けなかった。
 
 
「うん、好きだよ。あんなに好きだったのに、何で手放したのかって自分でも上手くわかんない。だから、今でも忘れられないで惨めったらしく悩んだりしちゃうんだろうね」
 
 
 そうだ、大好きだった。高校二年生の頃、同じクラスになって、好きになるまで殆ど時間はかからなかった。何をするにも彼女を意識して、告白するのだって心臓が止まりそうなぐらい緊張した。彼女の肌に初めて触れた日、一緒に住むと決めた日、おそろいのピアスをウィンドウに顔を引っ付けるようにして二人で選んだ日。みーちゃんと一緒にいるだけで全てが輝いて見えた。それぐらい好きだったのに、どうして。
 
 
 いまだに自問自答してしまう自分の未練がましさに失笑する。だけど、笑みは結局泣き笑うように歪んだ。橘が追従するように微笑む。だが、次第にその表情が切なげに歪んでいく。
 
 
「ごめんなさい、うざったいこと聞かせて。今の話、忘れてくださいね」
 
 
 辛そうな表情を見ていられずに、咄嗟に謝る。橘は緩く首を左右に振った。
 
 
「違います。うざったくなんかないです。ただ、何だか悲しくて」
「悲しい?」
「それじゃあ、喜一さん、一生幸せになれないじゃないですか」
 
 
 不意に、心臓に棘が突き刺さった。一生幸せになれない。そうだ、幸せから逃げ出してここにいるんだから、幸せになれないのは当然だ。至極当たり前な事実を聞いたはずなのに、息が止まりそうなぐらい苦しくなった。泣き出しそうにこちらを見詰める橘を見て、喜一は弱々しく微笑んだ。
 
 
「自業自得ですね」
 
 
 声は掠れていて、酷く哀れげだった。その事に反吐が出そうなぐらいの自己嫌悪を覚えた。
 
 

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