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9 壊れゆく夫婦

 
 食事の時間がどんよりと重たい空気に覆われてしまった。流石に無言は苦しくて喜一は何度か橘へと話しかけたが、橘の返事はどこか上の空だった。それでも、その空気を作ったのは自分の不注意な発言のせいだからこそ、喜一は気詰まりな時間をひたすら耐えるしかなかった。
 
 
 だが、食事を終えて、再びショッピングに戻ると、次第に重苦しい空気も和らいでいった。大量にあった買い物袋はロッカーに入れて、二人で身軽に動き回った。買う気もないのに靴屋を巡り、ド派手なショッキングピンクと蛍光イエローのスニーカーを面白半分で橘に履かせたりもした。橘はそのケバケバしい色彩に目をしばたかせながらも、「でも、これすごく歩きやすいです」と馬鹿真面目に感想を述べたりもした。喜一は、そのスニーカーの横に置いてある空色のスニーカーを橘に履かせれば良かったと少し後悔した。
 
 立ち寄ったゲームセンターでは、二人して中学生のようにレーシングゲームではしゃいだ。橘はカーブでもないのにブレーキを小刻みに踏んだあげくに、車を盛大にスリップさせていた。アクセルとブレーキを踏み間違えて大慌てする様子に、喜一は大笑いした。聞けば、橘は大学卒業直前に免許を取得したらしい。結構良い評価貰ってたんですよ、と胸を張る橘の姿に――できれば一生運転しない方がいいんじゃないかという言葉は喜一の胸にしまっておいた。
 
 一頻り遊んで、ゲームセンターから出ようとした時、不意に視界の端に止まるものがあった。UFOキャッチャーに入った一抱えもある犬のぬいぐるみだ。真ん丸なつぶらな瞳と、ふわふわな毛並み、犬なのに額には眉毛がつけられており、その眉尻が情けなくハの字に垂れ下がっているのが可愛かった。間が抜けているけど、愛着を感じさせる可愛い顔をしていた。その『くぅん』とでも鳴いているような哀れげな表情がどことなく橘を連想させる。
 
 
「欲しいんですか?」
 
 
 立ち止まった喜一を横から覗き込んで、橘が訊ねる。喜一は一度ぬいぐるみと橘を交互に見比べて、くすくすと笑ってから首を左右に振った。
 
 
「いや、可愛いなと思って」
 
 
 含み笑いで答えて、すたすたとゲームセンターから出て行く。橘は一瞬ぬいぐるみを見詰めてから、喜一の後ろを追い掛けてきた。
 
 ゲームセンターを出て、暫く歩いたところでポストを見つけた。そういえば、昨日の稼ぎ分をまだ投函していない。封筒は、いつもの習慣でズボンの尻ポケットに入ったままだ。
 
 
「ごめんなさい、ちょっと手紙出させてください」
 
 
 橘へと頭を下げてから、封筒を取り出してポストへと投函する。昨日の稼ぎは、いつもよりも多かった。八本相手の二十万だ。最近は一晩フル稼働な日も珍しくなくなってきた。その分、体力は軒並み削られていく。まるでヤスリで身体の内側をゴリゴリと削がれているようだ。
 
 手紙の送り先は以前喜一と彼女が同棲していたマンションだ。そこにまだ彼女が住んでいるかも定かではない。だけど、送らずにはいられない。強迫観念のように、一年間も喜一はそれを繰り返している。
 
 手紙がポストへと落ちた音を聞いてから、橘を振り返る。お待たせしました、と言い掛けた唇は半開きのまま固まった。それは、橘が酷く思い詰めた表情をしていたからだ。唇を物言いたげに開いたまま、喜一を凝視している。
 
 
「喜一さん、あの…僕…」
 
 
 橘が何かを言い掛けた瞬間、「きぃ」と呼び掛ける声が聞こえた。反対側の道路に黒塗りの車が止まっている。半分開かれた後部座席のウィンドウから、無表情な男の顔が覗いていた。
 
 
「あれ、真砂さんっ」
 
 
 つい営業スイッチが入ってしまった。ワントーン高い馬鹿っぽい仕事用の声が思わず出てしまう。橘が横で目をパチパチと瞬かせる。
 
 
「…お友達ですか?」
「ううん、お客さん」
 
 
 喜一は極自然に答えたのに、その瞬間、橘の表情が目に見えて曇った。そうなんですか、と相槌を打つ唇が微かに引き攣っているのが見える。あぁ、お客さんと答えてしまうと、喜一が目の前に男に抱かれているのがハッキリ解ってしまうな。男同士の性行為を連想させられれば不愉快にもなるのは当然だろう、と喜一は反省した。
 
 真砂さんが軽く顎をしゃくっているのが見える。こちらに来いということだろう。
 
 
「すいません、ちょっと呼ばれてるみたいなんで行って来てもいいですか?」
 
 
 橘は戸惑うように眉尻を下げたが、結局気弱げに「はい、大丈夫です」と答えた。その答えを聞いてから、向かい側の道路へと小走りで向かった。
 
 
「こんにちはー、真砂さん。お店以外の場所で会うの初めてですね」
 
 
 軽く腰を屈めて、真砂さんと視線を合わせる。喜一は、へらへらと気の抜けた笑みを浮かべているのに、真砂さんは気難しげに眉間に皺を寄せていた。
 
 
「アイツ、誰だ」
 
 
 最初は誰のことを言っているのか解らなかった。だが、真砂さんの剣呑な視線が橘へと向かっているのを見て、喜一は慌てて答えた。
 
 
「友達です」
「友達?」
「いや、お客さんなのかな…」
 
 
 橘と自分の関係を定義する言葉が思い付かなくなる。お客さんだけどセックスはしていなくて、友達というにはまだ三度しか会ったことがなくて、知り合いと一括りにするには橘に愛着が湧きすぎている気がした。うんうんと唸る喜一を見て、真砂さんが酷く冷たい声をあげる。
 
 
「あのガキと寝てるのか?」
「ガキって、ああ見えて橘さん二十歳すぎてるんですよ」
「見た目がガキだからガキだと言ってるんだ。そんな事はどうでもいい。アイツと寝たのか?」
「なんで、そんなことに拘るんですか」
 
 
 珍しく執拗な真砂さんの言葉に、喜一は困惑した。寝てようが寝ていまいが、そんな事はどうだって良いじゃないか。橘と寝ていなくたって、真砂さん以外の何人何百人の男と毎晩寝ているのだ。それが喜一の仕事だ。
 
 唖然とした表情で、真砂さんを見つめる。真砂さんは不機嫌そうに目を細めると、不意にウィンドウから腕を伸ばしてきた。喜一のうなじを骨張った掌がぐいと掴んで引き寄せる。驚きの声をあげる間もなく、半開きになった唇に真砂さんの唇が重なる。至近距離に、酷薄な男のすっと伸びた鼻筋が見えた。生ぬるく湿った舌がゆるりと上顎を撫でる。その感触にぞわりと背筋を震わせると、唇がゆっくりと離れた。煙草の苦味が微かに咥内に広がっている。真砂さんとキスをするのは初めてだった。
 
 真砂さんはまだ不機嫌そうな顔のままだ。それでも、うなじに掴む指先はくすぐるように喜一の首筋を撫でている。丁度頸動脈の位置を何度もなぞられて、皮膚が緩く粟立った。
 
 
「あいつの前で、お前の首を絞めてやろうか」
 
 
 らしくもなく面白がるような口調で真砂さんが言う。その酷薄な口調に唇が引き攣った。
 
 
「な、に言ってんすか」
「なんなら、ここでするか?」
「ここ?」
「カーセックス」
 
 
 車の後部座席を指し示す仕草に、ぐっと腰を屈めて車内を覗き込む。途端、喜一はぎょっと目を見開いた。真砂さんの隣に、見知らぬ女性が座っていた。耳元まで伸びた上品なショートカットに、儚げな眼差しをした透明感のある美女だった。美女は喜一と目が合うと、控えめな仕草で頭を下げた。
 
 
「あ、こん、にちは」
 
 
 言葉に詰まりながら挨拶を零す。すると、美女はそっと消え入りそうな微笑みを浮かべた。
 
 
「こんにちは。主人からよく話は窺っております」
 
 
 主人という一言に、バッと真砂さんを凝視する。真砂さんは、酷く投げ遣りな口調で言った。
 
 
「女房の則子だ」
「主人がいつもお世話になっております」
 
 
 女房、主人とお互いに口に出しながらも、どこかよそよそしい雰囲気が二人には漂っていた。そういえば、女房とは離婚をすることになったと真砂さんが言っていたことを思い出す。
 
 
「いえ、こちらこそ…」
 
 
 言葉に迷ったあげくに、曖昧な言葉しか出てこなかった。『はい、毎回身体で精一杯お世話にしてまーす』だなんて自尊心を売っぱらった喜一でも言えるわけがない。お客さんの奥さんを目の前にすれば罪悪感だって人並みに湧いてくる。
 
 狼狽する喜一を見て、則子さんが困ったように首を傾げる。細い首筋が透けるように白かった。
 
 
「真砂とのことは、お気になさらないで下さい。私は、貴方を責めたり詰ったりするつもりはないんです。むしろ、感謝しているぐらいなんですから」
「感謝?」
「私は、もうこの人から離れてしまいますから」
 
 
 沈痛さも歓喜もない、至極淡々とした声だった。だからこそ、奇妙に痛々しかった。
 
 
「心配だったんです。この人はこんな怖い顔をして、実はすごく寂しがり屋だから、誰か傍にいないと泣いてしまうんじゃないかと思って…」
「誰が泣くんだ」
「勿論、貴方です」
 
 
 真砂さんの一言に、則子さんは当然のように答えた。ふふっと笑い声まで零している。
 
 
「だから、貴方のような人が真砂の傍にいてくれたらとても嬉しいです」
 
 
 鈴が鳴るような澄んだ声だった。静かなのに優しい。そうして、仄かに切ない。則子さんは真砂さんをまだ愛しているんだと思った。真砂さんも則子さんを愛している。だからこそ、則子さんに見せつけるように喜一にキスをしてきたのかもしれない。則子さんが未練なく別れられるように、最低な男を演じようとしているのではないだろうか。もしそれが事実だとしたらあまりにも悲しい。お互いに好き合っているのに、どうして離婚しなくてはならないんだろうと喜一は一瞬考えた。
 
 則子さんが口元に掌を寄せて、小さく笑う。
 
 
「真砂に首を絞めさせてくれるからそう言ってるんじゃないんですよ」
「それ、真砂さんからも言われました」
 
 
 夫婦揃って同じようなことを言うんだなと思って、切なくなった。
 
 真砂さんと則子さんが顔を見合わせて、一瞬だけ寂しそうな眼差しを滲ませる。そこには愛し合いながらも壊れゆく夫婦の悲哀があった。
 
 
「この人、酷いサディストですけど優しいんです。だから、どうか宜しくお願いします」
 
 
 サディストと優しいという言葉が同じ文章に同伴していることが不思議だった。だけど、真砂さんを見ていると、それがピッタリと当て嵌まった。真砂さんは優しい。首は絞めるし、セックスは正直悪夢のようだけど、優しい。それをこの人は知っているんだと思った。知っていて、別れると決意しているんだと。
 
 
「でも、俺は…」
「一方的なことを言っているのは解っています。ですが、貴方にお願いしたいんです」
 
 
 頭を下げる則子さんを見て、心臓が微かに軋んだ。お願いされたって困る。真砂さんのことは嫌いじゃないが、だからといって妻の代わりにはなれない。所詮、喜一と真砂は、身体を売る男とそれを買う客という関係でしかないのだ。そこに温かく、優しい家庭の匂いはない。
 
 
「なんで、俺なんですか?」
 
 
 則子さんの切実な瞳に呑み込まれそうになる。過度な期待が重く苦しい。俺は、ただの身体を売ってる男でしかないのに。則子さんがふっと口元を綻ばせる。
 
 
「貴方、さみしそうに笑いますね」
「え?」
「さみしさを知っている人は優しいです」
 
 
 だからです、と答えられる。喜一は顔が歪むのを堪えられなかった。涙ぐみそうになるのを隠したくて、車内から顔を背ける。
 
 途端、息が止まりそうになった。すぐ後ろに橘が立っていた。目を見開いて、驚いた表情をしている。微かに潤んだ喜一の瞳を見ると、橘は怒ったように目を細めた。橘らしくない乱暴な手付きで手首を掴まれる。
 
 
「橘さん?」
「喜一さん、行きましょう」
 
 
 固く鋭い、男の声だった。反論する余地もなく、手首を掴まれたまま強引に引っ張って行かれる。慌てて肩越しに振り返って声を上げる。
 
 
「あのっ、もう少し考える時間はないんですか? 一時間でも十分でも、二人でもう一度考えてください。それからでも、遅くないです」
 
 
 真砂さんが眼差しを曇らせる。そうして、静かに首を左右に振った。諦め切った仕草だった。
 
 遅くないです、まだ遅くないんですよ、そう何度も告げたかった。愛し合ってる夫婦が繋がっているなら、まだ望みはあるはずだった。好きな人をみすみす手放すなんて馬鹿を、自分以外の誰かにして欲しくなかった。残るのは後悔だけだ。だから、一度でも立ち止まって、二人で考えて欲しかった。二人で生きていく方法を。未来を。――でも、これは喜一の勝手な希望かもしれない。皆、誰かに自分の希望を押し付けようとしている。願いや祈りを。それが酷く遣る瀬無かった。
 
 
 ぐいぐいと引っ張られて、商店街の端まで連れて行かれる。細身な身体のどこにこんな力があるんだろうと思うほど、橘の手は力強かった。途中で手首の関節が痛み始めて、「橘さん、手が痛いです」と呟くと、慌てたように手を放された。
 
 
「す、すいませんっ」
 
 
 また元通り、気弱な男の顔に戻っていた。その事に、喜一は思いがけないほど安堵した。
 
 
「どうしたんですか? いきなり歩き出しちゃって」
 
 
 俯いた顔を覗き込んで問い掛ける。橘は打ちひしがれたような表情をしている。だが、意を決したように顔を上げると、一息に言い放った。
 
 
「あの人と、キスしたんですか?」
 
 
 あまりにも早口で言うものだから、初めは上手く聞き取れなかった。だが、橘が言っていることが解った瞬間、喜一は拍子抜けした気分になった。
 
 
「はぁ、しましたけど」
 
 
 頭を掻きながら、気の抜けた声で答える。車内に引き寄せられたキスされたと言っても、向かい側の橘の位置からなら殆ど丸見えに近かっただろう。だが、それが何だと言うのだ。たかだかキス程度で。今日は、真砂さんも橘も少し可笑しい。喜一の仕事を知っているなら、キスだってセックスだって当たり前のことだと解るじゃないか。
 
 橘の表情が歪む。まるで幼稚園児が泣くのを堪えているような表情にぎょっとする。
 
 
「どうしたの? なんなら橘さんもキスする?」
 
 
 冗談めかして言ったのに、橘の顔はますます歪むばかりだ。
 
 
「そういう事じゃないです…」
 
 
 ぐずと鼻まで鳴らし始めた橘を、商店街の看板の影へと慌てて連れて行く。宥めるように背中をゆるゆると撫でていると、ようやく落ち着いたのか橘がゆっくりと顔をあげた。
 
 
「僕は…何がしたかったんでしょうか…」
 
 
 途方に暮れたように呟くから、どっと疲れてしまった。
 
 
「そんなの俺に聞かないでよ」
 
 
 呆れ半分で呟くと、またくしゃりと顔を歪める。悲しげな顔を見ていられなくて、よしよしと頭を撫でる。そうしていると、まるで迷子の子供を相手にしているような気分になってきた。
 
 
「解らないんです。ただ、とても嫌だったんです…」
「イヤ?」
 
 
 涙ぐんだ橘が喜一を見詰める。だけど、何も言わない。一途な視線が苦しくて、意味もなくピアスを指先で弄くる。そうしていると、不意に橘が呟いた。
 
 
「少し、ここで待って貰ってもいいですか?」
「え、あ、はい」
「すぐ戻りますから」
 
 
 そう言うと、橘は身を翻して元来た道を一人で走って行ってしまった。その背を、ぽかんと眺める。随分と忙しない人だと思う。突然人を引っ張って来たと思ったら、今度は置き去りにして一人で行ってしまう。涙ぐんで嫌なんだと訴えかけて、だけど何が嫌かもハッキリ言わない。橘自身、きっと自分の感情を上手く理解していないのだろう。
 
 橘に掴まれた手首がぢんぢんと微かな熱を持って痺れている。可愛らしい顔をしているのに、真剣な眼差しをすると途端男の顔になる。怒った表情には、噎せ返るような雄の臭いが感じられた。セックスの時も、あんな風なのだろうか。優しくて、でも強引に、奪うみたいに。
 
 夢想しながら、痺れる手首へと軽く唇を押し当てる。熱が唇の表面に淡く広がって、ときめくように胸が跳ねた。
 
 
「…女じゃねぇんだからさぁ」
 
 
 一人でぽつりと呟いて、一人で皮肉する。
 
 橘がどんな風に女を抱こうが、喜一には一切関係ない。むしろ、関係してはいけない気がした。正しい世界に生きる橘と、ただ暗く沈んでいくだけの自分とでは余りにも不釣り合い過ぎる。悪戯にキスをしてしまったのも間違いだった。初めから、自分みたいな汚れた人間が触れていい相手ではなかったのだ。
 
 橘が戻って来たら、もう店には来ないように頼もう。そんな事を頼むこと自体、喜一の思い上がりかもしれないが、それでもあの優しい男は断らなければ何度でも喜一に会いにきてくれるような気がした。
 
 
「やさしいは、さみしい」
 
 
 ふと、檸檬ちゃんが言った言葉を思い出す。優しい客にあたるほど寂しくなる。本当だね。だからかな。橘と会えなくなるのがこんなにも苦しい。そう思ってしまう自分自身に、喜一は酷い悲しみを覚えた。
 
 

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